逗子市披露山公園の七曲坂古東海道

神奈川県逗子市披露山公園の七曲坂と呼ばれる古東海道跡と伝わる道

平成15年1月・4月


古代律令時代の官道で都から東へ向かう道は、中部の山地を通るものが東山道と呼ばれ、日本海沿岸を北上するものが北陸道といい、そして南の太平洋沿岸を進むものが東海道という道でありました。今日、一般に東海道といえば安藤広重の浮世絵で知られる東海道五十三次のルートを思い浮かべる人がほとんどと思われますが、東海道という道の語源は遙か奈良時代の昔からのものであって、その当時の東国(関東)へ向かう太平洋沿岸の幹線路を江戸時代の道と区別するために古東海道と呼んでいます。

古東海道は足柄峠から関東へ入り、相模灘に沿って東行し鎌倉へ入っていたと想定されています。鎌倉からは小坪坂を通り、現在の逗子市を抜けて走水(横須賀市)の海岸へと進みます。そこから東京湾を渡り房総半島へ上陸していったといいます。

逗子市の披露山公園展望台東の駐車場脇から新宿へと下る山道が現在します。この道は深い薬研堀状の道で途中幾つか曲りくねりながら急坂を下って行きます。大凡200メートルほど全く昔のままの状態で残されている部分があり、そこを尋ねてみることにしました。


披露山公園の七曲坂・古東海道その1 地図はこちら

逗子市の披露山公園の西側には、逗子披露山公園住宅という高級住宅地となっています。この付近の高級住宅には有名人の住宅もあるそうです。広い土地にモダンで瀟洒な建物が並ぶ宅地街は私には眩し過ぎて、このような住宅には一生掛かっても住むことはできないだろうと思いながら通り過ぎて行きます。住宅地の中央東西方向の道の東端の辺りには駐在所があり、その付近の南側山林内に古道跡があるというので上がってみると左の写真のところに出ました。

そこにはブロックで囲まれた中に石仏が3体置かれていました。お地蔵様と庚申塔のようです。このような石仏があると近くに古道が通っていたことが窺われます。石仏が有るところの奥には、道跡のような地形が確認されます。そこの中へと進んで行きます。

おっ。道跡のようなところに近づいてみると、これは掘割道のような感じの道と思われます。上の写真はどうでしょうか。なかなか良い雰囲気が伝わってきます。ここまで高級住宅地の中を歩いて来て、古道が果たして残っているのか不安になっていたので、写真のような道が目の前に現れて大変喜んでいる私でした。しかし喜んだのも束の間で写真左側の土盛りのすぐ後ろは駐車場のようになっていて車が数台留めてあるのでした。

上の2つの写真は石仏のあるところから50メートルほど進んだところを撮影したものです。道の左手は切り落とされ、すぐ下は例の車が留められているところです。左上写真を見るだけであれば樹林の中の山道のようにも見えますが、実際は写真の左手に車が並んでいます。右上写真は坂が急になったところの路面を撮影したものです。路面の岩は人馬の走行により平に摩滅しているようにも見えます。

ところで逗子という地名について『逗子市史』に、辻子(逗子)と辻(つじ)の意味を分け、辻子は通りぬけることができる路で、辻は二つの道が交差するところと説明し、「当市の“ずし”はまさしく、古東海道沿いの鎌倉から三浦半島へ通り抜けできる所であり、分岐点という意味にかなう、日本歴史上で重要な地名ということになる。」と書かれています。

左の写真は上の2つの写真から直ぐのところにある披露山神社です。祭神は大山祗神・稲荷大明神とあり、「倶に人々の生活に深く関わり安寧と繁栄を司る守護神である」ということです。
披露山公園付近の台地では縄文・弥生・古墳時代の遺跡が多く確認されているようです。山の斜面には古墳時代の横穴群もあり、直刀、金環、こはく、めのう、水晶などの玉類が発見されていて、有力者の住居を物語ると『逗子市史』にも書かれています。

右の写真は披露山神社の先で披露山公園駐車場へ向かう舗装路と合流したところです。現在では変則十字路のようになっています。写真の左から奥への道の角に庚申塔が立っています。更にその奥に墓地と観音堂と称する小さなお堂があります。お堂前のこの道をしばらく進むと直ぐ右手に溜め池が現れ、こんな高所のところに不思議な位に水が溜められています。この辺りは街道沿いの高所でありながら人が集まり住みやすいところであったと窺われるのです。

左の写真は披露山公園駐車場へ向かう道で、道の右手は岩が削られていて、鎌倉切通などを連想する趣があります。そして写真の道が古道が通っていたところと思われるのです。写真のところから駐車場までは直ぐそこです。

披露山公園は逗子市でも知られた公園で公園の展望台からは相模灘の海が一望でき、天気の良い日には江ノ島から富士山までが見渡せ、反対の南東方面では鎧摺、森戸などの海岸が眺望できます。

上の写真は変則十字路の角にある庚申塔(右)と、その奥の墓地(左)です。墓地の墓石の中に中世まで遡るようなものがないかと探してみましたが、残念ながら全て江戸期以降のもののようです。しかし、庚申塔が有り墓地が有ることで、ここが街道沿いで人の営みが付近にあったことを物語ります。

披露山公園の展望台近くにある説明版に次のように書かれています。
「披露(ヒロ)の地名は鎌倉幕府がその威光を示す為に献上された貢物を時の諸将に披露した地であったとの由緒に基づくと伝えられている。一説には幕府高官の四季の宴が催された地と伝えられている。」

地曳き引く霞のなかのさくら鯛
小壺の浜の春の朝なぎ

この歌は源頼朝が小坪付近の海ではサクラダイがよく獲れたことから詠んだものだといわれ、小坪東方の高台で披露したというものです。そしてその高台を披露山と呼ぶようになったと伝えているそうです。又一説には頼朝がこの地に遊覧した時に村人が茶壺を献上して、その茶壺が頼朝に披露されたところが披露山であったとも言われているようです。

右の写真は展望台から撮影したもので、江ノ島、富士山、稲村ヶ崎が一望できます。

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