若宮大路・・・・その4

若宮大路はどんな造りであったのか
発掘調査で確認された若宮大路は両側に幅約3メートル、深さ約1.5メートルの木組みの溝枠を持つ側溝がありこの両側の側溝の間隔は約33メートルであるそうです。この33メートルという数字は約11丈でこの11丈が鎌倉の町割の基本単位であることもわかってきているようです。前のページで若宮大路には三っの下馬とよ呼ばれた東西道が交差する地点があったことを説明致しましたが、最近の研究ではこの三ヶ所の下馬を境に若宮大路の構造が大きく違っていたことが指摘されています。両側に3メートルの側溝を持た33メートルの若宮大路は中ノ下馬から上ノ下馬迄の区間と思われこの区間は東側に幕府の御所や執権邸があり鎌倉の町の中心的特別な場所であったと考えられているところなのです。

上の写真は現在の鎌倉警察署前でこの付近の若宮大路の東側は大路よりも高くなっているそうです。若宮大路は全体的に道の東側が西側より高くなっているといいます。一説に鎌倉七口と呼ばれる鎌倉への出入り口が町の西側に五つあり東側は二つしかないことからもわかるように、鎌倉が攻められるとすれば西側から攻撃されると考え、鎌倉の町中に敵の侵入を許しても若宮大路が最後の防衛線を果たしたという説があります。若宮大路が大きな側溝を持った広い道で横切る場所が三ヶ所の下馬しかなかったことなどがそれを裏付けているともいいます。


鎌倉時代の若宮大路がどのような構造と特徴があったのか、雪ノ下一丁目での発掘された遺構の事例などからもう一度まとめてみましょう。

  • 若宮大路の道幅は両側の側溝間から約33メートルであったと考えられている。
  • 両側の側溝は箱形または逆台形で、幅が約3メートルで深さが1.5メートルもあり側溝というよりも堀のような大きさである。
  • 側溝底には角材が線路のように置かれその角材には柄穴(ほぞあな)があり、その穴に束柱(つかばしら)を立て側壁には土止めの横板があてがわれている。
  • 側溝の底からは橋脚の基礎と思われる礎盤(そばん)が検出されている。
  • 側溝の外側には柱穴列があることから築地塀のようなものがあったらしい。
  • 若宮大路に面した屋敷は大路を背にして建てられていて、大路側には入口はない。また屋敷の建物と大路の間だは一定の空間がある。
  • 若宮大路は鶴岡八幡宮の参詣路と鎌倉の中心軸であることは間違いないが、広い道幅と大きな側溝は街中の防衛ラインとする説もある。西から攻められたときのために御所などの施設や有力御家人の屋敷が大路の東側に築かれ西側より高くなっている。また大路を跨ぐ場所は三つの下馬しかない。
  • 鎌倉は京都のように若宮大路を基軸とした碁盤の目のような町割にはなっていなかったようだ。
  • 街火災のときに若宮大路を越えて延焼した例はなさそうだ。
  • 鎌倉時代以降は大路の内側に住居が入り込み道幅が狭められていく。

上記以外にも資料には若宮大路の特徴や構造について説明したものはありますが、専門的になるものはここでは省かせていただきました。


産女霊神の大巧寺
上の写真はJR鎌倉駅から若宮大路で出た付近にある真新しい石碑と大巧寺(だいぎょうじ)への裏口です。真新しい石碑は日本の桜名所100と若宮大路の文字が刻まれていることから若宮大路が桜の名所になっていると思われます。ただ段葛の桜は明治時代の写真には無く古い物ではありません。写真の右側の碑は大巧寺のもので安産子育産女霊神長慶山大巧寺と刻まれています。またこの碑の側面には源頼朝軍評定旧址と刻まれています。大巧寺は元は十二所(朝比奈切通の手前)にあったお寺で大行寺といいました。頼朝が鎌倉入りした当時にこのお寺で軍議がおこなわれたという伝承があるそうです。

大行寺は大巧寺に改められ後に現在の地へ移転してきたものです。また大巧寺は「おんめさま」と呼ばれ「お産女さま」として安産の守り神としても知られています。安産のお寺と伝えられるところには次のような言い伝えがあります。昔、小町大路の夷堂橋付近に難産で亡くなった女性の幽霊が出るといわれていました。大巧寺の日棟上人はこの幽霊に出会い哀れに思い成仏させるために読経をしてその功徳によって死後の苦しみから逃れた女性は産女霊神になったといいます。上の写真は大巧寺の本堂を撮影したものです。
若宮大路はその南でJR横須賀線のガードをくぐり左の写真の下馬交差点にでます。

下馬交差点(下ノ下馬跡)
下馬交差点で若宮大路を横切る道は県道鎌倉葉山線で西へ向かうと六地蔵を経て長谷寺前まで続いています。この間は由比ヶ浜大通り又は長谷小路とも呼ばれています。一方の東に向かうと大町を経て名越トンネルを通り逗子市へ続きます。近年の調査では二ノ鳥居よりも海側の大路は現在の道よりも狭かった可能性が指摘されています。明治時代の下ノ下馬付近を撮影した写真が残っていてそれを見ると段葛の続きと思われる土手が下ノ下馬まであったことがわかります。また明治時代の若宮大路の写真を幾つか見ると道の両側に松並木もあったことがわかりますが、松並木がどこからどこまであったのかはよくわかりません。

現在の下馬交差点の南西角に上の写真の若宮大路の説明板があります。その説明文をここで引用させて頂くことにしましょう。
治承4年(1180年)鎌倉に入った源頼朝はこの地を政治の中心地として、鎌倉幕府150年の基礎を築き、翌々年、八幡宮と由比ヶ浜を結ぶ道を一直線に改修しました。それが若宮大路の始まりだといわれています。大路の中央部は「段葛」と呼ばれる一段高い参詣道となっており、頼朝が妻政子の安産祈祷のため造った貴重なものです。また、ここ下馬交差点は、かっては下ノ下馬と呼ばれ駒留があった場所で、参拝者は皆ここで馬から下りたといわれます。
中世の都市計画によりつくられた若宮大路は、時代の推移とともに改修・補修が行われ、今なお古都鎌倉のシンボルロードとして生き続けています。若宮大路とその周辺地区は、神奈川県の「うるおいあるみちづくり事業」や鎌倉市の「洋風建築物保存事業」などにより、優れた都市景観が形成されていることが評価され、平成5年度の都市景観大賞を受賞しました。

若宮大路は歴史ある古都鎌倉のシンボルロードということですから市や行政が大切に扱ってくれていて都市景観というものを重視していることがうかがわれます。ところがホームページの作者は関東各地の鎌倉街道を尋ね歩いていて感じることは、地方の都市計画事業に歴史ある古道を生かす例が極めて少ないことです。街造りに生かすどころか古道はやっかい物とされていて史跡としても認めていただけないところが多いようです。古街道が都市景観として役立てていただけないことが大変残念に思っているところです。

現在の平和で豊かな時代へと導いてくれた過去の人々の努力の賜物である歴史遺産を守るという心が現代人には非常に欠けているように思われます。過去などどうでもいい。今が大事と思われている方。長い間に先祖が築きあげてきたもののうえに現在のあなたがいるわけです。過去を大切にできなくてどうして今を大切にできましょう。私自身も今を大事と思う人間ですが、過去を顧みないで今が大事という言葉の中に我が儘な無責任的なものが含まれているように感じられるのです。私はこの説明板から都市景観の大切さを改めて実感しています。現代人の都合だけで魂の中に築かれた景観を抹殺してしまってよいものなのでしょうか。

話が私の個人的な感情へ逸れてしまいました。若宮大路の説明に戻りましょう。『新編鎌倉志』の一部を引用させていただきます。
「二・三の鳥居の間の路、古は外の方へ曲て、琵琶の形の如し。故に琵琶小路と云。此間に橋あり。琵琶橋と云。或記に云、昔和田合戦の時、宍戸左衛門家政、琵琶橋に於て、朝夷名義秀と戦ふて討ると、大鳥居より波打際まで五町あり。」

この記事から二・三ノ鳥居(現在の一ノ鳥居と二ノ鳥居)の間はかって琵琶小路と呼ばれていたことがわかります。そして琵琶橋という橋もあって、ここで和田合戦の時に宍戸家政と朝比奈義秀が戦ったということです。琵琶橋は下ノ下馬橋と同じものだとする説もありますが、現在は下馬交差点より海側にあり、佐助方面から流れてくる川に架かる橋です。琵琶小路という名前の由来には幾つかあって実際に楽器の琵琶の曲線のように屈曲していた道であったとか、また、ここに弁財天の祠があってそれを避けるために道が曲がっていたとかの言い伝えがあるようです。

浜の大鳥居跡が発見された場所

浜の大鳥居跡
上の写真と下の写真は平成2年に若宮大路修景工事に伴う発掘で発見された「浜の大鳥居」の場所とその説明版です。この場所は現在の一ノ鳥居の北180メートル位置にあります。浜鳥居は治承4年(1180)の建立以来、数度の建て直しが行われたことが文献に残っているそうです。浜の大鳥居についてはかって由比ヶ浜の海中に倒れて今も残っているとか、ダイバーがその鳥居を見たとかいう噂があったといいますが、ここで大きな鳥居の柱根が発見されたことから、これこそが浜の大鳥居であったと考えるのが妥当と思われます。

発見された鳥居の柱根は、直径160センチで、芯材、中間材(8個)、外周材(17個)からなる寄木造りで、各材は契(ちぎり)技法により結合されているとあります。また、地下160センチで南北方向の梁材を通しているようです。材質として本体部はヒノキで、結合材はケヤキだそうです。この鳥居柱根がいつ建てられたものなのかは出土遺物から天文22年(1553)に北条氏康によって造立されたものの可能性が高いといいます。『快元僧都記』によると天文4年(1535)に安養院の僧玉運が瑞夢を見て浜の鳥居再建の発願を決意したとあり、上総峯上(現千葉県富津市)で用材を得て海路運搬したそうです。この柱根から当時の鳥居の高さは16メートルで現在の一ノ鳥居の二倍の大きさであったようです。

右の写真は浜の鳥居跡のすぐ南側の信号のある交差点です。ここには若宮大路で唯一の歩道橋が架かっています。歩道橋に上がれば若宮大路を高いところから眺めることができます。写真の松の木の辺りに大きな鳥居があったことを想像して見ると大路に沿った街並み全体が中世のものに変わって見えてくるのは面白いものです。中世の鎌倉についての知識があればこそ見えてくる景観です。中世の歴史知識が無い人は、あそこのお店は何々が美味しいとか…、そういう見方がいけないとは申しません、それも鎌倉散策の楽しみではありますが?

下ノ下馬橋付近での小山氏と三浦氏の喧嘩
『吾妻鏡』に下ノ下馬付近のようすを記したものが出ています。仁治2年(1241)に小山氏一族と三浦氏一族が喧嘩をしたというもので、三浦一族郎党は下ノ下馬橋西頬の好色家に於いて酒宴乱舞会を催し、小山一族も同東頬に於いて興遊を催していました。時に上野の十郎朝村(小山朝広の弟朝村)が座を立って、笠懸の為に由比ヶ浜に向かうところで、先ず門前にいた犬を射たところが誤って三浦一族の宴席へ矢が入ってしまいました。小山氏側は矢の返却を求めましたが三浦氏側はそれに応じません。そこで両家は大喧嘩となったというものです。執権北条泰時は驚き、佐渡前司基綱 と平左衛門尉盛綱等を仲裁役に使わし両者の紛争は治まったというものです。

この記事から下ノ下馬橋には好色家(遊女屋)があったことがうかがへ、聖なる道の若宮大路も下ノ下馬付近ではある研究者の言う「俗臭にみちたメインストリート」であったとも考えられているようです。

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