若宮大路・・・・その3

段葛は桜とツツジが有名
現在の段葛は道の両側は桜並木になっています。そして桜の木の根本の低いところは右写真のようなツツジが植えられています。段葛の道はいつ来ても綺麗に清掃され歩いていてとても気持ちの良いものです。人の少ない朝早い時間にここを一人で鶴岡八幡宮へ向かって歩いていくと、まるで自分の為にこの道があるような錯覚を憶えます。段葛の研究資料の中に京都の大内裏と陽明門との間に置路と呼ぶ通路があり、その上は高貴な人のみが歩くことが原則であって、段葛はそれを模倣して造られたとする説がありました。

これはあくまでも素人の想像です。私が考える鎌倉時代の段葛は広い若宮大路の中央(人がよく通るところ)に泥濘を避ける目的で人が歩きやすいように石敷きをしただけのものではなかったかと考えるのです。そのようなものならば実際に由比ヶ浜まで造られたのかも知れません。海に近い側は一般庶民が住む空間であった為に頻繁に改築され今は何も残っていないのではなどと考えます。鎌倉の街中は鎌倉時代には低湿地であったとされています。一度大雨などが降ると若宮大路は水溜まりが出来て歩きずらかったので真っ直ぐな参詣道を造ったときに歩きやすいように中央部に石敷きも造ったのではないかと想像しています。それが時代を経て現在のような一段高い立派な段葛となったと考えるのは如何なものでしょうか。

ツツジの花が咲いている季節の段葛

二の鳥居から始まる段葛。

考古学では一般的に千年で1メートル塵が堆積するといわれます。千年前の地面は現在の地表の地下1メートルのとことにあるというわけです。鎌倉の市街地は現在でも海抜10メートル以下で800年前の鎌倉時代初め頃の遺構は低いところでは海面と同じ高さのところと考えられますから800年も経っていると河川の流失等で残っていない可能性が大きいのです。現在までに段葛の遺構として僅かに河原石の玉石を敷きつめた層が確認されているだけのようです。これが鎌倉時代の段葛だとハッキリ言えるものは見つかっていないようです。

左の写真と下の写真は共に二ノ鳥居を撮影したものです。

時代による町割の違い
鎌倉時代初めに造られた若宮大路は湿地帯であったところに土石を運び微高地状に築いていると考えられます。鎌倉初期の若宮大路から東西に向かう溝は東西方向に流れて(大路の外の東西の方向が低い)いるそうです。この時期の溝は大路に対して斜行していたようです。それに対して鎌倉時代後期になると東西方向の溝は若宮大路側へ流れていき溝も大路と直角にぶつかるそうです。鎌倉時代初めと後期では大路に沿った町割の形態は異にしていたようです。若宮大路を基軸とした町割は鎌倉時代後期に出来上がったらしいのです。

若宮大路の幅はどのくらいか
左の写真は二ノ鳥居前の狛犬の後ろから若宮大路の南側を撮影したものです。現在の段葛はここまでで総延長が540メートルだそうです。さて、若宮大路自体はどのくらいの幅の道であったのでしょうか。それが発掘調査などから何と現在の両脇の歩道を含めた幅よりも広い33メートルという数字が出てきています。また場所によっては60メートルというのもあります。この狭い鎌倉で33メートルの道とはえらく広いようですが、若宮大路は京都の朱雀大路に擬えた道ですからそのくらいはあったのかも知れません。因みに平安京の朱雀大路は幅約85メートルあったといいます。

三ヶ所の下馬
若宮大路には下馬と呼ばれる大路を横切る地点(橋)があったといいます。参詣者はその横切る地点で馬を下りなければいけなかった(駒留)ことからそれを「下馬」と呼んでいたそうです。下馬は三ヶ所あり南側(海側)から下ノ下馬、中ノ下馬、上ノ下馬としていて、現在下ノ下馬は長谷方面から名越への道が交差するところです。中ノ下馬は二ノ鳥居付近です。上ノ下馬は三ノ鳥居付近(赤橋とだぶる説もある)で現在の横大路が交差しています。
右の写真は小町2丁目の雪ノ下カトリック教会と鎌倉彫会館の間だの道を大路から東へ入った先にある稲荷社でここは北条泰時の代に大倉から移ってきた御所があったところで、この御所を宇都宮辻子御所と呼んでいます。

若宮大路-3   次へ  1. 2. 3. 4. 5. 6.