若宮大路・・・・その1

若宮大路-二の鳥居から段葛

若宮大路

湘南の古都鎌倉といえば誰もが頭に思い浮かべるのが鶴岡八幡宮と若宮大路、それから鎌倉大仏ではないでしょうか。今回ご紹介する若宮大路は説明するまでもなく鶴岡八幡宮の参道であり、現在でも鎌倉の町を構成する中心軸となる道です。治承4年(1180)に源頼朝が鎌倉入りしてから2年後の寿永元年(1182)に若宮大路が造り始められたことが文献に見られます。その後の現在に至るまで、鎌倉のメインストリートとして数々の物語がこの道で繰り広げられてきています。

現在の若宮大路は車道として舗装され、道の両側の歩行者路も広く綺麗に整備されています。これから鎌倉時代とその後の中世、更に近世までの若宮大路はどのような道であったのか、遺跡の発掘調査報告書や歴史の先生方が書かれた書籍を参考にホームページの作者がまとめてみました。

そして「道」のホームページのテーマである、古道から何か見えてくるものはないか、そんなものなどをご紹介していきたいと思います。


『吾妻鏡』
寿永元年(1182)三月十五日条
「鶴丘社頭より由比浦に至るまで、曲横を直して詣往の道を造る。是日来御素願たりといえども、自然日を渉る。而るに御台所御懐孕の御祈に依る故に、此儀を始めらるるなり。武衛自らこれを沙汰せしめ給う。仍って北條殿已下、各土石を運ばる。 」

上記の『吾妻鏡』の文章は鶴岡八幡宮から由比ヶ浜までの曲がった道を整備して「詣往道」を造ったことを記したもので、この道は頼朝が妻政子の安産を祈願して北条時政以下の御家人とともに土石を運んで築いたものであるということです。

この『吾妻鏡』で語られている「詣往道」とは若宮大路と段葛(だんかずら)のこととして一般によく知られています。若宮大路は平安京の朱雀大路を手本として造られたといいます。東国武士の都である鎌倉は「鎌倉城」という言葉があるように、三方の丘陵上には中世的城郭遺構と考えられてきている堀切や平場などが随所に見られます。また鎌倉の出入り口としての「鎌倉七口」は狭く屈曲した道になっていることから鎌倉の防御施設とも考えられています。しかし、鎌倉の平地の中心部は京都を意識した町造りとなっていたことは若宮大路の直線的な造りからうかがうことができるのです。

それでは若宮大路を鶴岡八幡宮から由比ヶ浜へ向かって見ていきましょう。

鶴岡八幡宮
治承4年(1180)に千葉常胤の進言により鎌倉入りした源頼朝はまず由比(材木座)の鶴岡八幡社(元八幡)を小林郷北山(現在の若宮の辺り)に遷しています。源頼義が前九年の役の平定後に石清水より勧請したという由比の八幡社は頼朝が鎌倉に入った当時は荒廃していたと思われ、また敬神崇祖の念厚い頼朝自身はこの地を本拠とするからには信仰のより所として源氏の氏神である八幡社を適切な場所に遷宮する必要を感じていたのかも知れません。この遷宮の場所は陰陽道の四神相応に基づいているともいわれています。
遷宮後には「鶴岡八幡新宮若宮」と呼ばれていて当初は松の柱に萱葺きという粗末なものであったようですが養和元年(1181)に武蔵国浅草の大工を召し寄せて新しい社殿を造営したとあります。7月の上棟式で大工に俸禄として馬が与えられることになります。この時に馬の引手を頼朝から命じられた義経が快く引き受けなかった話はよく知られていて、この当時から頼朝と義経の関係は離れていくものがあったのかも知れません。

鶴岡八幡宮の上宮楼門前から石段下を望む

将軍実朝暗殺の現場
上の写真と左の写真は鶴岡八幡宮の上宮に上る石段です。石段を数えたことはありませんが資料によると61段あるそうです。そしてここの石段と石段西側の大銀杏が公暁による実朝暗殺の現場であることは多くの人に知られているところです。承久元年(1219)1月27日、実朝の右大臣就任の拝賀式の日は雪の夜となりました。石段を降りてきた実朝を「父(頼家)の敵」と石段脇から突然出てきた公暁が斬りかかりました。雪の石段は真っ赤な血に染まったことでしょう。実朝の死によって源氏は三代で断絶してしまいました。建久3年(1192)の鎌倉幕府成立からわずか27年目でした。

鶴岡山八幡宮寺
一般にはあまり知られていませんが鶴岡八幡宮は明治維新の神仏分離政策以前までは山号を持ちお寺とお宮が一緒になった神仏習合の寺院であったのです。明治初め頃の写真が残っていて、薬師堂、護摩堂、大塔、経蔵、仁王門などが当時は存在していたのでした。また現在の上宮の北西付近には二十五の僧坊もあったのです。実朝を暗殺した公暁も二十五坊の別当(僧職)でした。この二十五坊のあった谷は夏に使う雪を貯蔵する雪室(ひむろ)があってこの辺り一帯を「雪ノ下」と呼ぶようになったとも伝えられています。

上の写真は鶴岡八幡宮の舞殿(下拝殿)で手前の石段辺りにかっての仁王門があったのではないでしょうか。鶴岡八幡宮の舞殿といえは義経の愛人である静御前を思い出します。静御前は鎌倉軍によって捕らえられ鎌倉に連行されていました。舞の名人である静の舞を政子が所望したので八幡宮の回廊で披露し、「吉野山、みねの白雪ふみ分けて、いりにし人のあとそ恋しき」と歌い頼朝は激怒したといいますが政子が宥めたこともよく知られる話です。現在の鶴岡八幡宮の建物は若宮社殿が寛永3年頃(1626頃)に改修されたもので、上宮の建物は文政4年(1821)正月の火災後に再建されたものがほとんどのようです。

左の写真は舞殿から赤橋までの広い参道です。参道の両脇は休日には沢山の屋台が並び賑わいます。

火災後に建てられた上宮(本宮)
話は戻って養和元年(1181)に建設された「鶴岡八幡新宮若宮」は建久2年(1191)の火災で焼失してしまい、このときに頼朝は残った礎石を拝して涙を流したといいます。ところでこの若宮創建期のものと思われる参道の遺構が発掘されていて、幅が2メートルで泥岩塊を敷き詰め、中央部には幅50センチ、深さ5〜10センチの溝があったそうです。
さて若宮焼失後早々に現在の上宮(本宮)の地に鶴岡八幡宮は再建されます。あえて狭い山の中腹に社殿を建てたのは町の火災の影響を避けるための知恵と考えられています。また御神体も改めて石清水八幡宮から勧請され上宮・若宮などからなる現在の規模の原型が造られたといいます。因みに祭神は上宮は応神天皇で若宮は仁徳天皇となっています。


源氏と八幡信仰

ここで源氏と八幡信仰について少しふれてみたいと思います。源氏の氏神が八幡神であることはご存じの方も多いと思います。そのようになった経緯というのは幾つかの説があります。一般に八幡神は戦いの神ともされていますが、八幡神と武神とが結びついて発展していくところは大和朝廷の発展と統一が何か結びついているようにも思えます。

九州大分県の宇佐神宮は一地方の神でしたが朝鮮半島からの渡来文化や技術を吸収していき、特に仏教との結びつきをいち早く取り入れた神であったと思われます。奈良時代に大仏造営などを支えた国家鎮護神となり神仏習合の信仰を得て「八幡大菩薩」とも呼ばれるようになります。

平安時代に東国で平忠常の乱が起こりこれを鎮圧したのが清和源氏の流れの源頼信でした。このときからすでに源氏と東国武士団の関係は築かれ始めていました。源頼信は河内(大阪)主に任ぜられ、その地を拠点としていて河内源氏とも呼ばれています。その地には壺井八幡宮というのがありますが、そこから近いところに応神天皇陵と伝わる御陵があったことから頼信自身何らかの影響を受けたのかもしれませんが、頼信は永承元年(1046)に石清水の神前に告文を捧げています。

告文は頼信の孫の義家元服の翌年のものといい、義家は石清水の神前で元服していますが、その時に「八幡太郎」と号していることは知られています。頼信の告文は八幡大菩薩(応神天皇)は頼信自身の氏祖で頼信の子孫は石清水の氏子となることを定めた内容であるようです。また、この告文には頼信は陽成天皇から出た源氏であると書かれていることから、頼信を清和源氏とする人からは認められないものともいわれます。

ここでは源氏と八幡神との拘わりについてふれるので陽成天皇か清和天皇かについては深くは追求しませんが、頼信の告文は頼信自身の先祖は八幡大菩薩であるということと、頼信の子の頼義が鎌倉の由比に石清水から勧請したという元八幡社を建てていること、そしてその子孫の源頼朝が鶴岡八幡宮を建設した経緯は何となくご理解いただけるのではないでしょうか。

その後の武家政権とともに八幡社は全国各地に広まり、元寇の時には八幡神は神風を吹かせるなど武神として広く浸透していったと考えられます。


赤橋と和田合戦
上の写真は源平池に架かる太鼓橋の西側の赤い欄干の橋です。右の写真は中央にある石造りの太鼓橋ですが現在では橋を渡ることはできませんので左右両側にある赤い欄干の橋を渡るようになっています。古い文献を見るとこの太鼓橋は「赤橋」と呼ばれていたことがわかります。そしてここは上ノ下馬とも呼ばれ和田合戦最後の激戦が行われた場所でもあります。和田方の土屋義清が甘縄から武蔵大路、窟堂道を通りこの赤橋にいた北条泰時を攻める直前に横矢を浴びて討ち死にした話しなどがあります。

この太鼓橋は三ノ鳥居から鶴岡八幡宮に入る表面の入口にあたり参詣者で大変賑わうところです。人が混み合うところが好きでない方は八幡宮に参詣するときは朝の7時半頃に来てみてください。この時間帯は静かな境内散策ができます。

源平池
左の写真は源平池に架かる太鼓橋と三ノ鳥居です。源平池について『新編鎌倉志』の記述を見てみます。
鶴岡八幡宮 弁財天社
略、鶴岡八幡宮の辺の水田(號絃卷田)三町余り、耕作の儀を停られて池に掘るとあり。池中に七島あり。相伝、頼朝卿、平家追討の時、御臺所政子の願にて、大庭平太景義を奉行として社前の東西池を掘しむ。池中の東に四島、西に四島、合て八島を、東方よりこれを減すと祝す。東に三島を残す三は産なり。西に四島を置。四は死なりと云心なりけるとぞ。

源平池は太鼓橋から西側が平家池で平家の赤旗に因み赤蓮を植えたそうです。『新編鎌倉志』に書かれているように島が四つあり「死」(衰退・滅亡)を表しているといいます。一方の東側は源氏池で源氏の白旗に因み白蓮を植えて、島は三っで「産」(生まれる・繁栄)を表しているそうです。現在では赤・白の蓮はハッキリしませんが島の数は数えてみれば確かに4つと3つがわかります。源氏池の島の一つには橋が渡されていて、その島には旗上弁財天が祀られています。その弁天社の背後には「政子石」と呼ばれる石があります。

源平池は元は放生池と呼ばれていて現在よりももっと広かったらしいのです。そしてこの池ができる以前には寿福寺から東に向かう窟堂道(いわやどうみち)と筋違橋(筋替橋)で結ばれる道が通っていたらしいのです。実際に地図を見てみると寿福寺から八幡宮へ向かう道は鉄の井のところで現在の横大路となり斜めに折れて宝戒寺前まで進み小町大路と接してそこで左斜めに折れ筋違橋に出ます。筋違橋から関取場跡までは直線でこの直線を西に戻してみるろ窟堂道に繋がり寿福寺前まで続いていることがわかります。この寿福寺前から関取場跡までの直線は正確な東西軸に近いようで、鎌倉幕府設立以前の古い道と考えられるのかも知れません。

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