釈迦堂口切通・・・・その4

日月やぐらから釈迦堂切通洞門上を通り再び戻ってきます。その途中から太鼓橋のある切通しの上へ上がる細道がありそこへ上ってみます。上った最高地点には休憩所(東屋)があり、そこからの眺めは北側が杉本城跡の尾根や稲葉越あたりの山々が見渡せるのですがパノラマというほどのものではありません。また南側は樹木の影でほとんど眺めはありません。左の写真は休憩所の東にある太鼓橋です。この橋の下が切通しになっているのです。この朱塗りの欄干の太鼓橋はいつ頃架けられたものなのでしょうか。近現代のものであることはわかりますが、休憩所やこのよな太鼓橋があるということは付近がかっては散策所であったことがうかがわれます。

釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷を分ける尾根の堀切

朱塗り欄干の太鼓橋は渡って大丈夫なのでしょうか。ここは近年人があまり入っていないので、太鼓橋は朽ち果てているのではないかと思うと渡るのに勇気がいります。できるだけ振動をあたえないでいっきょに渡り終えます。そのため橋上からの眺めは記憶にありません。

釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷を分ける尾根の堀切

太鼓橋を渡って少し上ったところに最高地点があります。そこから北側へ尾根が一本延びています。その尾根を境に西側が釈迦堂ヶ谷で、東側が犬懸ヶ谷になっています。そしてこの北へ延びる尾根の付け根の位置に上の写真の堀切が現存しています。この堀切は近年「古都鎌倉を取り巻く山稜部の調査」で発掘されていて、開口部の幅約3メートル、基底部の幅1.8メートル、開口部から底面までの深さが3メートルの人工的に掘られたものであることが確認されています。さらにこの発掘で注目されることは、この堀切の堀底部から両側壁面に、柱を添え付けたような方形基調の堀り込みが確認され、その横に直径30センチ、奥行き19センチのピットが穿(うが)たれ、閂(かんぬき)を持つ木戸が存在したと推定されていることです。閂の位置から木戸により西(釈迦堂ヶ谷)から東(犬懸ヶ谷)への通行を止める意図が強くうかがえると報告されています。

上の写真の如く、現在この堀切は開口部だけ見ることができ、柱を添え付けた堀り込みの壁は枯葉で深く埋もれています。ホームページ作者はメジャーで堀切の狭い部分を計ってみると、ずばり報告書に記載されていたとおりの幅1.8メートルでした。ここに木戸があったというのであるならば、ここは尾根道を断ち切る堀切というよりは、谷と谷を結ぶ尾根越えの道があって、その道の切通しと考えることが妥当とも思われます。ただ道と考えると、現在この堀切の東西は急な崖となっていて、道を付けられる地形ではないことです。発掘調査では出土遺物はなく、遺構の築造年代は明らかではないようですが、素人ながら考えてみると、すぐ隣りの太鼓橋の北側の平場が近年に石切場であったと推定されていることから、かって堀切(切通)を通過する道が存在した斜面は後世の石切で削られてしまったのではないかということです。

この調査で確認されたこの堀切は専門家の方々にも注目されています。まず『新編鎌倉志』の犬懸谷附衣張山短尺石の次の記事を書きます。
「犬懸谷は、釈迦堂谷の東隣なり。土俗、衣掛谷とも云。此所と、釈迦堂谷との間に、切抜の道あり。名越へ出るなり。昔の本道とみへたり。【平家物語】に、畠山と三浦との合戦の時、三浦小次郎義茂、鎌倉へ立寄たりけるが、合戦のことを聞て馬に打乗、犬懸坂を馳越て、名越に出ると有。此道ならん。」
新編鎌倉志では犬懸谷と釈迦堂谷の間に昔の本道があり、平家物語に有る畠山と三浦の合戦の時に三浦小次郎義茂がこの道を通り名越へ向かった道であろうとしています。そしてこの道は研究者の言う「三浦道」とする考え方もあるようです。

『源平盛衰記』(巻二十一、「大沼遇三浦附小坪合戦事)
「和田小次郎義茂カ許ヘ、兄ノ小太郎人ヲ馳テ、小坪ニ軍始レリ、急キ馳せヨト、和平以前ニ云遺タリケレハ、小次郎イササカ公用アリテ、鎌倉ニ立寄タリケルカ、是ヲ聞驚騒キテ馬ニ打乗リ、犬懸坂ヲ馳越テ名越ニテ浦ヲ見レハ、四五百騎カ打圍テ見エケリ」
源平盛衰記には新編鎌倉志の記事通りのことが書かれています。

これらの文献記事からまとめると、釈迦堂ヶ谷から犬懸ヶ谷へ尾根越えの道があり、それは犬懸坂と呼ばれ名越方面へ通じる道であった。源頼朝が鎌倉へ入る以前の古い道で小坪合戦の時には和田小次郎義茂はこの道で小坪へと馳せ参じている。そしてこの道は近世の新編鎌倉志が書かれた当時までは存在していた。しかし現在ではその道筋は定かではない。近年釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷の間の尾根の堀切を調査したところ、木戸が設けられていた可能性が確認され、そこは切通しの道跡ではないかと考えられている。そしてここが新編鎌倉志でいうところの「昔の本道」であったかもしれない。ということになるようです。

ただ、昔の本道としては、幅1.8メートルの切通しでは狭いように思われます。この幅では馬一頭が通るのがやっとで、軍勢が駆け抜けて行けるような道ではありません。昔の本道と言い切れるものなのでしょうか。単に東西の谷に設けられた何らかの施設へ行き交うための通路であったとも想定されるのです。この堀切(切通状の通路)が本来設置された目的が判明するのは、今後の調査と研究にゆだねられているのです。

上記の堀切の尾根を北へ行けるところまでホームページ作者は行って見ることにしました。かなり危険をともなう単独行です。発掘調査された堀切から100メートルほど北へ進んだところに更に大きな堀切がありました。この大きな堀切も新編鎌倉志でいう「昔の本道」跡の可能性があるところです。この堀切を越えて、もう少し北へ行けば「釈迦堂東やぐら群」などがある平場が存在するそうです。しかし、この堀切はでごわそうです。底に下りて北へ上るのは良いのですが、帰りに北側から底へ下りられるだろうか。作者は断念してその堀切から引き返しました。

左の写真は発掘された堀切を上から撮影したものです。

北条時政南邸跡
右の写真は発掘調査された堀切のところから東西尾根道を東へしばらく進んだところにあるやぐらです。ここは北条時政南邸跡と呼ばれているところです。この写真では三つの穴が開いていて、やぐらが三穴あるように見えますが、実際のやぐらは二つのようです。風化などにともない、二つのやぐらの内部が崩れて一つの穴に繋がったものと思われます。或いは特殊な構造のやぐらであるのかも知れません。外から見た真ん中の穴はやぐらが造られたときにはなかったものかも知れません。後世に風化してできたものの可能性が考えられそうです。

左の写真は上の写真の右側の穴の内部を撮影したものです。三方壇(段)と、そこに設けられた納骨穴が確認できますが、石塔類はどこにも見られません。石塔類はもともとなかったのか、それともどこかへ持ちやられたのか? 下の写真はこのやぐらの内部から外を見たものです。やぐらの前に北条時政南邸跡の説明版がありますが、上半分が錆びていて文字が読みずらかったので内容はよくわかりませんでした。それにしてもこんな尾根の高所に武家の館があったと考えるのは不自然な気もします。水の確保が得ずらい場所で、平場もそんなに広くはありません。調査報告書には何か宗教等に関連した別の施設があった可能性が指摘されています。

 

北条時政南邸跡といわれるところのやぐら

 

北条時政南邸跡から東へも尾根道は続いていて、その先には休憩所(東屋)がありました。更にその先へも道は続いていましたが、作者はそこまでにして戻ることにしました。この尾根道は、以前は衣張山まで行けたそうですが、いまはその道も定かではないようです。また古い文献の名越への道とはこの尾根道であった可能性もないわけではありませんが、現在ではこの道はこの先で消えているようです。

左の写真は北条時政南邸跡付近から尾根の南側へ少し下りた付近のもので、ここには不思議に安山岩製で小形の五輪塔が並んで建てられています。

 

釈迦堂切通の上の尾根付近のやぐらや切岸の探索を終えて再び洞門を通過する道へ戻ってきました。右の写真は釈迦堂切通洞門の南側から釈迦堂切通方面(北側)を向いて撮影したものです。写真の道は比較的に直進性を持っています。切通洞門からの道なので古くからあった道だと思われます。

釈迦堂切通洞門上には、やぐら群や太鼓橋の架かる切通し、そして発掘調査された堀切など、見応えのあるものが沢山ありました。一般に公開されていないのは残念なことです。それもそのはず、現在では整備が行き届いていなく、落石や転落の危険がかなりあるところなのです。

 

最後に釈迦堂切通周辺の調査報告書に載っていた『としよりのはなし』という参考資料を紹介します。
「石屋は名越にかたまっていた。石ひろ、石とらさんなど十軒くらいはあった。名越の衣張、浄明寺などから石を切り出し、その石で橋、石垣や井戸側、台所の流し、建築の土台、へっつい、かまどなどが全部地石でつくられた。堅石(安山岩)は墓石ぐらいで、ほとんど鎌倉の山から切り出す石で間に合っていた。横浜がひらけるようになってから石の需要がぐんとふえて、鎌倉の石だけでは注文に応じきれなくなり、逗子の鷹取山の石を切り出し、それを浦郷におろしてそこから船で横浜へ運ぶようになり、ここらの石屋もそっちへ稼ぎにゆくようになった」

 

上の写真は一つ上の写真付近から南側の道を撮影したものです。写真の坂を下りた付近で左に行く道があり、その道は「黄金やぐら」の前を通り、名越切通方面や衣張山へも登れます。黄金やぐらは黄金(おうごん)が隠されていたというやぐらで……、というのは嘘でして、ヒカリゴケがコガネのように輝いて見えたので黄金(こがね)やぐらと呼ばれるようになったと伝えています。現在では残念ながらヒカリゴケも見られないどころか、歩いていてうっかり通り過ごしてしまうほど道脇の目立たないところにあります。

上で紹介した『としよりのはなし』では、横浜がひらけるようになってから、石の切り出しがいっそう増えたということですが、釈迦堂切通の周辺は近年まで石切が盛んであったことがよく理解できます。山稜部の発掘調査では太鼓橋の切通しの北側の平場が、やはりそう古くない時代に削られてできた可能性があるということでした。いろいろ資料を見てゆくと、釈迦堂切通付近は中世の昔と現在とでは地形そのものがかなり変わってしまっているものと予想され、釈迦堂洞門(トンネル)ですら江戸時代以降のものの可能性も考えられるのではないかと作者は思っています。

今まで鎌倉の山稜部には防御のためと思われる遺構が数多く残されていると考えられてきていましたが、作者である私自身は、鎌倉の切通しや切岸を調べればしらべるほど、それらが中世の段階に防御のために造られた可能性が薄くなってゆくのを感じていました。先学の研究者の説を否定しようなどと考えていたわけではありませんし、むしろこれまでの代表的な研究者の説を踏まえたところから始めた鎌倉の歴史探索のホームページ制作でした。

 

 

右の写真は釈迦堂切通の南側の道を大町の中心的な住宅地付近まで下りてきて、振り向いて撮影したものです。ここからもうしばらく南へ行けば、かっての名越坂へ向かう街道が通っていた道へ接続します。

今回の釈迦堂切通周辺も防御性の認められる遺構は少ないように感じられました。唯一、釈迦堂ヶ谷と犬懸ヶ谷の間の尾根の堀切が、調査によって木戸が設けられていたことは、何らかの目的で通行を妨げる機能があったのではないかと、そう考えられているようです。古都鎌倉、かって武士の都であったこの地は「鎌倉城」ともいわれていました。今回、釈迦堂切通をまとめ終えて、また一歩も二歩も遠ざから「鎌倉城」を作者は淋しく見ていたのです。

 

釈迦堂切通     1. 2. 3. 4.