釈迦堂口切通・・・・その3

太鼓橋の架かる切通し北側平場の調査で、付近は近年まで石切が行われていたと推定されるということは、太鼓橋の架かる切通しを通過していた本来の道は、後世の石切により失われてしまった可能性も考えられます。

釈迦堂切通トンネルの上
左の写真は釈迦堂切通洞門の上の尾根道です。この写真の場所の下に洞門(トンネル)があるのです。この尾根道と直交する形で南北にトンネルが通過しているのです。写真は夏場の撮影で樹木が生い茂り、下のトンネルの道は確認しずらかったのですが、それでも注意して見ると樹木の木の葉の隙間からトンネルの道は確かに見えました。

日月やぐら
釈迦堂切通洞門上の尾根道を西へ数十メートル進んだところには、やぐらが数穴、道に沿って並んでいいて、何故かこの付近のやぐらのほとんどは、天井部が半分ほど壊れて無くなってしまっています。そのやぐらの一つに右写真のような説明版が建てられています。このやぐらが「日月(じつげつ)やぐら」です。この日月やぐらは鎌倉時代末期のものではないかといわれ、そしてこの一帯のやぐらを「釈迦堂口トンネル上尾根やぐら群」と呼んでいます。

日月やぐらを近づいて撮影したものが左の写真です。現在では玄室の中まで天井が崩れてしまっていますが、羨道、玄室、三方壇(段)などがよくわかります。羨道と玄室の境の横壁には、柱を建てた跡と思われる溝も見られます。このやぐらが鎌倉時代まで遡ると推定される理由として、しっかりした羨道跡が確認できることからではないかとホームページ作者は想定しています。やぐらの解説書には、「初期のやぐらは玄室と羨道の両者を備えているが、室町時代となると、次第に羨道部分が失われてしまう。」ということが書かれています。

 

日月やぐらの説明版には次のように書かれています。

このやぐらは壁に日と月になぞらえた納骨穴があるので日月やぐらといわれています。丸い穴の上に天蓋があり下には連座を彫刻し仏が連座上に安住する形をとったもので極めて珍しいやり方です。他の一つの穴は二重に掘った輪が下にずれて月形になっているので他の丸いのと合せて日月やぐらの名称が生まれたのです。

このやぐらを「日月やぐら」と呼んだのは八幡義生氏であったそうです。

 

なるほど、納骨穴(龕)が丸い形で日と月に見えることからやぐらの名称となったということですが、良く観察して見ると説明版のとうりに、丸い納骨穴の上の壁には瓔珞を刻んだ天蓋が確認でき、下には連座が確かに刻まれています。この天蓋と連座は線刻のため写真ではわかりずらくなっています。左の写真では壁面にキリーク(阿弥陀如来)でしょうか、梵字が刻まれています。そして奥の丸い納骨穴が日(日輪)になぞらえたものだと思われます。この日と月の納骨穴が見られるやぐらは鎌倉中でもこのやぐらだけだそうです。

 

『鎌倉のやぐら』 (かまくら春秋社)という資料には、「やぐらの壁面に彫刻された梵字群は、やぐら内部を一つの曼荼羅世界=浄土に見立てたものだろう。」と説明されています。 また資料にはやぐらに安置される本尊として地蔵菩薩が多い理由として次のように書かれています。「地蔵菩薩は、地獄で責苦にあっている亡者を救う仏として信仰されている。こうした役割を持つ地蔵菩薩の像が数多くやぐら内の本尊として作られていたということは、いかに勇猛果敢な東国武者達も地獄への恐怖から逃れることはできなかったのだろう。戦いに明け暮れ、人と人とが殺し合う修羅場に立たざるを得なかった武士であるがゆえに、なおさら地獄への恐怖が強かったのかもしれない。 」

 

地蔵菩薩に来世を託そうとした中世武人の仏教観あるいは死生観を「やぐら」は伝えているのではないでしょうか。
現代では、地獄や極楽について語られる機会はたいへんに少ないものです。科学こそが知の万能であると思われがちな現代社会の中では、地獄の思想などというものは無用な迷信と隅に追いやられています。しかし、精神的な強さということでは、現代人は中世の人よりも劣っているのようにも思えるのは何故でしょうか。

 

右の写真は玄室内左壁にある月形の納骨穴(月輪)です。二重の円の内側を下にづらして月形にしています。写真ではよくわかりませんが、月形の円の上には天蓋が刻まれ、下には連座が刻まれています。その天蓋の瓔珞の一部には金が残っていると資料にはありましたが作者には確認することができませんでした。また壁には漆喰が残っていて、このやぐらが造られた当時は素晴らしい彩色にほどこされていたと想像されるのです。
写真左の円形納骨穴は玄室手前の壁にあるものです。

 

左の写真及び下の写真は日月やぐらの西に並ぶやぐらです。日月やぐらと同様に羨道及び玄室の手前部分の天井が無くなっています。下の写真のやぐらでは羨道の部分がよく確認できます。やぐらは亡くなった人を埋葬し供養したものであるわけですから、お墓であると気味悪がる人も多いことと思います。しかし、鎌倉探検に慣れたホームページ作者には、一人でやぐらと対面していると、なぜか心があらわれる思いがあります。鎌倉の山中に今も残る中世の遺構であるやぐらは神秘と静寂につつまれ、何か語りかければ、返事が返ってくるようなそんな錯覚をおぼえるのです。自己の精神を高め得る絶好の場所であると思っています。

 

日月やぐらのある尾根に並ぶやぐら群の西側は現在人は入れなくなっています。報告書にもやぐら群の西の尾根は未調査部分とあり、藪こぎの慣れた人でもそこへ入って行くのを躊躇するほどの深い藪となっています。しかし、この西側の尾根には道が存在したものと思われます。それは「釈迦堂谷奥やぐら群」へと続く尾根であって、更に西へと尾根を辿れば、東勝寺跡裏山へと出られるのです。釈迦堂谷奥やぐら群から西の尾根上には道(一般人は入れない)があり、その道と並行する北側に古い道跡と推定される平場が見られるそうです。

 

上の写真は日月やぐらのある尾根道に並ぶやぐらを撮影したものです。

釈迦堂谷奥やぐら群
釈迦堂切通へ北側から入って行くと釈迦堂ヶ谷の説明版が建つ分岐があり、そこを右に入って行く谷の最奥部に「釈迦堂谷奥やぐら群」があります。現在このやぐら群は宅地造成でかなり破壊されてしまっているといいます。かってこのやぐら群の一部を発掘したときに、刀傷を受けた頭蓋骨が出ていて、宅地工事の際には、多数の石塔、青磁破片、写経石、かわらけの灯明皿等がおびただしい人骨と共に散乱していたそうです。その石塔部分のひとつの五輪塔の地輪に、元弘三年(1333)五月二十八日と刻まれたものがあり、この日は東勝寺で北条一族が自刃した日から初七日にあたり、このやぐら群は北条家滅亡のときの死者を埋葬したところだといわれています。

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