鎌倉七口-名越切通・・・・その4

古道以外にも名越切通周辺には史跡や遺構が残る
名越切通の周辺部の山稜には多くの史跡や遺構が見られます。中でも切通しから北東方向の山稜部には大規模な切岸の崖が存在し、従来よりそれが何なであるのか問われてきていました。また、その崖下の尾根に沿って日蓮上人ゆかりのお寺なども有り見所は尽きません。名越切通の史跡はそれらもセットとして紹介されるのが一般的なようです。ここでは切通し周辺の史跡を具体的に紹介して行きます。

謎の石廟
名越切通からまんだら堂やぐら群の脇を通り大切岸方面へ向かいます。やがて二基の石碑が立っているところがあり、そこから法性寺墓地へ下る分かれ道があります。そこを下りずに来た道をそのまま直進するとその直ぐ先で右写真の奇妙な形をした二つの石廟が現れます。ここは尾根のピークになっているようで、石廟の後ろの土盛りは塚のようでもあります。この石廟は鎌倉市指定文化財になっていて、内部には火葬骨を納めた蔵骨壺が納められていたといいます。発見された五輪塔の一部や、かわらけ片などから鎌倉末期から南北朝期に造られた古いものであるといいます。

石廟とは死者を埋葬した地に建てた石造墳墓堂で、鎌倉時代まで遡る可能性を秘めたこの石廟は、他ににあまり見かけない珍しい形をしています。埋葬されていたのは誰で、周囲にやぐらが多いの対してここだけ何故このような石廟なのかは全くの謎であるようです。何れにしても埋葬者は特別な人物であったのでしょう。

石廟から更に先へ進むとやがて視界が開け逗子方面が遠望できるところに出ます。ここは大切岸と呼ばれる崖の上で、左の写真は大切岸の崖上を通る道です。

大切岸上にある鎌倉城外郭防衛道

悩める道端の石仏様
大切岸上の尾根は鎌倉城外郭線で、この尾根が鎌倉の内と外を分けていると伝えます。今は大切岸もここだけのようですが、かって鎌倉逗子ハイランドが造成される以前はそちらの方まで続いていたともいわれます。大切岸上の山道を北東へと進んで行くとやがてパノラマ台への分岐が現れます。そこから直ぐ先のところに左の写真の首を傾げた小さなお地蔵さんふうの石仏があります。古い石仏ではないようですが山歩きで疲れたところで出迎えてくれる石仏は心が和みます。石の仏様は何を考えて(悩んで)いるのでしょう。

上の石仏のあるところの道を左に辿ると衣張山ハイキングコースや巡礼古道などの山道へと繋げることができます。

ちょとひと息のパノラマ台
右の写真はパノラマ台からの逗子市方面を撮影したものです。パノラマ台は360度の展望が楽しめるところです。鎌倉の市街や西の稲村ヶ崎に江ノ島そして富士山などが望め、展望好きな方には持ってこいの場所なのですが、ただここは狭いです。のんびりお昼のお弁当などを広げたいところなのですがけっこう風も強く、落ち着かない場所なのです。

右の写真は石廟の少し東寄りの江戸時代の石碑がある分岐から法性寺墓地へと下る道です。この道は人一人が通れるだけの狭い道です。途中の山側には中が空っぽのやぐらが見られます。名越切通の一帯はやぐらが多く確認されていて、まんだら堂やぐら群をはじめ、お猿畠のやぐら群や鎌倉市側の名越ヶ谷を下る途中の浅間山南山腹やぐら群などがあります。名越ヶ谷を下って行くと釈迦堂切通からの道に合流し、釈迦堂切通には北条時政邸跡があり、三浦への名越口を監視していたとも伝えます。

鎌倉最大の防御遺構は名越の大切岸
鎌倉が鎌倉城といわれる由縁はこの大切岸を見てもらえばわかるだろう、と言わんばかりに逗子市側に屏風のように立ちはだかっている垂直に削られた崖があります。大切岸と呼ばれるこの崖は鎌倉の覇権をものにした北条氏が三浦半島を拠点とする三浦氏の進入を防ぐ目的で築かれたものであると伝えられてきています。左の写真は大切岸上の山道から切岸の下を覗いたものです。そこにはご覧のような平場が見られます。切岸と平場は2〜3段の雛壇状に造られているところもあります。

右の写真は大切岸の崖を撮影したものです。崖の高さは3〜5メートルで場所によっては10メートルの絶壁を構えているところもあり、総延長は800メートルとも1キロともいわれています。切岸上の尾根道は鎌倉城外郭防衛道で鎌倉入口守備隊への物資補給路などであったといわれているようです。あるいは浄妙寺に通じる孔道などとも伝えてきています。ただ、この大切岸は本当に防衛遺構なのかはそれを裏付ける資料は何もなく、以前は海蝕による崖岩が隆起したものとも言われていたようです。

北条氏と三浦氏の権力闘争と大切岸との関係
この大切岸は逗子市街からの県道鎌倉葉山線を鎌倉方面へと進むと山の稜線近くに両手を広げたように見られます。確かにその姿は逗子側からの鎌倉侵入を拒んでいるかのように見られます。しかし、切岸が防衛を目的として築かれたものであることを証明するものはこれまでの調査からでは見つかっていないようなのです。切岸の構築年代は古くは鎌倉時代まで遡るようですが、遺構としては中世後期と考える説もあるようです。

大切岸が三浦氏の進入を防衛する目的で築かれたものであるとするならば、鎌倉時代前期まで遡らなくてはなりません。何故ならば、宝治元年(1247)の三浦泰村の乱(宝治合戦)で三浦一族は北条時頼によって滅ぼされているからで、それ以後の切岸構築は意味をなしません。

北条氏は頼朝亡き後に鎌倉幕府創設に拘わった有力御家人を次々と滅ぼしていきます。比企能員・畠山重忠・稲毛重成・和田義盛などをはじめ、阿野全成・源頼家・源実朝・公暁も北条氏の手にかけられたたものであるといわれています。その中でも実朝と公暁の事件は北条と三浦の対立によるものとする説があるようです。実朝暗殺の黒幕として北条義時とする説がありますが、最近の専門家分析は三浦義村ではないかとする説が有力のようです。自らを手を汚さない三浦義村と北条義時の駆け引きがここにあったのかも知れません。このあたりの話は私如きよりも鎌倉通の人達はご存じのことと思います。

歴史の推理を行ってみよう
近年の大切岸周辺の調査では、ここは中世の石切場跡と考えるものが有力と思われます。単に石切場と言っても何を目的としての石切作業なのかが問題だと思うのです。当然伝えられているように防衛の為の切岸造成がありますが、段々になった崖と平場の繰り返しは上から敵を射掛けるというものよりは、建築石材の採取場と見るのも自然のように思えます。切通しや大切岸などが何でもかんでも防衛遺構と結びつけて考えるのは確かに一つの推理です。ただそれ以外にも別の見方があって良いと思うのですが如何なものでしょうか。

大切岸が防衛遺構であるという専門家の説に是非を問うということでは有りません、私が言いたいことは歴史の推理を行ってみようということです。ガイドブックや解説書通りに解釈するのは知識の積み重ねにもなりますが、それでは歴史というものの面白さが半減してしまいます。自分の目で見て感じたことが非常に大事だと思います。何でも疑ってかかるという哲学論があったような気がしますが、決して疑えというものではなく、自分の気持に素直に対等すると、今まで常識であるとか、一般論とされてきたものとは違うものが感じられることがあります。そのような感覚が新たな推理へと誘います。

大切岸を下から眺める

お猿はいないが何故かお猿畠山と呼ばれるところ?
大切岸の下一帯は「お猿畠」と呼ばれています。今はお猿など居そうもないのですが、昔はお猿が居たという伝承が残っています。

日蓮は鎌倉の内で辻説法などの活動を行っていたことは知られています。当時鎌倉では大地震などの災害に見舞われ、日蓮はそれらの災害は法華経を信じることで免れると「立正安国論」を著します。日蓮は他の宗派を攻撃したことから、文応元年(1260)8月のある夜に、念仏宗の信者達に松葉ヶ谷の草案を焼打ちされてしまうのでした。『新編相模国風土記稿』によると難を逃れた日蓮はこの地に隠れたとき、三匹の白猿が現れ食物を与えてくれたといいます。

また『新編鎌倉誌』には日蓮上人が法華経伝道の志を抱いて鎌倉へやって来た時に、この山の岩屋に住んでいたが、賤み憎んで一飯の御布施をおくるものがいなく、上人は飢えて死ぬ寸前であったとき、この山に住む猿達が畠を耕し作物を作り上人に与えたと伝えています。

上の二つのどちらの説にしても、お猿が日蓮を救ったことで、喜び感動した日蓮は弟子の日朗にその話をして一寺の建立を命じたことを縁起としているのが法性寺なのです。お猿畠の直ぐそばの法性寺奥之院のお堂脇の岩窟は日蓮が住んでいたか、或いは身を隠していたと伝える岩屋なのです。

久木法性寺
右の写真は法性寺の奥之院です。白い鳥居は山王権現社で石段を上ると石祠と石塔があります。お堂は祖師堂で、お堂の脇の岩窟はやぐらと思われ、中には鎌倉末期のものとされる五輪塔があります。そしてこの岩窟は上記の日蓮が白猿に案内されて難を逃れた岩屋ともいわれています。この岩窟のある尾根は後ろの墓地の奥にある垂直に削られた切岸から以前は続いていたものではないでしょうか。ここ奥之院には写真の手前に日朗の庵所というもう一つのお堂があります。

左の写真は法性寺から谷を下って行く道を撮影したものです。道の山側が削られて岩肌が露出しているのは鎌倉近辺の谷の特徴です。鎌倉という土地は狭い谷戸の山縁を削り切岸状にして谷部の平坦地を広げていて、削られた岩屑や土は谷戸の窪地を埋め立てるのに利用されていたといわれます。鎌倉の谷戸が人工的な地形に見られるのはそのような人手による地形改造が加えられているためなのでしょう。

法性寺の山号は「猿畠山」と称し、由来は先に説明させて頂いた日蓮を助けたお猿に因なんだものなのでしょう。右の写真の山門の山号銘額には白猿が彫られています。この山門前まで来れば山を下りてきたという実感がします。ここから県道を逗子市街方面へ進むと久木新道バス停付近で名越切通から下りてきた街道と合流します。

伝説とミステリーに富んだ峠道。名越切通は鎌倉七口中でも古い面影が随所に残るところです。この貴重な切通しの史跡を、ずっと後世まで残っていてもらいたいと心に唱えながら帰路へと向かいました。

鎌倉七口-名越切通     1. 2. 3. 4.