鎌倉七口-名越切通・・・・その1

若宮大路の下馬という信号から県道鎌倉葉山線を東へと向かいます。大町の逆川という小さな川を渡るところから道はやや南へ折れ、やがてJR横須賀線の名越踏切を渡ります。踏切を渡って直ぐに線路に沿うように東に向かう細道があります。左の写真がその道で、そしてこの道が名越切通を越えて三浦に向かう、かっての古道だったのです。道は両側に民家が建ち並び、ごく有り触れた道の景観ですが、良くみると道の南側に水路が流れ、どことなく近世的な街道の趣も感じられるのです。

日蓮乞水
名越踏切から東に向かう道をしばらく進むと石囲いの中の石碑と井戸が現れます。これは日蓮乞水(にちれんのこいみず)といい、鎌倉五名水の一つにもなっています。『新編鎌倉誌』に「日蓮乞水は、名越切通の坂より、鎌倉の方一里半許前、道の南にある小井を云なり。日蓮、安房国より鎌倉に出給ふ時、此坂にて水を求められしに、此水俄に湧出けると也。水斗升に過ざれども、大旱にも涸ずと云ふ。甚令水也。」とあります。碑文に建長5年(1253)とあり、当時この前の道が街道であったことを物語ります。

日蓮乞水を過ぎると名越坂踏切があります。名越切通に向かうにはこの踏切を渡ります。踏切を渡って右(東)への道を進みますが、踏切の傍らには道標を兼ねた石塔が立っています。

現在の鎌倉から逗子へ出る県道と横須賀線の鉄道が名越切通の直下をトンネルで抜けていること柄からも、地形的にこの付近が交通路として適しているものと思われるのです。

東へ向かう道は右の写真のところで二股になっています。道なりに進むと写真の左側の道へ行きそうになるのですが、名越切通へは右への急坂を上って行きます。初めて名越切通を訪れる方はここを間違えないようにしてください。坂はかなり急で、一歩ずつゆっくりと上って行きます。坂の上部には民家の人がハイカーのために設けたと思われる、ちょっとした休憩所があります。そこから先は人一人がやっと通れる極端に狭い道になり、切通しへ行く道で正しいのか不安に思いますがそのまま進んでください。

古道を物語る石仏
細道の南側谷部にはJR横須賀線の線路が見え、線路の更に南の丘陵上に目障りな煙突が立っています。この煙突は名越清掃事務所にあるゴミ処理施設のもののようです。やがて細道の山側に右の写真の庚申塔と首の無い石地蔵像が現れ、この道が古道であることを教えてくれています。それにしてもどうしてこんなに狭い道なのかと思われる人もいるかも知れませんが、おそらく鉄道のトンネルが造られたことで古道の一部が破壊されてしまったのかも知れません。しかし、この細道のルートがほぼかっての道に沿ったものと思われるのです。

トンネルの上にある名越切通
左の写真は線路がトンネルに入る付近上の古道から鎌倉方面を振り向いて撮影したものです。名越切通は横須賀線のトンネルの真上にあるのです。線路の向こうに見える大きな屋根は長勝寺のお堂です。この先はいよいよ切通しへの昔のままの道となります。

名越切通道は古代からの古東海道の道筋にあたるとする説がありますが、ここから南の小坪坂も古東海道が通っていたといわれ、どちらの説が正しいのかは定かではありません。

左の写真は、線路北側の尾根をトラバースする道が線路のトンネル真上の山林に入った付近のものです。一見普通の山道のように見えますが、道の両側を覆っているシダの葉がなければ堀割状の道であるようなのです。路面は小さな階段状のようですがこれは後世の造りによるものと思われます。この写真の少し先で道は直角に右へ曲がっています。その曲る付近の回りの地形を観察すると人工的なものがかなり感じられます。直角に曲がった右角の小尾根突起と思われる部分は私にはどうも土塁のように見えるのでした。

鎌倉七口で一番城郭遺構にちかい
名越切通は現在残る鎌倉七口の中でもとりわけ城郭遺構のように感じられるところなのです。上の写真や右の写真の辺りにもそのような地形がかなり見られます。道が急に曲がったり、急傾斜の尾根の壁が道を取り巻くようになっていて、自然地形というよりも人工的に人手が加えられているように感じられます。右写真の大きな岩は何か意味ありげに語り掛けてくるようです。この名越切通は私には「道」というよりも城か砦の跡のように感じられるのです。

名越切通

名越切通(なごえきりどうし)はかっての鎌倉から三浦へ通じる要路であり、現在は鎌倉市と逗子市の市境の峠に残る古道跡なのです。鎌倉七口を記録する古い文献である『玉舟和尚鎌倉記』に「名越坂 三浦口」とあり、名越坂は鎌倉・三浦往還(三浦道)がこの坂(切通)を通過していたことがわかります。

この切通しは開幕当時から存在していたと考えられていて、一説に古代の鎌倉から三浦・房総へと抜ける古東海道のルートであったともいわれているようですが、詳しいことはわかっていないようです。

名越の地名は「難越」(なごし)から転化したものといわれ、ここを越えることは大変困難を要したことを物語ります。『新編鎌倉誌』に次のようにあります。

「名越切通は三浦へ行道也、此峠、鎌倉と三浦との境也、其険峻にして道狭、左右より覆たる岸二所あり、里俗大空洞・小空洞と云ふ、峠より東を久野谷村と云、三浦の内也、西は名越、鎌倉の内なり。」

名越坂についての文献上の初見は『吾妻鏡』天福元年八月十八日条にある次のものです。

天福元年(1233)八月十八日条
「早旦、武州江島明神に奉幣せんが為出で給うの処、前浜死人有り。これ殺害せらる者なり。仍って神拝を遂げ給わず、直に御所に参り給う。即ち評定衆を召し沙汰を経らる。先ず御家人等をして武蔵大路・西浜名越坂・大倉横大路已下方々を固めしむ。途路に候し犯科者有るや否や、その内の家々を捜し求むべきの由仰せ下さるるの間、諸人奔走す。而るに名越辺の或る男直垂の袖を洗う。その滴血なり。恠しみを成し岩手左衛門の尉これを生虜り、相具し御所に参る。推問の刻、所犯の條遁れる所無し。これ博奕人なり。仍って殊にその業を停止すべきの由下知すと。 」

北条泰時が江ノ島明神に参詣するとき、前浜に殺害さらた死体を見て、直ちに評定衆を召して犯人を捕らえるようにした。武蔵大路・西浜・名越坂・大倉・横大路以下の要路をふさぎ捜査したところ、名越辺りで、血の付いた直垂の袖を洗っている男を捕らえ推問すると殺害を白状したというものです。
ここで重要と思われるのが、当時に名越坂が存在し、しかも鎌倉中での要路であったということです。これは朝比奈切通が開削される仁治年間よりも古いものです。名越切通が開削された時期は未詳のようですが、名越坂とそこを通る道(鎌倉・三浦往還)が比較的に早い時期に整備されていたことが考えられるのです。

『吾妻鏡』には上記の記録以外にも「名越山」という地名が登場する記録が幾つかみられます。

建永元年(1206)二月四日条
「鶴岡宮の祭例の如し。晩に及び、将軍家雪を覧玉わんが為、名越山の辺に御出で。相州の山庄に於いて和歌御会有り。相模の太郎・重胤・朝親等その座に候す。

承久元年(1219)九月二十二日条
「申の一点より戌の四刻に至るまで鎌倉中焼亡す。火阿野の四郎の浜の宅の北辺より起こる。南風甚だ利く、上は永福寺惣門より、下は浜の庫倉前に至り、東は名越山の際に及び、西は若宮大路を限る。

嘉禎元年(1235)六月二十八日条
「今夜、新造の精舎に於いて解謝祭等を行わる。大鎮(親職朝臣)、大土公(晴賢朝臣)大将軍(文元朝臣)、王相(廣頼朝臣)。また供養の間、魔の障りを避けんが為、南方高山祭を名越山上に行わる。弁法印良算これを奉仕す。毛利左近蔵人親光御使たり。」

建永元年二月四日条は将軍実朝が雪見のため名越山辺りまで来たというものです。承久元年九月二十二日条は鎌倉中が大火に見舞われた時に、火の手が東は名越山のふもとまで及んだというものです。嘉禎元年六月二十八日条は五大明王院で鋳造された鐘の供養が行われ、そのときに魔障を避ける為に南方高山祭も名越山上で行われたというものです。これらの「名越山」が名越坂と地理的に関係深いものなのかはわかりませんが、逗子市教育委員会の『国指定史跡名越切通保存管理計画策定報告書』で挙げられていたものを参考までに載せてみました。また、資料から北条時政邸跡がある釈迦堂切通付近から名越切通までの一帯が「名越」とすることができそうです。

名越切通には防衛遺構が存在する
名越切通は鎌倉七口中でも朝比奈切通と並んで古い道の姿が残るところです。ただ、朝比奈切通が「道」を感じるのに対して、名越切通は「道」そのものより防衛遺構そのものと捉えた方が的を射ているように思います。狭く屈曲した道と、切通し周辺には平場・堀切・置石などの遺構が見られ、これらこそが鎌倉城と呼ばれる由縁なのです。そして取って置きの代物と呼べる物が「お猿畑の大切岸」なのです。山の斜面を2段、3段と垂直の崖に削り、各段の上には平場が設けられています。

それでは何故、名越切通にはこのような防衛遺構が多く残るのでしょうか。それはこの切通しを通る道が三浦半島の三浦氏の本拠地へと繋がっているからなのでした。鎌倉の実権を握った北条氏にとって最後で最大のライバルが三浦氏でした。北条氏は名越に山荘を構え、ここ名越坂に砦を築き三浦氏の進入を防ごうとしたのです。大切岸などの遺構はその目的で築かれたとする説があります。(大切岸の遺構は近年の研究では中世の石切場跡とする説もあります。)

葬送遺構のまんだら堂やぐら群
名越切通で防衛遺構と忘れてはならないのが、まんだら堂やぐら群などに代表される葬送関連遺構が豊富なことです。やぐら群の他にも尾根頂部に建てられている石祠が知られ、塚状の盛り土や五輪塔などの石塔類が多く見られます。近年に名越切通とその周辺部の発掘調査が行われていて、荼毘跡や土坑、火葬骨などが出土していることから切通しの一帯が葬送施設として利用されていたことが窺えるのです。

まとめ
名越切通は開幕以前から存在した峠と思われ、或いは古代律令の官道が通っていた可能性も考えられます。北条氏が実権を握った頃に切通し道は大きく整備され防衛遺構なども築かれたものと思われます。その後、鎌倉時代後期から室町時代に葬送の場として利用されていたと思われます。戦国時代には後北条氏が三浦氏や里見氏に備えて防衛施設の拡充をはかったことも考えられるようです。現在残る切通し道と周辺の遺構はそのような歴史の流れによって現在に至っていると思われますが、或いは近世以降の石切や耕作・植林等による地形改変が含まれることも考えられ、どこまでが中世に遡る遺構なのかは今後の調査が明らかにして行ってくれるものと思われます。

名越切通は昭和41年に切通しの中枢部が国指定史跡に指定され、その後に周辺部の土地開発が進み遺跡保護の必要性が再検討され、昭和56年と58年に大切岸などの防衛遺構や墓壙・やぐら群なども史跡指定を受けることになりました。現在残る名越切通の古道はJR横須賀線のトンネル口辺りから逗子市の亀ヶ岡団地までの約400メートルほどのみです。

何故に急な石段の道なのか?
道が直角に曲がった後、今度は大きな岩を横に見ながら狭くて急な階段道となります。私には狐に化かされたみたいな妙な気持となるのでした。これって街道なの? 或いは長い年月のうち台風や大雨などで一部古道が崩れたところにこのような石段が築かれたのか。何れにしても数年間、鎌倉街道を見てきた私(ホームページの作者)には、これはとても街道と呼べるものではありませんでした。

石段の上は堀割道がある
狭い急な石段を上り切るとそこには鎌倉街道の特徴である堀割道が姿を現しました。堀割道は私には見慣れたもので、ようやくこの道が古道であることが実感されました。現在残る鎌倉七口の中で堀割道が見られるのはここ名越切通と大仏切通だけなのです。それにしても先ほどの石段道とこの堀割道は私にはどうもうまく繋がらないもののように感じられます。

突然現れた堀割道ですが感動するというよりも呆気に取られる思いがありました。しかし、これは紛れもない人工的に堀り込まれた道で、自然地形の窪みではありません。しかも堀の深さは道の古さを物語ます。道端の斜面に埋もれた岩の上にには小さな五輪塔が二基並んでいました。この五輪塔はもともとここにあったものか、いやどうもそうではなさそうです。各層の石のバラスが不自然なようです。ただこのよな五輪塔があることは歴史的な風土であることを印象付けます。

鎌倉七口-名越切通   次へ  1. 2. 3. 4.