一升桝遺構・・・3

左の写真は一升桝から南にのびる尾根上に現在も残る堀割道です。近年に一升桝がトレンチ調査されたときに、この堀割道も2箇所でトレンチが行われています。トレンチの2箇所ともトレンチ内下部で現地表面と同様の落ち込みが確認されているようです。出土遺物などは出ていなく堀割道の構築年代を示す資料はなかったようです。

鎌倉を取り巻く山中には人工的に造られた平場、土塁、堀切、堀割道、塚、やぐら等の遺構がいたるところに見られます。そんな中でも堀割道跡はそんなに多くは見られません。ここ一升桝の南の尾根の堀割道跡は鎌倉を取り巻く山中では、道跡としてはかなり良好な状態で残っていて、貴重な存在だと思われます。この道が主要な街道とは考えにくいですが、鎌倉の古道であることにはかわりありません。

堀割道を南へたどって行くと、突然に大きく尾根がえぐられているところに出ました。堀割道とは交差するように尾根を横に堀込んだ大変に大きな堀切です。左の写真がそれです。この堀切も調査されていて、報告書によると現在の堀底よりも2メートルほど下に本来の堀切の底面があるそうです。「壁面の傾斜などから推測すれば、この堀切の規模は上幅約10メートル、下幅約2メートル中央部での深さ約6メートルの巨大な遺構であったと考えられる。」と報告書に書かれています。

下の写真は堀切を真横から撮影したものです。一見には鎌倉街道の堀割道のように見えますが、これは人工的に造られた、尾根を分断する堀切です。この堀切の底面には北端に沿って幅30センチ、深さ20センチの排水溝が掘られていたとありますから、まるで道路状遺構の側溝のようです。

それにしても、この大きな堀切は何のためにいつ頃造られたのでしょうか。報告書には出土遺物がなかったので築造年代は不明とありましった。この堀切から約300メートル北に一升桝の遺構があるわけですから、一升桝と何か関係があるかも知れません。今後の調査で遺構の築かれた意味や時代がわかることを期待したいものです。

この堀切の西側は高さ約7メートルほどの切岸になっていて、切岸の下は現在は竹林になっている平場があります。その平場もトレンチ調査が行われていて、掘立柱建物跡の柱穴や排水溝か建物の雨落ち溝と思われる数条の溝が確認されています。建物の規模や築造年代は不明のようです。出土遺物は少ない中で上層から16世紀の擂り鉢破片が出土していて、この平場の造成時期が中世に遡る可能性が考えられるそうです。

一升桝の遺構がある尾根は、鎌倉城外郭と呼ばれる丘陵尾根の外側に存在しています。とりわけ鎌倉の西側の極楽寺坂から化粧坂あたりにかけての山稜部には所々にこのような遺構が見られるようです。これらの遺構は明らかに西側(都側)を意識して築造されているようです。一升桝は山上に築かれた土塁に囲まれた施設で、右の写真の尾根を断ち切る大きな堀切と同様に防御のための遺構だと思われます。

大きな堀切から南の尾根上には堀割道は見られないようです。左の写真は堀切から南側の尾根上を撮影したものです。この辺りから尾根は急に下降しています。写真ではわかりずらいのですが、尾根上の少し先に塚が一つ見られます。一升桝から堀切までの堀割道の続きはどこへ行ってしまったのでしょうか。堀切から尾根の東か西へと下って行ったのか。
鎌倉を取り巻く山は全く謎だらけでした。今回は一般人がほとんど入ることのない山稜部の探検でした。観光地鎌倉にはまだ知られていない歴史遺産が残っていることを実感できました。

極楽寺坂-五合桝遺構   霊山山-仏法寺跡   一升桝遺構-1. 2. 3.