霊山山-仏法寺跡

五合桝の遺構にあるコッホ博士碑の脇から南へ向かう細道があり、そこを進むと道は二手に分かれ、東側の山の斜面を下る道へ向かうとやがて広い視界の効いた大きな平場に出ます。ここは仏法寺跡と呼ばれているところです。ここからの鎌倉の海の眺めは天下一品ものです。観光地鎌倉といえど、ここの景勝地を知る人はほとんどいないのではないでしょうか。ここは鎌倉のガイドブックなどには全く紹介されていないところで、真の鎌倉の聖域です。

仏法寺は極楽寺の支院の一つで、『極楽寺絵図』にも描かれています。また、『極楽寺縁起』(元徳元年・1329)に「仏法寺 霊山崎ノ之頂上也」と書かれています。『鎌倉記憶帖』には「霊山寺跡といわれる古池のある1アール半ほどの平地があった。霊山寺跡は杉林になって、中に細い道がついていた」とあります。霊山寺の名は「霊山崎に建つ寺」に基づく呼称と考えられ、霊山寺と仏法寺とが同一であることは間違いないと思われると調査報告書にも書かれています。

上の写真は仏法寺跡平場の南西付近で、山側斜面下の窪地が池の跡と思われます。写真の更に奥には南へ向かう道跡が確認できましたが、途中から崖で切れ落ちていて危険です。この道は発掘調査のときに堀割道と確認されていて『鎌倉記憶帖』でいう「細い道」であったと考えられているようです。

左の写真は池跡を近づいて撮影したものです。この池は忍性や日蓮が雨乞いをした場所との伝説があるそうです。

池跡の南側には五輪塔などの石塔が数基並んで立っています。このあたりが墓域であることを物語ります。仏法寺付近は新田義貞の鎌倉攻めで、その最大の激戦地である「稲村ヶ崎攻防戦」の舞台となったところです。鎌倉を守る幕府軍、鎌倉を攻める新田軍、どちらかがこの霊山山を取るかで勝敗がわかれたようです。結局のところはこの山を押さえた新田軍は仏法寺の下を通る稲村路を上から攻撃されることなく通過し鎌倉に侵入することができたと歴史の専門家は語っています。

元弘の乱(新田義貞の鎌倉攻め)は、鎌倉が三方を山に囲まれた要害の地で切通の防衛施設はこの戦いで有効に機能したことを物語りますが、実際に鎌倉切通をめぐっての攻防は、鎌倉幕府滅亡のこの戦いでしか歴史の舞台には登場していないようです。現在残る鎌倉七切通の防衛施設がいつ頃から存在していたかは詳細はわかりませんが、鎌倉時代後期にはそのような防御施設が鎌倉城外郭部に造られていたことは間違いないようです。

左の写真は仏法寺池跡のそばにある岩の塊で、これは池の庭石として用いれられていたものか?

上の写真は仏法寺跡の平場を撮影したものです。平場は東西約30メートル、南北約70メートルほどの広さであるようです。近年の遺跡調査ではいくつかのトレンチが実施されています。調査の結果この平場は削平された岩盤面上を整地したものであり、山裾よりには大形の凝灰岩切石を敷く基壇上の遺構も見つかっているようです。平場の東半分は埋め立てられ拡張されていて、平場の東端は垂直に近い傾斜で落ち込み切岸状になっているようです。調査ではその他、掘立柱建物跡の一部なども見つかっていて、出土遺物の中には15世紀〜16世紀のかわらけなども含まれていることから、これらの遺構群は中世に遡る可能性があるといいます。

仏法寺跡は、その後平成13年にも再調査が行われていて、礎石建物跡が発見されています。建物の規模は東西が二間で6メートル以上、南北が4間で12メートル以上であるそうです。また、雨乞い池の調査では池の底に堆積している層の遺物に13世紀後半のものも含まれていたそうです。更に柿経(こけらきょう)という薄い板に書かれたお経(ほとんどが法華経)も多数発見されているそうです。

仏法寺は新田義貞の鎌倉攻めのときに戦闘がおこなわれたところと伝わっています。鎌倉幕府滅亡後は五合桝を含めた霊山山一帯は葬送に関わる遺物が多く発見されていて、近世まで「聖地」であった可能性があると調査報告書に書かれていました。

大正年間には山頂一帯は公園として整備されていましたが、大正12年(1923)の関東大震災後には維持管理が行われず放置されたままであったようです。今後はこの霊山山一帯はどのようになるのでしょうか。今はただ、海風が吹くばかりでした。

極楽寺坂-五合桝遺構   霊山山-仏法寺跡   一升桝遺構-1. 2. 3.