一升桝遺構・・・2

右の写真は一升桝の南西角付近で、この角だけが土塁が切れていて、ここが一升桝の出入口部と考えられています。この土塁の切れ目から南西の尾根上に堀割道が伸びています。一升桝の土塁による囲郭の規模は、南北36.5メートル、東西の南側で30メートル、東西の北側で19メートルとなり、全体としては南側がやや広い台形状になっていると報告書にあります。

左の写真は南西角の土塁が切れているところです。
この一升桝はいつ頃、誰が何の為に築いたものなのでしょうか。この大規模な桝形遺構は戦国時代まで下がるものと推測されていたようです。また一方では新田義貞の鎌倉攻め際に兵士を隠したという伝承もあるようです。調査によって構築が13世紀代に遡る可能性が指摘されたことから、新田義貞の鎌倉攻めの時にはこの遺構が存在していたことになるのです。

右の写真は一升桝の南西の土塁が切れているところから南西の尾根上に続いている堀割道です。大仏坂の上から一升桝までは道跡はハッキリせず、普通の山道ていどの道が続いていましたが、一升桝から南の尾根道は明らかに堀割状の古い道跡です。写真のこの道はしばらくして草藪がひどくなり途中で断念して引き返しました。これと同じ様な道跡が一升桝の南東角からも南の尾根上に続いていました。

左の写真は一升桝の南東角付近のもので土塁の外側の堀状の窪地です。写真の左側が土塁になります。この堀状の窪地は土塁外の堀そのものなのか、あるいは道跡なのか? 写真のこの辺りから南へ延びる尾根上には、明らかに堀割道が続いています。

右の写真は上で説明した一升桝の遺構の南東付近から、南に向かう尾根上に残る堀割道です。この道は現在では通る人もほとんどいないと思われますが、道跡としては良好に残っています。かってはそれなりの通行量があった道だと考えられそうです。この道が残る尾根は旧極楽寺境内まで続いていて、この道は極楽寺へ向かう道であったのかも知れません。

極楽寺坂-五合桝遺構   霊山山-仏法寺跡   一升桝遺構-1. 2. 3.