祇園山ハイキングコース(東勝寺跡)・・・その3

大御堂奥物見台
S字状堀切道を過ぎるとちょっとしたピークがありその先は急な下りになりますが、そんなに長い下りではありません。左手にはチラホラ民家が見られます。この左手の谷は大御堂ヶ谷といい、鎌倉初期に創建された大寺院である勝長寿院があった谷の西支谷最上部付近です。ハイキング道は民家に入り込まないように左手にフェンスが張られています。道は再び登りとなり、もう一つのピークに達します。道はピークには上らず、ピークの直ぐ東側を回り込んで行きます。

このピークは「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」によると「大御堂奥物見台」と呼んでいるところのようです。私はピークに登ってみましたが、ちょっとした平場状になっていて、ハイキングコースの道からは見えないピークの西側尾根の傾斜に小規模な平場が連続して続いているのが確認できました。ここからは樹林がなかったら東の大御堂ヶ谷に、西の葛西ヶ谷、そして北西方向奥には鶴岡八幡宮の建物が見えるのではないかと思われました。

さてハイキングコースに戻ると直ぐにピークの直ぐ西側にやや大きめの平場があることがわかります。この平場は城跡などに興味がある方なら明らかに人手が加えられている平場であることがわかるのではないでしょうか。この平場は私の目から見てもかなり古いもののように感じられます。ただ藪草が多くて写真にならず、お見せできないのが残念です。

そして平場の反対の東側には尾根を左手に巻いて進む細道が民家とのフェンスの境に続いているのが確認できます。私は一度その道を行けるところまで行ってみましたが、途中で私有地の為、立ち入り禁止となっていてそこで断念しました。この細道は祇園山ハイキングコースから東に分かれて、釈迦堂切通の上を通り衣張山方面へ続いている道なのですが、私有地とあっては勝手に入って行けません。残念ですが探検もそこまでで引き返しました。

東勝寺切通跡の堀割道跡-1

東勝寺切通
「大御堂奥物見台」のある祇園山ハイキングコースに戻って南へ進みます。尾根の西側をハイキングコースの道は通っていて、やがて尾根の西側から東側へと切りかわる乗越しのような部分を通過します。一般のハイカーの方々は何気なくそこを通過して行くことでしょう。しかし私の目には大変なものが飛び込んで来たと、しばしその場に釘付けになりました。

上の写真や下の写真がそれで、一見、尾根を断ち切る本格的な堀切のようにも見られますが、これは紛れもない古道跡です。普通、堀切というものは尾根を遮断する目的で人為的に造られたものですが、ここの堀切のような古道跡は尾根の鞍部を北西から南東へ斜めに堀込まれていて、しかも東側はその先に長く続いていて、その下の方に見られる平場へと続いているのが確認できます。

これはもう正真正銘の古道跡です。ホームページの作者が関東各地の鎌倉街道跡を見て来た、それと同じ堀割状遺構というものです。まさかこのような鎌倉の山中でこれだけ立派な堀割状遺構を見ようとは感激の一言です。実は祇園山ハイキングコースへ上る前から、東勝寺跡の葛西ヶ谷から大町の西ヶ谷へ抜ける古道があったということは下調べでは知っていましたが、実際にこれだけハッキリとした古道跡が残っているとは想像していなかったのでした。

東勝寺切通跡の堀割道跡-2

この古道跡の下には現在は隧道が通っていて名越・大町方面から小町・雪ノ下方面へ抜ける生活道路となっています。

わたしはこの古道跡について何か史料がないものかと、鎌倉の図書館で探してみたところ「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」というのを見つけました。平成13年発行のつい最近のものです。その報告書によるとこの古道跡を「東勝寺切通」と呼んでいました。

左の写真は東勝寺切通が東側に下って行くものを上から撮影したものです。

「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」には「宝戒寺境内領地図」という嘉永年間(1848〜1854)に作られたと考えられている絵図の写真が掲載されています。絵図ではありますが精度は現在の地形とほぼ一致していて極めて正確であるそうです。この図には明らかに東勝寺切通と思われる道が描かれています。

右の写真はハイキングコースの道と東勝寺切通の古道が交差する地点を撮影したもので、写真ではわかりませんが、横に倒れた木の右側に上の写真の堀割状遺構が残っています。

新田義興、脇屋義治の鎌倉攻め
『太平記』巻三十一のなかで、新田義興と脇屋義治が討ち死に覚悟で鎌倉へ向かう途中、石堂入道や三浦介の援軍を受け、逆に鎌倉の足利基氏軍を破るエピソードがあります。義興軍は「大御堂の真上より真下りにぞ押し寄せたる。」というのは先述の「大御堂奥物見台」付近のことと思われそうです。その時の軍隊が通ったのがここ東勝寺切通であろうとする説が「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」にもでています。

柳田俊一氏の「肩がこらないページ・現代語訳太平記」分室 でこの場面を拝見させて頂きましょう。太平記(4)巻三十一 新田義興と脇屋義治、石堂義房らと連合して鎌倉を攻略す

上の写真は東勝寺切通の直ぐ南側のハイキングコースの道を撮影したものです。写真右の傾斜の尾根上には標高基準点があり、広くはありませんがやはり平場状になっています。ハイキングコースからは見えませんが尾根の西側は平場が連続してみられ、人手によって整形された地形であることが良くわかります。右の写真はその付近に幾つか見られる平場の一つを撮影したものです。この辺りからハイキングコースの南口にあたる八雲神社へ下る付近まで平場や土塁跡が沢山見られます。

上の写真の平場が見られる付近のハイキングコースの道はやや急な下りとなっていますが、坂を下りきると道は広くなり、そこが平場のなかの道になっているようです。道の東側には土塁状の土盛りも見られます。尾根上にあるこれだけ広い平場だと何かの施設跡とも考えられそうです。

この辺りにはは西側谷にある妙本寺から上ってきた細道が合流して来ています。その付近から少し南進したところを撮影したものが左の写真です。ここに見られる塚状の土盛りは私には自然地形とは思えません。

上の写真の塚状のものは「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」で調べてみると、ちょうど妙本寺祖師堂のすぐ裏手の尾根上にある矢倉台というやつなのだろうか? 私自身ハッキリ確認したものではないので断定はできません。この辺りの尾根上の地形は殆どが何かの遺構のように思えてきます。
数歩あるいてはそこいら辺の写真を撮っている私を不思議そうにチラッと見て通り過ぎて行くハイカーの人もいたりします。何も無い林の写真を撮っている小汚い私は変な人に見えるのか。

妙本寺及び比企ヶ谷については小町大路のページで説明させて頂きます。

妙本寺東の尾根上の道

佐竹山山頂の土塁と平場
上の写真の尾根道の南(写真の手前)からちょっとした上りとなり、上り切るとやや広い空間に出ます。そこは一番高いところのようですが回りには樹木が覆ていて展望はありません。ここは「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」でいう佐竹山の北東平場のようです。更に南進すると痩せ尾根状の道となり、その先に右の写真の不思議な空間がハイキングコースの西側に現れます。

「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」によると佐竹山山頂について次のように書かれています。

「最大幅20m、長さ40m、標高70.5mの北東の平場と尾根道で連結した半径20mほどの半円形をした南西の二つの平場からなっている。北東平場の南側からY字の尾根が延び、尾根が分かれる部分は物見台になっている。南西の平場は尾根道に面して土塁がある。土塁の間には幅2mの入り口がある。西側の土塁は幅が12mもあり、矢倉台の可能性もある。土塁の入り口の奥は2m幅の畝になっている。」

上の写真は佐竹山山頂の南西平場にある土塁の入り口部です。上の説明からすると写真の土盛部は矢倉台と想定されているところのようです。右の写真は南西平場と尾根道境にある土塁です。土塁上は御覧の通り平で、かってはこの土塁はもっと高かったのかも知れません。

私のような古道とか中世城跡とかを見てきている人間には明らかに歴史的遺構であると感じられ、近寄って観察したりしますが、一般のハイカーの方々はここで足を止めることはないようで、そのまま通り過ぎて行くのでした。

左の写真は佐竹山山頂にある南西平場と土塁です。明らかに何かの遺構だとは思いますが、この佐竹山をはじめ祇園山ハイキングコースにある膨大な遺構には、発掘などの調査はこれまでに入っていないようなので、どのような性格の遺構で、時代的にはいつ頃のものなのかはほとんどわかっていないようです。おそらく今後はこれらの遺構群も調査のメスが入ることでしょう。祇園山ハイキングコース上にある遺構群は場所に依って性格が異なるようです。私の素人発想では東勝寺切通北は北条氏関連、妙本寺東付近は比企氏関連、佐竹山は佐竹氏関連の遺構だと勝手に想像したりしているのでした。

祇園山ハイキングコース-(東勝寺跡)   次へ  1. 2. 3. 4.