祇園山ハイキングコース(東勝寺跡)・・・その2

東勝寺跡の発掘調査はその後、平成11年にも宅地造成の事前調査として葛西ヶ谷中央支谷の道へ北東支谷の道が接続する地点の直ぐ南部分(南西支谷の開口部)で東勝寺発掘調査団による調査が行われています。この調査でも鎌倉石の石列や溝状の遺構に井戸跡や礎石列に柱穴などが検出されていますが、調査範囲が狭い為、遺構の性格は詳しくはわかっていないようです。

左の写真は葛西ヶ谷の中央支谷の最奥で祇園山ハイキングコースへと上る地点にある「東勝寺旧蹟」の石碑です。この石碑の向かって左手の北側斜面の付け根に「北条高時腹切りやぐら」が不気味に口を開けています。

北条高時腹切りやぐら
右の写真の奥のやぐらが北条高時が新田軍に攻められた時に切腹したところと伝えられて来ていますが、何時の頃からこのやぐらがそう呼ばれていたのかはハッキリしません。実際にやぐら内、或いはやぐら前で切腹をしたという例は聞いたことが有りませんから、おそらく後の伝承がこのやぐらの名前になったのでしょう。やぐらは、この一つしか見あたりませんが、付近の崖斜面の地中にはまだ幾つかのやぐらが隠れているものといわれています。

腹切りやぐら前までの通路(羨道)には左の写真のような石段か或いは石垣の一部とも思えるものが見られますが、この石段がどのようなものなのかは資料が無く私にも説明することはできません。かなり古い時代からあったものなのか、それとも比較的新しい時代に造られたものなのか、それさえもわかりませんが、私の目に留まったものでここに写真を掲載しました。

東勝寺跡にある北条高時腹切りやぐら

北条高時腹切りやぐらの口は楕円形をしていますが、やぐらの中は方形の空間になっているようです。やぐら内の広さは上の写真から想像するよりも広く感じます。そして何時来ても違った花が石塔に添えられています。やぐらに関係のある方か、或いは地元の方なのか、大変手入れが行き届いています。やぐら口の不気味さとは裏腹の落ち着いた空間です。そしてここにある石塔なのですが、五輪塔とも宝篋印塔とも違うようで、どうやら数種類の石塔の残を寄せ集めたもののようです。普段は暗いやぐら内ですが右写真のように午後の太陽の位置よっては光が射し込むこともあります。

東勝寺で自害した人達の遺骨は発掘されているのか?
さて、『太平記』の記述が本当だとすればこの東勝寺で870人もの人達が死んでいるわけですから、それらの人達の死骸が発掘調査で出て来てもよいはずなのですが、それがどうやら発掘では人の骨などは出てきていないようなのです。そのことから当然研究者達は火災後は後片付けをしていたのではないのかと推測しているようなのです。では片付けられた死骸は何処へ行ってしまったのか?

素人ながら考えられそうなことは「高時腹切りやぐら」と呼ばれるものがここにあるわけなのですから、ここいら辺りのやぐらにまとめて葬られているのでは無いかと想像するのです。上の「高時腹切りやぐら」の写真を見て頂くと、やぐらの下半分は土に埋まっているようにも見えます。実際にこのやぐら自体の発掘調査はされていないようなので、やぐらの地中には何かが眠っているのかも知れないのです。

それからこれは宝戒寺の寺伝よると東勝寺で死んだ人達の遺骨を釈迦堂の奥のやぐらに埋めたという伝承があったそうです。釈迦堂は東勝寺の東の尾根の裏手、大御堂ヶ谷の更に一つ尾根東にあったものです。そして実際に釈迦堂ヶ谷の奥のやぐらから多量の火葬骨に混ざって元弘3年5月28日の刻銘がある五輪塔が出てきているといいます。東勝寺が焼けた後の初七日に当たる日付けの石塔です。更にその付近のやぐらからは頭部に刀傷を受けた頭蓋骨の焼けたものも出ているそうです。

鎌倉武士の滅びの哲学
今年(2004年)はNHKの大河ドラマで「新撰組」が放送されていますが、新撰組のことを最後の侍とか呼ばれてもいるようです。また映画では「ラスト・サムライ」というのが話題にもなっています。昨年の大河ドラマでは武芸を極めた「宮本武蔵」も放送されていて、ここに来て日本の中世の武士(もののふ)が注目されているような感があります。

武士とはいったい何者なのか。正直言ってホームページの作者の私もよくわかりません。とにかく現代人には理解できない生き方をしていた人々です。辞書で引いてみると「百姓・商人の上の階級。武道によって主君に仕えた。さむらい。」などと書かれています。

律令時代の令外官(りょうげのかん=令の規定外の官職)に「検非違使」・「押領使」・「追捕使」などというのがあり、現代でいう警察のような職がありました。素人考えですが、このような人達が武士の前身であったのかも知れません。

平安時代の中頃から地方では班田制が崩壊し荘園が発達するようになります。地方官である国司は治安維持よりも徴税に力を入れたのでありました。武士の起源は国司の直属軍であるとか、豪族ら在地領主が武装集団化したとかいわれているようです。武士団は相互に争い、そんな中で中央政治に反旗をふるう事件が起きました。余に知られた「承平・天慶の乱」です。平将門は東国に独立国家を築こうとこころみましたが、征圧されてしまいますが、その思想を後に実現したのが鎌倉幕府の創設者である源頼朝です。

前置きが長くなってしまいました。『太平記』の中の東勝寺炎上は鎌倉幕府の終わりを告げるものでもあります。ここで登場する長崎高重の生き様が一つの鎌倉武士の哲学とみることもできるのではないかと思います。

柳田俊一氏の「肩がこらないページ・現代語訳太平記」分室で語られている長崎高重を拝見させて頂きましょう。『太平記』巻十 長崎高重、最後の奮戦

長崎高重はここで崇壽寺の長老、南山和尚に「勇士の振る舞いとは、これいかに?」と問い、南山和尚は「剣を振るって、ただひたすら前に進むのみ。」と答え、再び戦中へと向かうのでした。負けるとわかっていても最後の最後まで切りまくり、もはやここまでときたら主君の高時の居る東勝寺に戻り、冥土の土産話として戦場の奮闘ぶりを話すのでした。そして自害の場では自ら真っ先に割腹のお手本とばかりに切腹して果てるのです。北条高時は道楽もので田楽や闘犬などを好むだめな指導者だと思われがちですが、死ぬ間際は逆にあわれに感じます。長崎高重の健闘ぶりを心配そうに見送り、最後は逃げることなく切腹し果てるのでした。

私自身は血なまぐさい話は好きではありませんから、長崎高重の最後を格好良いとは思いません。しかし、高重の行動は壮烈きわまりないものが感じられ圧倒されるばかりです。このような武士の生き様に似たものは他国に類例はあるのでしょうか? 高重の死に際は武士の哲学とか美学でもあるように思えます。冷静に検討してみると、破れかぶれの傲慢な振る舞いでも無いと思うのであります。武士道とは儀を重んじるものだそうです。今の個人主義の日本とは正反対の者だったわけなのです。日本の歴史の中では鎌倉時代から江戸時代の終わりまで武士が政治を行っていたわけです。

死をも恐れず戦場へ向かい、自ら腹を切ることができる人間など想像がつきません。自ら腹を切るなどと恐ろしいことを誇りとする人間がいるのでしょうか。腹を切るのはこれは大変な痛い話です。ハッキリ言って私には出来ません。現代人は弱い物虐めしかできない人間が多いようです。自分より地位も力もある人間と正面切ってまともに戦いを挑む人間などいないことでしょう。現代人と鎌倉武士の生き様と見比べて見てみるのも何かの参考になると思うのです。更には新撰組や浪士達が時代に逆らっても貫いたものとは。己の生きる道を信じていた武士とは如何に。ただ、決して鎌倉武士の真似をしようと言っているのではないので誤解のないように。

その後の東勝寺は?
元弘3年5月に新田軍の鎌倉攻めで焼かれてしまった東勝寺は、その後どうなってしまったのでしょうか。現在は完全なる廃寺でありますから何時頃に廃絶してしまったのかが気になります。東勝寺に関連した史料を探してみると意外にも鎌倉幕府滅亡後直ぐに再建され南北朝時代には時勢がかなり盛んであったようなのです。至徳3年(1386)に関東十刹三位の格式を得ているのでした。ただ、現在迄の発掘調査によると14世紀後葉から15世紀前葉にかけての明確な遺構は見つかっていないようなのです。

万里九集の『梅花無尽蔵』に文明18年(1486)「又廃寺を扣へ、風須菩提に面し、弾琴松を看る。脚倦みて慈恩塔婆も旧礎に登らず」というのがあり、ここでいう廃寺は東勝寺のこであると考えられているようです。

永正9年(1512)に古河公方の足利政氏が妙徳という人を東勝寺の住職に任命していて、この頃に東勝寺は再興されていたと推定されているようです。

元亀4年(1573)10月19日付けの北条家氏正印判状には「前々建長寺菊長老(九成僧菊)へ進ぜられ候下地、東勝寺分、只今明地の由に候間、預け置き候、仍て状件の如し」とあり、これは後北条の氏政が円覚寺佛日庵の鶴隠周音にあてたもので、建長寺の九成僧菊という僧に東勝寺の寺領を与えたという内容で、この時すでに東勝寺は廃絶していたというのが研究者の見方のようです。

そして江戸時代、『新編鎌倉志』の葛西谷の項、東勝寺跡と琴弾松の記事では「葛西谷は、寶戒寺の境内、川を越えて東南の谷なり、山の下に、古への青龍山東勝寺の舊跡あり」とあるのでした。

祇園山ハイキングコース
さて、ここからは祇園山ハイキングコースへとご案内したいと思います。「東勝寺旧蹟」の石碑のところから尾根上へと階段状の坂を登って行きます。腹切りやぐらの直ぐ上に祠が祭られたやぐらがあります。その先から道は右へ曲がって行き、レデンプトリスチン修道院南の谷を左に見ながら進み、やがて案内標識が立つ尾根上に登り着きます。ハイキングコースはそこを右に曲がって進みますが、左へも踏み跡の道が確認できます。私は左のその道を少し行ってみましたが、途中で尾根が掘り切られていて、そこで断念しました。古い堀切なのかはわかりませんでした。

S字状堀切道
上の写真は案内標識のところを右へ少し進んだ付近で、ちょうど腹切りやぐらの真上辺りのものです。道が細くS字状に尾根の突起を越えるところで、財団法人鎌倉風致保存会の「東勝寺跡・妙本寺周辺現状測量調査報告書」に「S字状堀切道」として説明されているところです。なるほど確かに尾根が掘切られていて、ハイキングの道がそこをS字状に通り抜けています。報告書には古いものではないと感じられると書かれています。右の写真はS字状堀切道を更に進んだ辺りのものです。冬の柔らかい日差しが心地よく感じられました。

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