祇園山ハイキングコース(東勝寺跡)・・・その1

古都鎌倉は南が海に面して他の三方は山に囲まれています。そのことから鎌倉は山が多いところと想像されます。実際に鎌倉に入るには何れかの山を越えなくてはなりません。鎌倉を囲むそれらの山々には多くのハイキングコースが整備されています。今回はそのハイキングコースの中でも最も鎌倉の街中に近いもので、東側の山稜を歩く祇園山ハイキングコースを北側の東勝寺跡から南側の八雲神社まで歩いてみることにします。出発口は左写真の滑川に架かる東勝寺橋からです。
写真は東勝寺跡側から鎌倉市中方面を撮影したものです。

ちょっと待ってくれ。このホームページは古道を案内したものではないのか? そうでした、その名も「鎌倉の古道物語」でした。それならばハイキングの山道というのは無いんじゃないか。そんな声が聞こえてきそうです。では何故ハイキングコースなのかといいますと、鎌倉の山のハイキングコースの殆どが、鎌倉城外郭の連絡道であったのです。それは中世の古道であるともいえるのです。更に鎌倉のハイキングコースには歴史を感じさせてくれるものが沢山見られます。左の写真は東勝寺橋を川から撮影したものです。

東勝寺橋
東勝寺橋の袂には右の写真の東勝寺橋の説明版と「青砥藤綱旧蹟」の石碑が建っています。東勝寺橋の説明版をそのまま引用させて頂きます。

東勝寺橋は、鉄筋コンクリートが積極的に導入された震災復興期の大正13年(1924)に建造されたアーチ構造の橋です。太く安定感のあるアーチリング、V字型の谷間との微妙なバランスなどその美しい姿は多くの人々に愛され、平成11年(1999)には「かまくら景観百選」に選定されました。

青砥藤綱旧蹟
青砥藤綱と聞いてその人を知る人は少ないものと思われます。石碑の説明によると『太平記』に青砥藤綱という北条氏に仕えた武士がいたそうです。ある夜に東勝寺橋のところで十文の銭を川へ落としてしまったそうです。藤綱は人を雇い松明(たいまつ)を照らして遂にその十文銭を探し得たのですが、松明に掛かった費用は五十文であったそうです。そのことを人々は得たものより失った方のが多いと笑ったたそうです。私もその話につられて思わず噴き出してしまいました。

五十文から十文を引いたら損したのは四十文であることは小学生でもわかります。藤綱は「十文は決して多く無いが、これを無くすことは天下の宝を無くすことである。五十文を無くしたがこれは人々の為になったので天下の利である。」と云ったそうです。この藤綱の言葉で私はハッとしました。急に笑えなくなってしまいました。現代人は個人の目先の損得でした判断できないのに藤綱の言葉は本来の金銭の在り方を示しているのかも知れません。この話には深く考えさせられるものがあります。
上の写真は東勝寺橋から北の宝戒寺橋を撮影したもので、右の写真は宝戒寺橋から東勝寺橋を撮影したものです。

今回の、鎌倉散策は東勝寺跡近辺のものですから、何かと『太平記』に登場する舞台や人物と関係した史跡を辿ることになります。そこで京都の柳田俊一氏の「肩がこらないページ・現代語訳太平記」分室の、箇々のページリンクを柳田氏のご理解と協力を得て使用させて頂いています。

まずは上記の青砥藤綱の逸話についてはこちらに柳田氏の現代語訳がありますので、ご覧頂ければ参考になると思います。

太平記(4)巻三十六 
北野神社において3人の登場人物、現代の政治について論ず・その3〜付・鎌倉幕府執権・北条貞時の逸話、鎌倉幕府評定衆・青砥左衛門の逸話〜

東勝寺橋を渡った東側のところに小さな公園があります。私はよくそこで一休みします。この前もここで、おむすびを食べながらお茶を飲んでいると観光人力者のお兄ちゃんがカップルのお客さんに新田義貞の話をしているのを聞きました。左の写真はは東勝寺橋から「高時腹切りやぐら」へ、そして祇園山ハイキングコースへと上る坂道で、葛西ヶ谷中央支谷と呼ばれています。そしてこの辺りも東勝寺のあった寺域になるのです。「東勝寺遺跡発掘調査報告書」には現在のこの道の4〜5メートル程低いところに堀状の凹地が認められるとあり、これが東勝寺の参道だったのかも知れません。

上の写真の坂を上って行きます。坂道はかなり急ですが、歩幅を短くしてゆっくり上っていけば、それほど息の切れることもありません。道は途中から狭くなりますが道の両脇に民家が並んでいて、どこにでもある住宅地の景観です。しばらくして上の写真の坂道の左岸は金網フェンスとなり右の写真のところに出ます。写真は上ってきた坂道を見下ろして撮影したものです。そして写真には写っていませんが金網フェンスの前に東勝寺跡の説明版があります。

鎌倉幕府滅亡の地・東勝寺跡

東勝寺は『太平記』などによると、元弘3年5月22日に新田義貞の鎌倉攻めのさいに北条高時以下、北条氏一門が自害して果てた寺として知られていました。

『太平記』巻十鎌倉兵火事の条
「去る程に、余煙四方より吹懸けて、相模入道殿の屋形近く火懸りければ、相模入道殿千余騎にて、葛西ヶ谷に引籠り給ひければ、諸大将の兵共は、東勝寺に充満たり。是は父祖代々の墳墓の地なれば、爰には兵共に防矢射させて、心閑かに自害せん為也。(中略)相模入道も腹切給へば、城の入道続きて腹をぞ切りたりける。是を見て堂上に座を列たる一門、他家の人々、雪の如なる膚を押肌脱々、腹を切る人もあり、自ら首を掻き落す人もあり、思々の最後の體、殊に由々敷ぞ見えたりし。(中略)惣じて其門葉たる人二百八十三人、我先にと腹切つて、屋形に火を懸けたれば、猛煙昌に燃え上り、黒煙天を掠めたり、庭上門前に並び居たりける兵共、是を見て或いは自ら腹を掻き切って、炎の中へ飛入るもあり、或いは父子兄弟差違ひ重なり臥ものあり、血は流れて大地に溢れ、満々として洪河の如くなれば、屍は行路に横たはつて、累々たる郊原の如し、死骸は焼て見えね共、後々に名字を尋ぬらば、此へ一所にて死する物惣て八百七十余人なり。・・・」

上記の記述が読みづらいと思われた方は、下記の柳田俊一氏の「肩がこらないページ・現代語訳太平記」分室をおすすめしたいと思います。
『太平記』(1)巻十 「高時以下、北条家一門、自害」

上記の『太平記』の記述から東勝寺で果てた北条氏一門とそれに関連した人々の最後は凄惨たるもので、想像するだけでも身の毛がよだつものがあります。この鎌倉幕府滅亡の記述は日本史上でも時代の最後を告げる血なまぐさい光景として他に類例を見ません。

また『梅松論』にも
「楽つきて悲来る習ひ楯がたくして、相模守高時禅門、元弘3年5月22日。葛西谷にをいて自害しける事悲むべくも余あり。一類も同数百人自害するこそあはれなれ。 」

東勝寺は山号を青龍山といい、青龍とは四神相応による東の守護神を意味します。古い文献史料によれば開山は退耕行勇で開基は北条泰時となっているようですが確かな創建年代などはわかっていないようです。位置的には北条氏館(現在の宝戒寺)に近い滑川の左岸で、東方背後は山に抱かれていて葛西ヶ谷と呼ばれている谷戸一帯が境内であったと思われています。

東勝寺は北条高時が自害した寺であることから、北条氏と強い拘わりのあった寺であったと思われます。『円覚寺文書』所収の北条貞時13年忌供養記元亨3年(1323)によれば、この法要に北条氏縁の禅宗寺院から多くの僧衆が参加していて、建長寺の388人、円覚寺350人を始め38ヶ寺で2030人が数え上げられているようですが、この中で東勝寺は53人が参加していて38ヶ寺中で10番目の人数規模から鎌倉中でも大寺院であったことが窺われるといいます。

さて、この東勝寺は現在は全くの廃寺です。東勝寺があったところは滑川の東勝寺橋を渡って少し上った付近であったろうことは以前から伝えられてはいましたが、実際に『太平記』に記されているように、北条高時始め一門が自害した事柄は事実なのかという証はありませんでした。『新編鎌倉志』の葛西ヶ谷の項には「今も古骨を掘出す事有りと云う。」などの記述が見られます。

右の写真は東勝寺跡の説明板があるところの金網フェンス内を撮影したものです。空き地に草が生い茂り荒涼たる風景です。向こうの崖面には「やぐら」でしょうか、岩に穴が開いているのが確認できます。現在ここは国指定史跡になっているようです。

東勝寺跡地では昭和50年から数度の発掘調査が行われていて現在までに多くの遺構や遺物が確認されていて、ここが『太平記』の記述通りの火災にあった寺跡であることがほぼ間違いないという成果を上げているのでした。

第1次・2次発掘調査
昭和47年に「鎌倉市心身障害児通園センター」の建設の計画が出され、その施設建設予定地がここ東勝寺跡地でありました。ここは元弘3年(1333)に北条氏が滅亡し鎌倉幕府最期の地と伝えられていたことから、赤星直忠氏を団長とする調査団が作られ、昭和50年2月10日から3月25日までの期間で発掘調査が行われました。現在放置自転車回収場の裏の平場一帯がその調査地です。調査の結果、山裾を切り広げた岩盤上に建物の柱と思われる穴や溝が発見されました。それらの穴や溝は幾度か作り替えられているのも確認されていたそうです。

また、お寺に入って行く参道と思われる2メートル幅の石敷きの坂道なども確認され、更に坂道に沿って普通のお寺には見られない強固な造りの鎌倉石による石垣も出てきたそうです。これらの遺構は寺院に関連したもであると同時に屋敷跡のような造りであることも考えられるようだと報告書にあります。そして極め付きは門跡と思われる付近から北条氏の家紋「三鱗文」の瓦が発見されていることと、溝と建物の間に約30センチに及ぶ炭と灰の混ざった層が出てきていて大規模な火災があったことを物語っているということです。

この第1次の発掘調査から、ここは北条氏に関連した寺院などの施設で、太平記の話しを裏付ける火災の跡まで確認することができたのでした。その発掘成果から各方面からの史跡指定を前提とした保存要望が出され、昭和51年の第2次調査が実施されたのでした。

第2次調査では礎石建物に多数の柱穴や通路状遺構と思われるものを含む溝、石敷きの参道及び基壇と考えられる石組遺構などが見つかっています。この調査でも第1次調査に劣らぬ成果を上げることができたのでした。

北条高時腹切りやぐら付近からの東勝寺跡-1

上の写真と下の写真は北条高時腹切りやぐら前から一段低い東側の大きな平場を撮影したものです。枯れ草に覆われ荒涼とした風景はどことなく不気味なものが感じられます。そしてここは、おそらく『太平記』で云う北条高時とその一門の人々が自害し果てた現場である可能性が高いと思われるのです。ここで何百人もの人々が自ら腹を切り、首を掻き落とし、黒煙を上げて燃え盛る建物と共に最期を遂げたと想像すると息が止まりそうな気がします。今でも北条一族の怨念が漂っているような錯覚さえ憶えます。

第3次・第4次発掘調査
土地所有者が変わった状況から平成8年と平成9年に第3次及び第4次の発掘調査が再び行われました。葛西ヶ谷の北東支谷にあるレデンプトリスチン修道院で建て替え計画があり発掘調査が行われました。その結果、北東支谷の調査地点からは礎石建物跡に溝、柱穴等や元弘3年の鎌倉攻めによるものと思われる火災面が検出されました。調査地範囲が限られていることから建物跡や遺構の詳しい性格はハッキリしていないようですが、時代的には鎌倉時代から室町時代のものと考えられているようです。

検出された大形の掘立柱建物跡
中央支谷の北条高時腹切りやぐらの東の平場(上と下の写真地)の発掘では大規模な堀立柱建物跡が検出され大きな話題を呼びました。このニュースは私が鎌倉街道に興味を持ち始めた頃のもので記憶に新しく残っています。ちょうど鎌倉幕府の滅亡について資料を集めていた時期でした。

掘立柱建物の柱穴は火災をうけた地層と思われる下から検出されていて、梁間4間・桁行7間で、外縁には雨落ち溝が巡っていたそうです。柱は15センチの角材で、柱間は210センチを計測していたといいますので、素人勘定から桁行は210掛ける7で14.7メートルとなります。この14.7メートルという大きさは目安として現在の建長寺仏殿が約12.5メートルであるといいますからそれより大きいことになります。

建物の構築年代は柱穴堀り方から出土したかわらけが立柱祭の埋納遺物と考えられ、かわらけの形態特徴から14世紀前葉に比定でき、また、柱穴の多くが炭層直下で検出されていることから考えて、この建物は『太平記』でいう元弘3年の火災で炎上したものであることは間違いなさそうだと報告書に書かれています。

建物の性格は礎石建物ではなく掘立柱建物であることから一般的な仏堂ではなく、住宅系建物の特徴があり庫裡や方丈のような建物であったと思われます。何れにしても建物規模からして東勝寺の重要な建物であったことが窺われ、背後に高時腹切りやぐらと呼ばれるものが存在することから、あるいはこの建物の中で北条高時と一門の人々が自害した可能性も考えられるのです。

発掘調査以前はその伝承のみが残っていた東勝寺跡ですが、発掘調査によりこれだけ多くの資料を提供してくれた例は稀で、私のような歴史愛好家にとってはぞくぞくするような内容でした。その後平成10年7月31日に東勝寺跡の葛西ヶ谷中央支谷に限られて国指定史跡となったのでした。

北条高時腹切りやぐら付近からの東勝寺跡-2

祇園山ハイキングコース-(東勝寺跡)   次へ  1. 2. 3. 4.