道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆◆ 所沢・長久寺付近  ◆◆◆◆◆◆◆◆

八国山

八国山は狭山丘陵東端にある山で、標高90m余りの高さですが、かつて駿河・甲斐・伊豆・相模・常陸・上野・下野・信濃の八か国の山々が望めたのでこう呼ばれるようになったといいます。山の頂上には新田義貞が鎌倉攻めのときに白旗を立てたと呼ばれる将軍塚や、近くの東村山市徳蔵寺にある国の重要文化財「元弘の板碑」があつた跡の碑などがあります。またこの山の付近には鎌倉街道の道筋が幾つかあり、新田義貞の鎌倉攻めなど、幾度と合戦の舞台となっているところです。近年には将軍塚の近くの山の南側鞍部から、国分寺市で発見さらた東山道武蔵路に繋がると思われる古代道路の遺構なども見つかっていて、ここから北の「東の上遺跡」へ続いていたと想定されています。

勢揃橋からの道より八国山を望む

勢揃橋

勢揃橋は新田義貞が鎌倉攻めの時に、義貞の軍をここで勢揃いさせたと伝えられる橋で、柳瀬川(旧久米川)に架かっています。
現在の橋はあまり大きくはありません。付近は写真のとおりの住宅でいっぱいです。この橋の前では何万もの兵士が勢揃いできるような場所ではありませんので、後の作り話が伝わっているのかも知れません。いずれにしても新田軍と鎌倉軍が、この辺りで激しい戦闘を繰り広げた場所故に、このような伝承があるのでしょう。
芳賀善次郎氏の『旧鎌倉街道・探索の旅 上道編』には昭和50年代の八国山の写真が載っていて、その頃のこの付近は住宅もほとんど無く、 のどかな田園が広がっていたようです。

勢揃橋・遠景は八国山

長久寺から南の鎌倉街道は、寺の前を東に向かい、その先の勢揃橋北の信号で二筋に分かれています。ひとつはそのまま直進し、国際航空大学校の辺りで西武新宿線と平行して南に向かう道と合流し、二瀬橋を渡り東京都に入っています。この道は更にその先で西武線のガードをくぐる道と、西武線の西側に沿う道とに分かれ、西武線の西側の道は「公事道」といい、久米川の公事所に通じていたという道です。公事所とは、税務署や裁判所を兼ねた役所だったようです。もうひとつの道は勢揃橋北の信号を南に曲がりそのまま勢揃橋に至るルートで、八国山の東裾をぬけ、久米川古戦場跡を通り、白十字病院の辺りで八国山を下る白十字病院西側の道と合流するものです。いずれにしてもこの近辺は、久米川宿の近くであったためか何本かの街道ルートがあったのでしょう。

長久寺前の鎌倉街道標示

長久寺

鎌倉街道は長久寺の山門前の交差点から北に曲がりお寺の墓地の西側の坂を上って行きます。切り通しを登っていく道は、舗装路とはいえ鎌倉街道らしい雰囲気が感じられる道です。

長久寺は藤沢の遊行寺を総本山とする時宗の寺院です。時宗は、鎌倉時代に一遍上人が開いた念仏の宗派です。長久寺の開山は玖阿上人といい、現在東村山の徳蔵寺にある「元弘の板碑」を建てた人といわれています。寺の本尊は善光寺式の阿弥陀三尊です。 長久寺と同じ時宗の寺は鎌倉街道上道沿いには数多くあり、街道を通じて宗派が広まっていったことがうかがえます。嵐山町大蔵の向徳寺も同じ時宗で、本尊も同じく善光寺式の阿弥陀三尊があります。

所沢の長久寺

長久寺の西側から坂を上る旧街道は、所沢市街の新光寺前までほとんど一直線に進んでいます。この道は途中の西武線で一時寸断されますが、その先の延長上に続いています。

下の写真は長久寺の西側にある坂道ですが、道路ミラーのところから左に曲がる道があります。左に曲がった道をしばらく行くと南陵中の前の交差点に出ます。そこには「東の上遺跡」の説明板があり、そこには遺跡の発掘地である南陵中の校庭から、東山道武蔵路と推定される遺構が発見されたことなどが書かれています。

長久寺西側の旧街道

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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