道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 狭山・城山砦  ◆◆◆◆◆◆

狭山市下奥富の前田集会施設がある前の道を西に向かうと、道端に石塔・石仏などが多く目に付き街道の趣を感じさせてくれます。この道は下の写真の入間川岸までつづいています。入間川岸には九頭龍大権現石塔があり、この付近に渡し場があったことが偲ばれます。川の対岸には狭山市柏原の城山砦の森も望めます。鎌倉街道上道の支道と考えられている堀兼道は川越市藤倉、池辺を通り入間川を渡って河越館跡付近へ向かいます。その掘兼道の通る狭山市東三ツ木付近から北西方向へ進み、この写真の辺りに出て入間川を渡り、智光山公園付近で上道の本道に合流する別のルートがあったと考えられていますが、はっきりしたことはわかていないようです。

狭山市下奥富の入間川岸・遠景の小山は城山砦

下の写真は狭山市下奥富前田の入間川岸にある、九頭龍大権現石塔です。この石塔はご覧のように大きな榎の根元にたち、高さ90センチほどで、嘉永3年(1850)の銘があります。九頭龍神とは水の神様で水難を鎮めるために川岸などに祀られています。ここに九頭龍大権現石塔があることはこの付近が川の渡し場であったことを示唆していて、この辺りに街道が通っていたことが想定できるのです。

入間川岸の九頭龍大権現石塔

城山砦跡

天文6年(1537)に北条氏綱により川越城を追われ、松山城に退いていた上杉朝定は、天文14年(1545)に川越城を奮還しようと上杉憲政の軍と合体し川越城を包囲しました。これに対し川越城の北条方は大将福島綱成ら城兵3千で、籠城半年に及びましたが、天文15年4月に北条氏康は武蔵国府中に陣を進め、一気に上杉方を攻め、総崩れさせました。この戦いは「川越夜戦」と呼ばれています。その時、上杉憲政などが陣をはった所がこの城山であるといわれています。また一説には平安時代末期の地元の豪族、柏原氏の館跡ではなかったかともいわれているそうです。

狭山市柏原の城山砦

下の写真は城山砦跡にある稲荷社です。現在は空堀や土塁の跡がこの稲荷社の付近に残っています。またここから南西の柏原上宿にも別の砦跡があり、そこは元弘3年(1333)に新田義貞が鎌倉攻めの時に陣をとったところとか、足利基氏の入間御所跡とかいわれています。城山砦の西脇を通った街道は柏原上宿に入り、その先は各説あり判然としないようです。一説は上宿の北のはずれから、川越市笠幡付近に通じる「寺街道」と呼ばれる古道を経て、鶴ヶ島・坂戸方面に向かっていたとされています。またそれとは別に西側の川越市域で「観音街道」と呼ばれる古道を経て、鶴ヶ島市三ツ木地内に残る鎌倉街道伝承地を通過した後、坂戸から東松山市高坂方面に向かっていたともいわれています。更に智光山公園か或いは日高市大谷沢付近で上道本道に合流したという説もあります。

城山砦の稲荷神社

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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