道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆◆ 坂戸・森戸  ◆◆◆◆◆◆◆

国謂地祗神社(森戸神社)

東武越生線西大家駅前の踏切を渡り、北へ向かう坂を下り始めたところに、国謂地祗神社(くにいちぎじんじゃ)があります。この神社はもとは熊野神社でありましたが、明治初年に熊野権現の別当であった修験大徳院の大徳氏によって国謂地祗神社と改称され、また森戸神社ともいわれています。毎年10月15日に行われる「しし舞」は坂戸市指定無形文化財になっています。獅子舞は全国各地にみられるものですが、獅子舞とはどういうものなのでしょうか。獅子舞は神楽の流れから出てきた田楽にちかいもので、獅子頭をいただいて舞うのでそのように呼ばれ、獅子舞いは人間の生活をおびやかす悪霊を払い、獅子はそれを鎮める威力のある霊獣として崇められ、各地で行われているのです。

国謂地祗神社

万葉遺跡大家が原歌碑

西大家駅から旧街道を北に少し行くと左へ坂戸西高に入る道があり、その途中の東京国際大グラウンドの北に万葉の「大家が原歌碑」があります。

万葉集14巻 3378
入間道の大家が原のいはゐづらひかばぬるぬる吾にな絶えそね

入間野に生えている、いはゐづらが引けばぬるぬると続いて切れないように、私とあなたの間柄も何時までも続いていて欲しい

この歌の大家郷が現在の越生から坂戸の一部である大家付近と推定されていますが、確かな論証はされていないそうです。入間道は鎌倉街道上道の前身の古代の道と思われます。いはゐづらは水性植物の何者かだといいますが、しらべても詳しいことはわかりませんでした。

この歌の碑が大井町の大井氏館跡近くにもあるのを見つけました。大井氏館跡付近からは中世のものではないかと思われる道路遺構が発見されています。
※大井町は、平成27年では「ふじみ野市」になっています。また越生町大谷でも、この万葉歌の候補地になっています。

万葉の大家が原歌碑

下の写真は森戸橋付近の高麗川の流れです。高麗川は秩父の正丸峠付近を源流に、飯能市、日高市を流れ坂戸市に入り写真の付近を流れ、東松山市との境で越辺川と合流します。

ここから7キロほど上流に、川の名前にもなっている、日高市高麗本郷があり、付近は古くから人が住んでいたところのようで、石器時代の住居跡なども発見されています。奈良時代の霊亀2年(716)に「駿河等七国の高麗人1799人を武蔵国に遷し、初めて高麗郡を置く」と『続日本記』の記事にあり、その場所に推定されています。付近には高岡廃寺高麗神社聖天院など古代の高麗に関係した史跡が多くあります。彼岸花で有名な巾着田も高麗本郷にあります。

高麗川森戸橋付近

森戸橋は鎌倉街道上道が高麗川を渡ったと思われる付近に架かる橋です。現在の橋は狭く普通自動車一台しか通れません。対向車がある場合は橋のたもとで待つことになります。徒歩なら車がどちらから来ても注意して渡れば大丈夫です。橋の下の付近一帯は良い釣り場とみえて、いつ来て見ても必ず釣り人がいます。高麗川は蛇行が多く古来より幾度となく氾濫して来たものと思われます。上道の渡河地点もこの付近としか推定できません。

高麗川に架かる森戸橋

森戸橋を渡り北へ向かう道を行くと、付近は河川敷のためか、街道跡らしさはあまり感じられません。毛呂山町の市場の台地に上る少し手前の道端に、下の写真の馬頭観音の石塔が一つ立っています。この先、毛呂山町に入った街道は、西大久保と市場の境、及び大類と川角の境を越辺川岸まで進みます。毛呂山町内の推定鎌倉街道上道は、埼玉県内で最も良好に街道跡が残るところなのです。

毛呂山町市場に向かう途中の馬頭観音石碑

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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