道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 神川・植竹・関口  ◆◆◆◆◆◆

姫塚

神川町の鎌倉街道上道本道は八日市の熊野神社近辺からJR八高線の西側へ出て植竹に入ります。植竹では神川町役場の南側辺りを通って上肥土付近の神流川を渡り群馬県の藤岡へ結んでいたと考えられています。また別の鎌倉街道道筋で植竹に入り九郷用水沿いに西へ向かい小浜の普門寺、小松神社辺りから神流川を渡るものもあったようです。

植竹の東南の九郷用水近くの台地上に姫塚という古墳があります。姫塚には南東側に2基の五輪塔と板碑が集められています。五輪塔は2基ほど確認できますが完全な形ではなく、材質やバランスから考えて寄せ集めであると思われています。そして塚の頂上には石祠もあります。

神川町植竹の姫塚

今から500年程昔の話になります。児玉の八幡山の雉岡城主に上杉の家臣、夏目豊後守定基がいました。ときは戦国時代永禄年間の頃、雉岡城は小田原の北条方に攻めたてられるようになり、夏目豊後守定基は上野国に引き上げようとしていました。しかし病弱な幼いお姫様がいたので一族はそのことが気がかりだったのです。そしていよいよと押し迫ったときのある夜に幼い姫を伴って城を抜け出し植竹までやって来ましたがそこで姫は遂に息を引き取ってしまわれました。一族は悲しみながらも近くにあった塚に姫を葬ることにしました。生まれ育った八幡山が眺められるように塚の東南に葬り墓を造ると一族は上野を目指して落ちて行ったといいます。はかなくこの世を去った姫を悼むかのように村人達はこの塚を姫塚と呼んでいるそうです。

神川町植竹の姫塚と五輪塔

丹荘駅近くで植竹の県道上里鬼石線沿いの墓地西南端に庚申塔などの石塔類が集められています。下の写真がその石塔類です。神川町には道端にこのような庚申塔が立ち並んでいる光景をよく見ることができます。江戸時代には各地を結ぶ街道や裏道がこの付近を幾つも通っていたようです。このような庚申塔群は道路や土地整備の拡張等で一つの場所に寄せ集められたものなのかも知れません。庚申塔群から鬼石方面に少し行くと神川役場方面から来る道と交差します。その交差点を右手へ西北に向かう道は鎌倉街道上道の街道跡であったと伝えてます。

神川町丹荘駅近くの庚申塔群

JR丹荘駅の北西に幸春院という寺があります。幸春院は大滝山道雲寺と号する曹洞宗の寺院です。元応2年(1320)阿保忠実の建立と伝えられています。境内は高い樹木が無いためか明るく、寺の西側からは神流川低湿地の田園風景が望めます。また本堂の西側には県指定史跡の六地蔵塔が建っています。

神川町関口の幸春院境内

幸春院六地蔵塔

幸春院六地蔵塔は石灯籠の形をした石幢で、六角柱の龕部の格面に地蔵菩薩の浮き彫りが見えることから六地蔵塔と呼ばれています。幢身の中央には高さ24センチ幅6センチほどの穴があり、横から軸棒を差し円盤状の車石がはめ込まれていたそうです。その車石を念仏を唱えながら幾遍も回すことによって願い事が叶えられると伝えられています。
六地蔵塔は下から、基礎は青色、幢身は白色、中台は茶色、龕部は黒色、笠は白色、相輪は青色と各部異なる色の石が使われ高さ1.85メートルです。基礎の各面には種字を配し東面の薬師如来の梵字の両脇に文亀3年(1503)を含む銘文が刻まれ戦国時代の作であることがわかります。
なおこの石幢はこの場所にあったものではなく近くの辻にあったといわれています。

幸春院の六地蔵塔

神川町植竹を通る鎌倉街道の道筋付近に下の写真の塚がありました。神川町の神流川低湿地から上がった台地にはこのような塚が沢山あります。写真の塚は古い時代の古墳かも知れません。神川町には県下でも最大級の青柳古墳群があります。今から1400年程前の6世紀から7世紀中頃に掛けて造られた小形の古墳が密集する群集墳です。この塚もその一つと考えられそうです。神流川を渡って鎌倉街道を旅した人達は或いはこの塚を道しるべとしたのでしょうか。ここからは上州の山々が眺められます。

追記:
この写真の塚は古墳ではなく戦国時代に武田氏と後北条氏の戦で武田側の死者を葬った物であるという情報をいただいています。神川町には御嶽城があり武田軍は鉢形城攻略の拠点としてこの地で幾多の攻防戦があったようです。地区の寺院の住職が寺院関連の書物から知ったものとのことでした。

神川町植竹の台地上にある塚

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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