道・鎌倉街道探索日記

◆◆◆◆◆◆ 児玉・雉岡城跡  ◆◆◆◆◆◆

下の写真は児玉町の旧街道と伝わる玉蓮寺東側の道です。写真の道左側のブロック塀の中は玉蓮寺の墓地となっています。玉蓮寺は現在は南の旧国道に面していますが、かってはこの東の鎌倉街道に面していたと思われます。旧街道はこの先で北に向かいJR八高線の児玉駅前近くを通ります。

児玉町玉蓮寺東側の旧街道

JR八高線の児玉駅前近くの旧街道は下の写真のような住宅地の中を通っています。地図上で児玉町の中心部を見てみると旧国道付近の稲荷社から玉蓮寺東側を通り駅前近くをかすめ八幡山の八高線ガード付近まで一本道が認められます。写真の道はこの先で駅前通りにでてそこで一旦旧街道は消えていました。

児玉町市街地の旧街道

JR八高線の児玉駅から西に伸びる駅前通を少しだけ西へ行くと右に折れる道があります。そこを右に折れてすぐまた斜め左に行く道がありその道が駅前通りに出て一旦消えた旧街道の続きのようです。その道を少し北へ進むと十字路がありそこで右に折れると下の写真の六神碑と井戸があります。これらはこのあたりに街道が通っていたことを偲ばせてくれるものです。この先の旧街道はJR八高線に突き当たります。かっての旧街道は線路を越えその先は長福寺という寺の境内を抜け現在の国道254号線と街中を通る旧国道がぶつかる交差点まで続いていたそうです。

児玉町市街の六神碑と井戸

雉岡城跡

雉岡城は通称八幡山城と呼ばれ4~5郭で構築された平城で、戦国時代に山内上杉氏の居城として築かれました。その後に地形が狭いということで山内上杉氏は上州平井城に移りこの城には家臣の夏目豊後守定基が入り永禄年間には北条氏邦によって攻略され鉢形城の属城となったようです。天正18年(1590)の豊臣秀吉の小田原攻めの際には前田利家により落城しました。徳川時代には松平家清が居城していましたが慶長6年(1601)に三河吉田城に移ると廃城になったと伝えています。城跡は西側が削平されていますが空堀や土塁が多く残り往時の面影を伝えています。

雉岡城跡公園

現在の雉岡城跡の二の郭は児玉中学校に、三の郭は県立児玉高等学校の敷地になっています。本郭は他の郭より一段と高くなっていて中央に幅10メートルを超える空堀があり南側は断崖になっています。また城跡公園内には児玉町保木野出身で「群書類従」を編纂した国学者塙保己一の遺品を展示している塙記念館があります。

児玉の駅前からの道の北側一帯は八幡山と呼ばれていて、中世後期から近世にかけて宿場として栄えた所で、『新編武蔵風土記記稿』にも江戸より川越を通り西上州に至る脇往還の駅家で、人馬の綱ぎ立てをし、民居も繁栄し家々が立ち並び、児玉村の地と続き、あたかも一つの宿のようだとあります。

雉岡城跡公園

 

オリジナルを重視するため、鎌倉街道上道(埼玉編)の作成当初の市町村銘そのままにしています。 平成27年の鎌倉街道上道が通る市町村は、以下のとおり変更(合併)されています。

花園町→深谷市  川本町→深谷市  児玉町→本庄市

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