This is a Japanese translation of "St. George the Chevalier" by Anna Kingsford.

以下は "St. George the Chevalier" by Anna Kingsford の全訳です。


VIII. 騎士・聖ジョージ

著: アンナ・キングスフォード
訳: The Creative CAT

我らの知性を形作る種々の地層のいくつかに於いて、ここ数年来、宗教的形而上学なる主題が興味を集めている。この興味は様々な形をとり、多くの発展を見せた。それらのいくつかは、堅固な思想的貢献を齎らす内的な価値ではなく、主に奇抜さという点に特徴があることによって着目された。通常の西洋精神にとって目新しいソースから集められた神智学的教条の語句・象徴・論述は、それらを理解するために外国語および奇妙で混み入った心理学に関する学習を必要とすることと相まって、キリスト教の信仰を身につけ、その神秘に関わる内容豊かな探究をなしてきた者にとっては知的なハードルがあまりに高い。かような者なら、それらの神秘の何たるかを外国の解釈者に頼らず喜んで学ぶだろう。自身の教会が、自身の信条が、知りたいと望む思う全てを教えてくれると考えるのだし、信仰を同じくする者が代々崇めてきた名前や象徴を、耳にも舌にも馴れぬ何物かのために拒もうとなどしないのだ。もし宗教的形而上学の復興が差し迫っているなら、我らが父たちの祈りと切望とによって深く刻まれた古の道筋を歩ませよう。我らが信仰の伝統が解明する不可思議なる謎に耳を傾け、またキリスト教の聖者たちが踏破した超越的思考がいかなる神秘的な高みに我らを導きうるのかを知ろう。なんとなれば聖人たちの伝説とヴィジョンは、カトリック教義の秘教的な起源と性質とに関する貴重な証言に満ちているからだ。そして伝統が古ければ古い程、由緒正しいければ正しい程、それはより根源的で霊的な性質を帯びる。かような聖伝説の中でも、闘士聖ジョージのそれこそが我々にとって最重要である。彼の聖なる事績については11月がめぐり来るたびにカトリック教会が讃え、これを通して英国の人口に膾炙しているのだが、それが唯一の理由ではない。彼の物語は秘教的伝説として徹頭徹尾定型的であって、その中にカトリックの真実と信仰が他のものより単純かつ純真な形で結晶しているからでもある。宗教的な神秘思想を探究する者には、かような物語を端緒として研究を発展させるのが恐らく最善の方法であろう。そこで彼らは、心霊形而上学の全議論および神智学の完璧な証明が、柔和なアウトラインと優美な言葉の中に述べられているのに気付くこととなる。探究の端緒においては、論文よりも寓話の方が興味を掻き立てるものなのだ。偉大な宗教の教師は皆その事実を認識しており、そのような方針を採用してきた。

畢竟、思考の最高形態は想像なのだ。人は想像から歩み出し想像へと至る。真実そのものは語り得ない。最も崇高なる形而上学は純粋に象徴的なのものだ、人口に膾炙した伝説と同じく。

我らが国の守護にして闘士たる聖ジョージについてのカトリックの物語は、かつては世界的に誉高かった。だが、青春時代、先祖の心の糧となった古い書物の代わりにミルやハクスリー、スペンサーやダーウィンを読むのに明け暮れてきた今の世代にとって、パラディンやキリスト教戦士の遍歴譚はどこか錆び付いた記憶になってしまっている。そこで、まずは偉大な聖ジョージとその名高い勝利の伝説を呼び起こし、ついで秘教的観点に沿った解釈の一例を提供することとしたい。

カトリックの伝説に従えば、聖ジョージはカッパドキアに生まれ、騎士道の冒険を求めて四世紀初めにリビアに渡った。今に至るも騎士の中でこの偉大なる聖人ほど高潔かつ勇敢な者はなく、またその武芸の秀でたること群を抜いていたゆえ、彼の徳と名は悪しきことを為さんとする輩ども皆の恐るるところとなっていた。

リビアにはその頃シレーナという名の都市があった。この都市は城壁を隔てて大きな湖に接しており、湖には一頭の巨大で恐ろしげなドラゴンが棲んでいた。この恐るべきドラゴンとの戦いに、名だたる騎士が何人も敗北を喫した。誰一人として一矢だに報いることができず、もう長いこと周囲の土地は荒廃するに任されていた。怪物を打ち倒すべく立ち上がる者はもはや一人もいなかった。何年も何年も、毎日毎日、哀れなシレーナの住民たちは自分たちが飼っている羊や牛から相当な頭数をドラゴンに捧げ続けた。ドラゴンは一先ずそれで満足したようで、人身御供を要求することはなかった。ついに全ての家畜が潰えたとき、住民は恐るべき立場に置かれていることに気づいたのだ。ドラゴンは都市の城壁を取り囲んで空気を毒息で汚し、あたかも伝染病に冒されたかのように多数の人民が死んだ。そこで人々の命を救おうと、子持ちの者全員にクジが配布され、当たりを引いてしまった家長は息子か娘を怪物に差し出すよう強いられた。こんな恐怖の期間が続いたある日、王が死のクジを引き当てた。この義務からは誰もが除外されなかったのだ。

さて、王には子供が一人しかいなかった。美しい姫君である。この年貢をなんとかし、娘を救える者がいたら、王の冠も国も富も、その一切合切を授けようとまで言った。だが民衆は聞く耳を持たなかった。王様であろうが誰であろうが最も下賤な市民と同じ運命を甘受すべきではないか、というのだ。王は、娘に因果を含め死地へ送り出す心の準備をするためにどうか8日間待ってほしい、とドラゴンに頼んだ。その間、前例のない遅滞に激怒したドラゴンは生贄を待ちかねて城門にぶら下がり続け、壁の防備に当たる番兵と武人たち全員に毒を吹きかけた。民衆は王の元に使者を送って、その弱い心を詰った。「娘のためなら家来を殺してもいいのか。どうして俺たちが毎日ドラゴンの毒息に苦しまなければならないんだ」と。

悪しき時間をこれ以上引き延ばすことができないと悟った王は、娘に王室の衣を着せ、優しく抱くとこう言った。「ああ、愛しき我が子よ。儂はお前が我が一族を継いで行くところを見られると思っておった。お前に王子を迎え入れる婚礼の日を待っておった。だが今お前は花の乙女のまま散らねばならぬ。呪うべき怪物の生贄として! 御神は何故お前がこの世に生まれる前に儂を殺してくれなかったのか。」

痛ましい言葉を聞いた王女は父の足元に崩れ落ち、涙を流しながら別れの祝福を求めた。すすり泣きつつ王はそれを与え、これを最期と娘を腕に抱いた。彼女は子羊のように都市の城門に導かれ、その後には嘆き悲しむ側女たちと群衆が続いた。深い堀に架かる吊り上げ橋が降ろされた。ここで王女はお供の者たちと別れ、自らを滅ぼす怪物の待つ湖へとひとり歩を進めた。

ここに通りかかったのが聖ジョージである。輝く甲冑を纏った彼は、令嬢が一人で涙ぐむ姿を馬上から認めた。彼はやおら馬を降りると、騎士らしい気遣いを奉った。だが令嬢は戻れという手つきで叫んだ「そこなるお方、今すぐ馬に戻り逃げてくださりませ。私の道連れになって命を落とすことはありませぬ!」 しかしこれに対して聖者は応えた「まずは教えられよ。なにゆえ貴女がここに、かくも悲しげなる風にしておられるのか、なにゆえ夥しい数の住民たちが城壁から恐れの目で我らを見ておるのか。」 王女これに応えて「なるほど、貴方は大いなる高貴の御心をお持ちなのですね。ならば一層お急ぎになって。貴方ほど善良なるお方のお命を無駄に散らすようなことがあってはなりませぬから。」

「わたくしは罷りませぬ」と騎士。「わたくしが知るべく希求しているものを貴女の口から聞くまでは。」

そこで王女はすすり泣きを漏らしつつ、悲しむべき事情を全て物語った。聖ジョージは雄々しい意気込みで応えたのだ「恐るゝなかれ、ご令嬢。キリストの御名において、貴女のためドラゴンを成敗つかまつります。」

この時、王女の胸に騎士への愛が生まれた。両手を固く結んで声を張り上げた「勇敢なる騎士さま、私と一緒に死のうとなさらないで、辛い目に遭うのは私だけで十分です。私を助けることも救うことも出来ませんわ。私と同じ運命になるだけ。」

この言葉が放たれると、湖面が割れ、獲物を目にしようと奥底の棲家から怪物が浮かび上がってきた。震える乙女はまたも叫んだ「逃げて! 逃げて! ああ、騎士さま! 私がやられるところを見ないで!」

なるものかと聖ジョージは悍馬に跨がり、聖なる十字を切ってキリストに身を委ねるや、低く構えた槍と共に大口を開ける怪物の巨大な顎の間を目掛けて突進した。この勢いを受けたドラゴンは敢え無くももんどり打って倒れ、聖者の足下に力なく伏した。そこで聖ジョージが聖なる呪文を唱えたためさしもの怪物もひどく恐れをなした。その猛威はこれ以上立ち現れることができぬほど粉微塵になった。祝福された騎士は王女を呼び寄せ、腰帯を外すよう指示すると、恐れることなくその腰帯をドラゴンの頚に巻きつけたのだ。すると見よ、呪文に縛られた怪物は乙女の後を従っていくではないか。かようにして彼らは街に入った。

ところが、近づいてくるドラゴンを見た住民は大騒ぎで逃げ惑った。もうだめだ皆やられてしまう、と叫びながら。それゆえ聖ジョージは怪物の首を刎ね、住民たちに命じた。「狼狽えるな、勇気を持て。あらゆる悪きものの上に主はその恩寵をくださり、この地を疫病から解き放たれるのだ」と。

ドラゴンが倒されるのを見るや、民衆は聖ジョージの元に集まって、その手や衣にキスをした。王は大喜びで彼に抱きつき、誰にも勝る彼の武勇と妙技を賞賛した。彼らにキリストの教えを伝えると、都市全体が即座に洗礼を受けた。その後、王は聖母マリアと聖ジョージを讃える壮麗な教会を建立したのだ。その祭壇の基部に妙なる泉が湧き、この水を用いればいかなる病も治った。その結果、何年もの間この都市で亡くなる人はいなかった。

以上が英国の守護聖人の伝説である —— この物語はスペンサーの詩篇「妖精の女王」の中で再話され、そこでは聖ジョージは赤十字の騎士として、王女は神話的な乙女ウナとして登場している。ドラゴンが倒された後、ウナは闘士の花嫁となる。

この聖なるロマンスとギリシャの英雄ペルセウスとの相似について、誰であろうと古典説話を学ぶ者にとって注意を喚起する必要などあるだろうか? この英雄は、美女アンドロメダを飢えた海の怪物の牙から救った。また、アルゴ船の戦士たちを指揮し保護した彼の神々しい情熱を、海陸隔てなく彼の足を無傷のまま運ばせた翼の生えたサンダルを、彼の武器となり守りとなった魔法の剣と兜のことを。

これら象徴全てにヘルメスの名が解き難く結びついている。勇気という翼科学という槍、そして神秘という兜。これらは彼のものだ。力という剣もまた。この揺るぎない強靭な意志によって原初の諸力を、深淵の怪物を、組み敷き服従させるのだ —— 人間性という希望を破滅させ、「王の娘」を喜んで食らう心霊的なドラゴンをキメラを。

というのも、ヘルメス —— 大天使にして天の御使、百の目を持つ怪物(星の力の形だ)を屠し者 —— は思想に他ならないからだ。思想のみが人を獣の上に立たせるものであり、果たすべき高貴な使命と勝ち取るべき貴重な報酬とを人にもたらし、遂には人を飛翔させ天空の星々を超えた高みに御坐す神々と共に輝かせるのである。

英雄は皆ヘルメスの子孫である。なんとなれば彼こそが精神における騎士道の創始者であり主導者だからだ。英雄はギリシャの伝説上の巡礼騎士だ。聖ジョージとその六人の同輩たちのように、ゲルマンのジークフリートのように、ブリテンのアーティガルのように、そして「sans peur et sans reproche恐れも叱責も知らぬ」多くの聖なる騎士のように。一層古い英雄たちもいる —— ヘラクレス、べレロフォン、テセウス、イアソン、ペルセウス —— 神の導きに従って地上を彷徨い、暴虐と悪とに対する果てることのない戦いを挑む者たちだ。彼らは抑圧された人々を救い、地獄の使者を滅ぼし、いかなる場所であろうと、テロルの魔手や奴隷的束縛や闇の力から人類を解放する。

聖なる騎士団は禁欲主義と宗教的無関心主義の敵だ。それは善を為されるキリストの教団である。猛き馬に騎乗し(馬は知性の象徴であるから)天使長ミカエルの大軍勢で武装するキリスト者の騎士は精神的な人生の原形なのだ —— 英雄的・能動的な博愛に生きる暮らしの。

騎士とドラゴンを巡る説話には、その全てに共通する一つの秘教的意味合いがある。ドラゴンは常に何らかの形の物質主義だ。ゾッとするような自信たっぷりの精神。人類平和に対する戦いを惹き起こしあらゆる人間の希望に対し害をなす不信という精神。聖ジョージの伝説が典型例だが、これらの説話の殆どには解放さるべき王女が登場する —— 可憐な美女であり、あわや犠牲として命を散らすばかりという場面で闘士がやってくるのだ。この王女によって示されているもの、それはである:——「聖なる書物の女性」。そしてまた全ての時代全ての国における神聖劇の核心だ。人間性への要求とその苦境が時代を超えて不変であることを証明している。それでも尚、人はこれが現代の思潮にもたらすものに否が応でも気づかされてしまう。確かに、この聖ジョージとドラゴンの話はつい昨日書かれ、我々の時代を生きる男女に捧げられたかのようではないか。現代ほどにかのドラゴンが暴虐をふるい、大地を汚したことは嘗て無かった、決して。初めて我々の前に現れた時、獣は大した餌を要求しなかった。それは幾つかの迷信と古い信条を食らうことで満足し、我々はそれらを上手に補充することができた。我々が被った損失は大きな影響を残さなかった。外の牧草地にいた羊と雌牛がやられたに過ぎなかったのだ。だがついにそれら家畜は食い尽くされ、物質主義の権化は不満足なままだ。屈服した我々は、渋々ながら遥かに貴重なものを差し出す羽目に陥った —— 確固たる信心、聖書の把握、祈りへの信頼、天なる恩寵への確信 —— 我らが血肉を分けた子供たち、我らの骨、我らの肉。これらは受け継がれてきた信仰の力によって、我らの好むものとなっていたのだ。自然それ自体と同じ程にまで。我々は泣きながらこれらを差し出した。それらの殆どは、我々の生活を美しく望ましいものにしてきたのに。それらなしには我々の団欒は侘しいものだったのに。しかし嘆願も抵抗も無駄だとわかった。物質主義的科学はそれらを一つ一つ屠っていき、古き都市、即ち精神が統べる人の王国にはもう何も残っていない。この精神という名の我らが王国は、明るい祝福のうちに美しい一人子を授かっていた。だ。王はこの一人娘が自分の死後も生き延び、娘の子が、孫が、とこしえに王座につくものと信じていた。娘と別れてしまえば、彼の希望も熱望も全て萎え滅んでしまうだろう。自分がこの世に生み出した愛娘が苦しむ様を見せつけられるくらいなら、いっそ死んでしまう方がましだ。

だがなお、不吉なことに恐るべき怪物は都市の城門に纏わり付いたままだった。空気はその鼻の穴から噴き出す邪気に満たされた。確かにこの悲観的な科学には容赦というものがない。それが供物として要求しているのはそのもの、荒れ果てた人間性の中で最後に残った美しくて大切なものだ。恐怖の顎門の間に口を開ける地獄、その中に —— 他の比較的どうでもいい信仰や希望もろともに —— 永遠に生き続ける高次の自我への信仰がまさに飲み込まれようとしている。の危機! 人の精神は絶望に凍りつく。残虐な要求に対し、時として異議を唱えることもある。議論に次ぐ議論、懇願に次ぐ懇願を繰り出して。どれも無駄な足掻きだ。他の全てが失われた今、何故に魂が尊重されようか。怪物に屈した精神は、ついに最愛のものを諦める。もはや生は生きるに値しない。目の前に立ち塞がるのは黒き死と絶望だ。ただ一つの希望であった最も美しい宝物を奪われた惨めな王国を統べることすら諦めてしまった。のない精神など人にとってどんな価値があろうか。

もはや精神の冠も富も権威も地に落ちてしまった。それらはいつの日か王女に委ねられ、その掌中で大事にされ続けることによってはじめて価値を持つものなのだ。

かくしてドラゴンは勝利する。は都市から昏き深淵の前へと投げ出され、破壊者を待つこととなる。

悲惨な時も最期を迎えようとするその刹那、神性を持つ解放者が登場する。ヘルメスの息子、天才的解釈者、霊的生活の闘士だ。ヒュドラを獅子をまた同様の有害物を斬殺したヘラクレスのように、ミノタウルスを倒したテーセウスのように、キメラを屠ったベレロフォンのように、魔烏を破ったラーマのように、巨人を撃破したダヴィデのように、ゴルゴンと海獣を滅ぼしたペルセウスのように、聖ジョージはドラゴンの首を刎ね、貪婪なる魔の手から人間性のもつ希望と誇りとを救い出すのである。

かくも多くの名を持つ英雄、それは高次の理性である。単なる意見(ドクサ)に過ぎない低次の理性と違って、この理性は知っているのだ(グノーシス)。彼は地上の兵隊ではない。天空の武器を携え、御神の徴を帯びている。かくして、聖ジョージに思いを馳せることは、時代を超えて、ヘルメスの道に従う全ての勇猛果敢なる騎士たちを賞賛することに通じるのだ。魔法の剣を佩きし者、翼のある神の靴を履きし者、王の娘 —— 類なき乙女ウナ —— のために怪物たちと戦いし者、その全てが我らが国の守護聖人の中に賛美されている。彼の属する教団霊的なガーター勲爵士あるいは聖処女の帯であって、彼の掲げる徴は武装した騎士が地下世界からの不埒なる使者をその悍馬の蹄に架けている様だ。

騎士道は活動という観念を暗示している。この騎士道の精華たる典型的な聖人は、まさに尊き信条のため嬉々として闘い殉ずる人物だ。騎士に爵位が与えられる際にかつて唱えられた「親切かつ勇猛にして幸くあれ」という言葉は、愚かな者、下品な者には決して理解し得ないものなのだ。良き騎士には、美への燃える愛情があらゆる側面において欠かせない。彼の夢見る美女は<善良性>が放つ霊的な輝きであり、それは相応しくも優美な姿を、物質的な、目に見える事物の中に自ずから顕現させる。であるからして、彼は常に詩人であり、また、なんらかの信条のための戦士である。そして彼は戦闘を余儀なくされる。なんとなれば美への愛が煌々と胸中に燃えているため、美が陵辱される姿を見るに忍びないからだ。彼の心からの優美さは悍馬を駆る拍車である。戦士も騎士も思想家や研究者と等しくヘルメスの息子であり、人類に欠くべからざる改革者にして世界の救済者である。彼にとって教義を知るだけでは不十分なのだ。神々の意志を為し、主の御国が地上に現れるべく努め、さらには自分自身の心の中にも天を導かんとするのである。

なんとなれば彼の従う使命は愛の戒律であり、「愛は己の利を求めず。」

厳密に言えば「夢」でも「夢の物語」でもないこの原稿を収載したのは、著者の達ての希望による。ここで述べられた解釈の多くは、眠りの中で彼女が受け取った知識の所産である(編)。


翻訳について

底本は Project Gutenberg の Dreams and Dream Stories By Anna Kingsford の第二部 Dream Stories の第八話 St. George the Chevalier です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。著作権保護期間が延長された現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。最後の「愛は己の利を求めず。」はコリント人への前の手紙、13:4-5からきているようです。この部分は聖書 - 文語訳 (JCL)を参考にしました。

この翻訳は2019年の5月終わりから着手し、忘れた頃にちょっとづつ継続する感じでやってきました。正直言って最後まで訳すつもりがなかったと白状してしまいましょう。東北の沿岸が地図から消え、福島の原子力発電所が爆発した後だったのにも拘わらず、あの頃は世界がこんなになるとは思ってもみませんでした。COVID-19の悲惨なニュースを聞きつつ、この作品の意義を再認識しています。神秘学に造詣のある方にぜひ再訳していただけると助かります。

それにしても、

"Why," said they, "do you suffer your subjects to die for your daughter's sake? Why doom us to perish daily by the poisonous breath of the dragon?"
なんて言えちゃうのがさすがですね。どっかの極東の島国ではとても考えられない。

第一部 Dreams の中から、短い詩集 Dream Verses を除いた部分を「夢日記」として訳出してあります(誰か Dream Verses を訳してくれませんか……)。第二部 Dream Stories「夢の物語」には、以下の八編が収められています。下手ながら邦訳を試みておりますので。興味をおもちでしたらどうぞ。

  1. A Village of Seers:「千里眼の村」
  2. Steepside; A Ghost Story:「崖端館」
  3. Beyond the Sunset:「夕映えのむこうの国」
  4. A Turn of Luck : 「幸運のターン」
  5. Noémi:「ノエミ」
  6. The Little Old Man's Story:「小さな老人の話」
  7. The Nightshade:「犬酸漿」
  8. St. George the Chevalier(本作)


18, Apr., 2020 : とりあえずあげます
もろもろのことどもに戻る