This is a Japanese translation of "Noémi" by Anna Kingsford.

以下は "Noémi" by Anna Kingsford の全訳です。


V. ノエミ
あるいは、銀のリボン

著: アンナ・キングスフォード
訳: The Creative CAT

I.

内科の開業医と病理学の学究が「世の中に失恋ハートブレークで死んだ人はいないよ」と力説するのを屢々耳にした――もちろん、このフレーズの一般的な意味においてである。モスクワ大公国の好色な暴君イワン雷帝を倒したようなハート破裂ブレークは稀な出来事であり、日常表現の「ハートブレーク」が暗示するところの精神的な困難や緊張とは何の関係もない。しかしながら、私はこの問題に関して独自の見解を持っている――その意見の基盤となるかなり強固な根拠は、私よりも科学的な精神を持った方にとっては一篇の医学論文の種になるかも知れない。しかし私はといえば、そんな論文の書き手ではなく、これまでに執筆したのは博士論文だけで、率直に言ってそれを書く時にもなかなか難渋したものだった。私はパリ医学校で神聖なるアエスクラピウスの技を学んでいたのだが、学位を取得する直前に、ちょっとした奇妙な事情に関わることになり、その結果として、この物語の冒頭の言葉が仄めかす主題について、ある見方をするようになったからである。

私がその陽気な都市の「学生街」に住んでいたのは、もう何年も前のことになる。リュクサンブール公園からそれほど遠くないhotel meuble家具付ホテルの小さな部屋を数室借りた。医学生は貧乏なものと相場は決まっており、私もその例外ではなかった。それでも他の多くの学友に比べれば、妬まれてもおかしくない程リッチな暮らしをしていた。自分用の図書室があり、一リットルで一フラン(*1)するワインを飲み、時々煙草も吸った。小さなアパルトマンは窓から引っ切りなしに人が往来する広い街路を見下ろす位置にあり、暖かい夕べには、角を回った所のレストランで食事を摂った後、窓から身を乗り出して冷たくフレッシュな夜気を吸い込み、歩行者や車馬が蟻の群れのように舗道を行き交うのを見るのが習慣だった。

学生生活もそろそろ終わりという頃の、とある気分のよい七月の夕暮れ、私はいつものようにお気に入りの態勢になって、最高にのんびりと、リラックスした気分で煙草の香りを楽しんでいた。厳しく長い骨折りの結果獲得できた安らぎだった。ちょうど日が沈んだばかりで、頭上には明るい薄紅色の光が溢れ、淡い金緑色の斑が濃紺の穹窿にとけ込んでいた。何十羽もの鳥の群れが静かな大気をダートのように素早く切り裂きくるりと向きを変え、お互いにそろそろ降りて休もうよと呼び合うかのように、澄んだ鳴声を鋭く上げた。女達は戸口に立ってしきりに井戸端会議中で、高らかな笑い声とぺちゃくちゃ喋る声が絶え間くさざめき、馬の蹄が舗道に当って発する騒音が何時果てるともない馬具の鈴の音と混ざり合っていた。

ぼんやりと街路を見下ろしていると、妙な赤犬の姿と振舞に気がつき、それから目が離せなくなった。急ぎ足の群衆とガタガタ音を立てる荷車の間で何かを探しているようだ。六回も街路を駆け上がり視界から消えたかと思うと、その度にとぼとぼと引き返してきた。一回毎に熱意と興奮を加えながら。街路を何度も横断し、道行く人の顔を一人一人眺め、あちこちにくるっと飛んで行っては、舌を出し尻尾を下げてはぁはぁいいながら戻ってきた。両目から涙を流しているような気さえした。とうとう疲れたのか諦めたのか、犬は最後に街路を渡って私の住む家の戸口に座ってしまった。淋しそうにしょんぼりして。飼い主にはぐれたのだ! 私はパリで医科学の学徒として過ごしたこの五年の間に、生理学実験室に潜む恐ろしい秘密に通暁せざるを得なかった。パリの迷い犬は、美犬でなくペットとして売れそうもない場合は、直接または間接に教授連の手に落ち、生体解剖の材料にされ苦痛の内に殺されるという恐怖の運命を辿り得ることを、私は知っていた。適当な生贄を探して歩く使用人に捕えられて即座に殉教者にされるか、あるいは追い立てられ迷い犬用の檻に収容されて惨めな何週間かを過ごす。毎週火曜日になると哀れな囚人は、生理学者達全員のふんだんな需要を満たすべく50頭ばかりずつ引き渡され、彼らはそれを手間ひまかけて「実験対象」に供するのだ。こんなことを知っていたので、conceirge管理人が道の反対側でひたすら世間話に花を咲かせているのを見て取った私は、これ幸いとrez-de chaussée一階に滑り降り、うちひしがれて入り口に座り込んだ不幸な犬を引っ攫って上の階の自分の部屋に匿った。床に降ろし、ポンポンと軽く叩いて元気づけ、水と数切れの甘いビスケットをやった。だが、犬は絶望的に惨めったらしく、ちょっと水を飲んだが何も食べようとしなかった。アパルトマンを二、三周回り、椅子の脚や壁の腰板をうさん臭そうにクンクン嗅いで、窓に背を凭れて自分の方を見ている私の足元に戻ってきた。顔を見上げて、弱々しく尻尾を振って、くぅんと鳴いた。私はもう一度屈んで犬を抱き上げ、その時、ぼさぼさの茶色い毛に半ば隠れるように首輪を巻いているのに気づいた。銀ラメのリボンで、材質もデザインもあまり見かけないものだった。さては飼い主は女の人に違いないと思い、急いでリボンを外してみた。「アメリー」とか「レオンティーヌ」とかいう名前が刺繍されているだろうと期待して。だが、それはお馬鹿な考えだということが実証された。銀のリボンには、我が家なき犬の前身を伺わせるものは何もなかったからだ。いささか当惑しながら考えてみるに、どう見てもこれはアメリーやレオンティーヌがペットとして選びそうな犬ではない。プードルには違いないのだが、ブリーダーが失敗したのか無様な犬相で、また中央部の毛をカットして足先にフリルを付ける代わりに、自然のまま伸び放題になっていた――これから判るのは、ネグレクトされていたか、所有者が女性以外の何者かだった、ということだ。しかし、この犬にまつわる中では、その犬そのものが何より不思議で、同時に魅力的だった。こんなにも人間ぽい顔つきをする犬を見たことはなかった。表情に何とも言えない愛嬌があって、それがボサボサの毛や丸い目、長い鼻と対照的で可笑しかったので、見ているうちに思わず笑ってしまう程だった。「本当に」私は犬に話しかけた「お前は剽軽者だね。旅のキャラバンの中にいたら人気者だったろうな!」夜が更けるにつれて、犬は落ち着いてきた。どうやら私のことを信用して、飼い主に返すつもりだと思ってくれたらしい。とにかく、さあ寝ようという段になると、私が出しておいた晩御飯を食べる気になり、時々食事を中断して子どものような顔を上げ、私の顔を見ると尻尾をやる気なさそうに振った。「ね、貴方をなんとか信じようとしているのですよ、貴方は医学生なのに!」とでもいいたげに。哀れなる無垢の獣よ! 近所に住む学友、ポール・ブシャールの戸口に足を止めることがなくて本当によかった。あいつは生理学実験に夢中で、どうでもいいような自称発見への賭場口と引き換えにどんなに動物を苛んでも構わないと思っている。そんな発見とやらは、唱えた途端、仲間の実験者に寄って集って覆されてしまうのに。もし拷問が科学における真正な方法だというなら、ご自慢の「科学知識の大樹」とやらは東洋の伝説に出てくるウパスノキに他ならない。その致死的な木陰にあるのは惨めな犠牲者の死体の山だ。苦悶と死の臭いのする毒気を嗅いで死んだ犠牲者達!

プードルは私の手許に何日も留まった。返してくれと言ってくる者はなく、いくら聞いてもこの犬に関する情報は集まらなかった。我が犬族の子分を初めて目にした時、管理人は当然御冠だったが、五フランの賄賂によってその義憤は解消した。犬が私に抱く不安感や疑念はおさまって、我々は実に快適な仲間同士になったのだが、その時偶然にも、これまで探しても探しても見つけられなかった手がかりが転がり込んできた。ある日、講義からの帰りがいつになく遅くなったので、普段の道を通らず近道をした。嫌な臭いのする狭い裏道の角に、一軒の小さな万屋があった。ショーウィンドウに飾ってあるのは、色あせ奇怪な形状になった様々な婦人帽だった。店先の棚の目立つ所にリボンが下がっていて、その中に、あの夜街路から救い上げた際ペパン――私は犬をペパンと呼んでいた――の首に巻き付いていたのと同じ、銀のリボンがあったのだ。躊躇うことなく私は店に入り、カウンターの奥に座ってグリュイエールチーズとニンニクをくちゃくちゃ噛んでいる汚らしい女にこう聞いた。

「マダム、失礼ですが」できるだけ快活な調子で聞いた「最近、このラメ飾りのリボンを誰かに売りませんでしたか、売ったとしたら誰に?」

たいして顧客はいないのだろう、すぐに思い出してもらえるに違いない。

「そいつがどうかしたのかい?」というのが彼女の逆襲だった。食事を中断してこちらを睨んだ。「残りを買いたいっていうのかい?」

私は察しよく、すぐさま財布を取り出して言った。「お願いですから、教えていただけると本当に嬉しいのですが。」

彼女は熱っぽい視線を私に飛ばし、チーズを脇にやって、そのリボンをショーウィンドウから取り出した。

「三週間ばかり前、それを50センチ売ったね。」ゆっくりと言った「売った相手はノエミ・ベルジュロンていって。その子を知ってるのだろ? 最近は通るのを見ないねえ。1メートル残ってますよ、1フランと20ですよ、旦那。」

「ノエミ・ベルジュロンはどこに住んでいるのですか?」とお金を現金入れに落としている女に聞いた。

「ああ、この通りの十番地にある小屋に住んでたよ、ママン・パケと一緒に。どっかに行っちまったんだろうね。この二週間あの子も犬も見ないからねえ。」

「プードルですね!」私は切ない声を上げた「毛皮が手入れしてなくて――ぼさぼさの赤犬ですよね?」

「その通りさね。ああ、お客さんはノエミを知ってるんだ――bien surもちろん!」女は私に流し目をくれるともう一度無気味に笑った。

「一度も会ったことがありませんよ」大声が出た「ですが、その女性の犬がうちに迷い込んできたのです。その犬の首には貴方の所のリボンが巻いてあって、それだけなんです。」

「へー? ま、いいか、十番地だよ。Tenezさ、どうぞ――道のあっち側にいるのがママン・パケだ。行って話してご覧よ。」

彼女は舗道の反対側に立つ口やかましそうな醜い老婆を指差した。老婆は剥き出しの両腕をお尻に当て、脂ぎった貴色っぽいハンカチをターバンのように頭に巻いていた。私の心は沈んだ。ノエミは酷く貧しいのに違いない。あるいはとても不幸なのだ。こんな老sorciere魔女と同じ屋根の下に住んでいるなんて! それでも私は道を横切って魔女ババアを呼び止め、微笑みかけた。

「こんにちは、パケさん。貴女のところの店子のことを伺いたいのですが、ノエミ・ベルジュロンといいまして。」

Hein何だって?」魔女は耳が遠くて無愛想だった。さらに声を張り上げてもう一度同じことを聞いた。「あんなズベタのことなんて知るもんか」蛙がゲーゲー鳴くような声でこう答えた。「家賃を払えやしない、じゃあ出てけと言ったんだよ。それで、どっかでくたばってるんだろ。」

「追い出した?」私は叫んだ。

「ああ、叩き出してやった」ババアは野蛮な罵りと共に繰り返した。「あのアマが悪いんじゃないか。プードルなんて獣を飼って、そいつを売って支払っても罰は当らないだろ。どうしてそうしないのかこっちが知りたいもんだね――他の持ち物は全部売っぱらったのにさ!」

「いまどこにいるか、全然わからないのですか――ほんの少しでも?」

「ちっとも。自分で探しに行きな!」呪いの言葉を呟くと意地悪く私を睨み、足を引き摺って行ってしまった。私はその反対側に帰ろうと踵を返したが、突然、骨と皮ばかりの手に腕を掴まれて振り向いた。見ればママン・パケが私をつけてきたのだ。「あんたはあの女を知ってるんだろ」強欲な目で私を見ながらガーガー言った――「あの女の代わりに家賃を払わないかい? 一ヶ月分の貸しで7フランだよ。」

しわしわで邪悪な顔に胸がむかつくような恐ろしいような表情を浮かべてすり寄ってくるものだから、私はうんざりして、相手がヒキガエルでもあるかのようにその手を振り払った。

「断る、」足を速めて言った「その娘は赤の他人だし、いま手持ちがない。」

ママン・パケは私の背中にさっきより一層嫌ったらしく強烈な呪いの言葉を浴びせかけ、罵りながら去っていった。

帰宅した私はペパンに悲しく不安な報告をした。「というわけで、結局、お前の飼い主は女性だったのだな! だが、天よ! その娘さんとお前が送っていたのはどんなに惨めな暮らしだったことか! なのに、ペパンよ、お前はその人のために泣いたのだ!」

それから何日も経たないで――三、四日ばかり――学友の一隊が一緒に煙草を吸いにきた。そうなると、貝殻がいつでも潮騒を響かすように、自然と会話は自分たちの学業のことに移っていった。病院の医局長(*2)のこと、その奇想や発見や医学的な成功のこと、力関係のこと。私達は新しい術式を批評し、手術教室と検討会室での噂を論じ、試験にパスするチャンスはどんなものかと思案した。それから潜在性の疾患や、異常心理や、遷延する譫妄といった話題に触れた。ちょうどこの時、仲間の一人で近くの病院で外科のインターンをしているウジェーヌ・グレロワという男が、こんな事を言ったのだ――

「ともかく、いま僕が受け持っている女性病棟に面白い症例があってね。アルザス人の可愛い女の子で十八か二十歳だ。三週間ほど前、荷車に当てられて、左上腕骨頭部と二本の肋骨を骨折した。そうそう、肋膜が穿孔して、外傷性肋膜炎で発熱していた。41.8度まで体温が上がったよ。三日間譫妄状態が続いて引っ切りなしに何かを言っていたんだ。他の患者の迷惑にならないよう個室に収容する必要があったぞ。何時間もベッドサイドに座って話を聞いたんだが、君もその時の彼女の話ほど妙ちくりんなのは聞いたことがないと思うね。それで彼女の来歴がそっくり判ったんだ。もっとも、あれほど可愛い女の子でなければ、そんなに気にしなかっただろうけれども。」

「ラブストーリーか、ウジェーヌ?」オーギュスト・ヴィールマンが笑って聞いた。

「それがまるっきり違うんだ。ペットにしていたらしい犬の話ばかり。奇妙奇天烈な犬だよ! 彼女から聞き取ったところでは、茶色のプードルで、頭を下に逆立ちすることができて、後脚で立って歩けたらしい。また彼女の行く所にはどこにでもついてきたそうだ。絵本や雑誌向けの木版画を彫っていた。銀の首輪をしていた。家を持てるだけ稼げるようになったら結婚しようと約束していた。名前はアントワーヌ!」

これを聞いた皆が声を立てて笑ったが、私だけは違った。心臓が踊り、顔が紅潮した。私はウジェーヌがその患者を「あれほど可愛い女の子」と言ったときの胸の高鳴りを意識していた。椅子から飛び起きて、部屋の隅で居眠りしているペパンを指差し叫んだ――

「何を賭けてもいいが、君のアルザス人の名はノエミ・ベルジュロン、ここにいる僕の犬こそアントワーヌだ!」 誰も口を挟めないうちに読者諸氏が既にご存知の事の次第を順序立てて説明した。当然ペパンは即刻召喚され、我々の間に置かれた。我々は輪を描いて並び、その中央部は件の犬がアントワーヌだと同定するためのクライテリアを満たすかどうかテストできるよう、円形に空けてあった。犬を褒めたり励ましたりする笑いとどよめきの渦の中、私の犬族の子分は少なくとも最初の二つの試験課題に合格した。後脚で立って歩き、頭を床に着けていつまでも逆立ちすることができたのだ。

実際、その犬はとても忠実でやる気があったため、尻尾を引っ張り上げるまでもなく逆立ちを繰り返した。三度目の際、窒息しないように、私はもう逆立ちをやめて普通の姿勢に戻るようにしむけるより他なかった。だが、この何とも魅力的で楽しい娯楽タイムの間も、ペパンの顔つきは常にこの上もなく真面目だった。どんな姿勢を取っていても、その目は幼児の目のように重々しいままだった。世界の全てが厳粛で、醜悪なものなど一つもないと思っている眼差しだ。

「では、木彫りはどうなる!」みんなが笑い疲れた時にジュール・ルーレがこう叫んだ。「美術用品が何もないとは哀れよのう、ジャーヴェイス!」

「ウジェーヌがからかっているんだ!」私は叫んだ。「ノエミがそんなことを言うものか。僕が保証する!」

「我が名誉に掛けて、彼女はそう言った。」ウジェーヌは語気を強めた。「明日会いに来いよ。今ではすっかり正気で、熱発もない。君の所に犬がいると聞いたら喜ぶだろうな。そのことを全部話してくれるに違いない。」

「医局長回診の後にしよう。終わったら昼だから、そこで一緒に朝食を摂ろう。」

「それがいい。笑い過ぎて喉が渇いたぞ、mon ami親愛なる友よ。もうちょっとばかり君のワインをくれないかね。こういう良いワインを買うだけのカネがないんだよ、nous autres手前どもには!」

II.

翌日夜が明けると、私はいつもより早く目覚めた。ウジェーヌは病院の早番で、十時半には彼と私は病棟で二人きりになった。大部屋をパーティションで区切って作った重症者用区画のベッドの一つに私は連れて行かれた。包帯でぐるぐる巻きの片腕を、枕の上になるようにクッションで支えられて、そこには一人の若い娘がいた。金髪をお下げに結い、甘く可愛い顔立ちで、絵の中でしか見たことのないほど器量の良い娘だった。どこか子供っぽく何かを言いたげな目、その深い色と真面目そうな口が不思議にペパンを思わせた。ペパンの素朴な表情を、精神の力で(*3)洗練させ膨らませるとこうなる。女子修道院の中であらゆる邪悪を知らずに育った若い娘の顔を想像してみたまえ――世界に汚されず、世間のあり方を何も知らない純情な少女を。私が四日前に訪れた汚泥と罪悪の籠った地区、不潔な家々、悪臭漂う路地、荒くれて冒瀆的な女と酒に酔った男ども、あんな場所からこのような人物が出てきた、そんなことはあり得るのだろうか? 私の心は不安で一杯になった。この娘はノエミ・ベルジュロンではないに決まっている!

私はある質問をした。恐る恐る。彼女が否定するのを聞きたくなかったからだ。それほど迄に美しい娘だったのだ。「別人だ」というのが答えなら、私は自棄を起こすしかない。

顔と同じように甘美な声で答えがあった。どこか驚いた感じの響きがあり、話をする間に頬が僅かに赤みを増した。繊細で透明な皮膚だ。

「はい、それが私の名前です。では、先生は私をご存知なのですか?」

今度はこちらの頬が赤く染まる番だったが、これは歓喜のせいだ。こんなに綺麗な女主人と別れたのではペパンも不平たらたらな訳である!

「先日貴女のお宅に伺ったんです、マドモワゼル」私は口ごもってしまった「うちにいるのが貴女の犬だと思ったものですから。茶色のプードルがいなくなったりしませんでしたか? こんなリボンを首輪にしている。」

話しながら、ポケットからラメの飾りを取り出した。だが、私の言葉が終わらないうちに、もう彼女は嬉しそうな声を上げて飛び出しそうになり、折よくベッドサイドに立っていたウジェーヌが押えたからよかったものの、さもなければ興奮した彼女の折れた腕は酷いことになったかもしれない。

「ああ!」彼女は歓喜に咽びながら叫んだ「私のバンバン、私のバンバンちゃん! すると、あの子は見つかったんだ――無事だったんだ、また会えるんだ!」

「バンバン!」 私は半信半疑で繰り返した。「グレロワ先生は、アントワーヌという名前だと思っていましたよ!」

繊細な頬から三つ編みにした髪の毛の根元までさっと赤みがさした。

「いいえ、」低めの声で応えた「先生は誤解しているんです。私の犬の名前はバンバンです。私達、そう名付けたんです。ほら、本当に赤ちゃんみたいでしょう、だから。あの子って赤ちゃんみたいだと思いませんか、ねえ先生?」

そんな彼女本人が素晴らしいくらい赤ん坊のようだったのだ。私はそう彼女に教えたくてしょうがなかった。赤面するところがとても魅力的で、好奇心を押えられなくなってしまった。

「じゃあ、アントワーヌって?」私はしつこく聞いた。

「お友達です、先生。木を彫っているんです、芸術家なんです。」

ウジェーヌと私は目配せした。

「お二人は婚約されているのですね、違いますか?」無意識のうちに、子供に質問するような調子になっていた。到底自分自身の秘密を持つような年齢には見えなかったのだ。

「はい、先生。ですが、彼の居所がわからないのです。長い間探してきたんです、ああ、本当に長い間!」

「え、彼氏もいなくなってしまったんですか、バンバンだけじゃなくて?」

彼女はつらそうに首を振った。

「教えてください、」私は彼女を宥めにかかった「多分、彼氏も探し出して差し上げられますよ。」

「私達はアルザス人です。」瞼を伏せてノエミが言った。疑いなく溢れる涙を隠すためだ「同じ村に育って許婚になりました。アントワーヌはとても器用で、綺麗な木版を彫れました――おお、凄く綺麗に――。それで彼はパリにやられ、そこで大店に奉公しながら徹底的に彫刻を勉強することになったのです。父と共に家に残った私に、アントワーヌは何度も何度も手紙をくれて、それにどんなに上手くやっているか、どんな風に木彫りの新しい方法を見つけたか、いつの日にかどんなにお金持ちになれるか書いてありました。そしてすぐに結婚するんだと。その時、父が亡くなったのです。本当に急なことで、私は家でひとりぼっちになりました。そうしたらアントワーヌからの手紙がこなくなりました。私は手紙を出し続けているのに、何週間待っても。それで私は惨めで不安な気持ちになって、バンバン――アントワーヌが私にくれたのですが――にいろんな芸を仕込んで、パリに出てきました。彼を捜すつもりで。その時は少しお金があり、レース編みもできましたし、アントワーヌとすぐにも結婚できると思っていました。ところが彼は勤めていた店を辞めて、宿の人も彼のことを何も知らないようでした。管理人部屋には私が出した手紙が山ほど封を切らないまま残っていて――誰も行き先を知らないで、だから私は何も知ることができなかった。持ってきたお金はだんだん自分とバンバンの食費に消えていって。その時誰かからママン・パケが安く部屋を貸出していると聞いたんです。それでそこに行ってレース編みで生活しよう、アントワーヌはきっと私を探し出して帰ってきてくれる、と信じて。ですが、そこの空気は本当に酷くって――村から出てきた私には本当に!――私は熱を出し、病気になって、全然働けなくなってしまいました。それからはタケノコ生活で、レース編み用の枕まで売りました。全部売り払うと、おばあさんは今度はバンバンを売れというのです。賢い犬なので、結構なお金になるでしょう。でも、あの子を売るくらいなら、自分の心臓を身体から取り出して売りますよ。そうおばあさんに話しました。そうしたら怒ってしまって、私たちを、バンバンと私を、追い出したのです。一日中その辺をさまよって、私は疲れ切って失神してしまいました。長いこと病気をしていましたし、先生、私達には食べるものがなかったんですよ。気を失って道路にばたりと倒れた所に荷車が通って轢かれました。住人の方が私を助け起こしてここに連れてきてくれたのですが、バンバンのことを知っている方はいませんでしたし、私自身は気絶していて誰にもそのことを言えませんでした。ですから、住人の方はあの子を私とは無関係な迷い犬として追い払ってしまったに違いありません。気がついたら病院で、バンバンはいなくなっていました。もうあの子には会えないと思っていました。」

彼女は枕に身体を落ち着け、ほっとしたように大きなため息をついた。明らかに、同情的な聞き手たちに自分の身の上を話したおかげで楽になったのだ。可哀想な子だ! ママン・パケの女のものとも思えない胸からも、邪悪な仲間たちからも、十分な同情は得られなかったのだ。話が終わっても私達は口がきけなかった。ただ、鳥達の嬉しそうな歌声や、花から花へと気まぐれに渡り歩く蜂達のブンブンいう羽音が開いた窓から聞こえてくるだけだった――夏の間じゅう消えることのない音だ。ああ! なんという不思議で、しかも悲しいコントラストだろう――自然が産み落としたこれらの魂のない子供たちがみせる永遠の、有り余る程の喜ばしさと――世界に満ち溢れる避け難い人生の悲惨さと!

その時、隣の病棟を受け持っているreligieuse修道女が静かにドアを開けてウジェーヌを呼んだ。

「先生、ちょっと七号室に来てもらえませんか? 傷からまたひどく出血しています。」

彼は目を上げて、頷くと、席を立った。

「もう行かなきゃならない、ジャーヴェイス、」彼は言った「我らが可憐な友人とここに留まるなら、腕を動かさないように気を付けてくれ。肋骨は完治したが、上腕骨は治癒に時間がかかる。Au revoirでは、また!」

しかし、ノエミは興奮しすぎて疲れてしまいこれ以上話をするのは無理だと見たので、バンバンをできる限り大事に扱い、また、すぐに見舞いに来るからと言って立ち去り、ウジェーヌのいる隣の病棟に向かった。

私がこの二つの約束をきっちり遵守したのは言うまでもない。

ノエミは七月から八月いっぱい患者として病院に残り、九月の最初の二週間が経って折れた腕が固まるまで、退院の指示が出なかった。退院の前々日、もう習慣になっていた見舞いの最終回をしに行った。彼女は開いた窓の脇に座り、忙しそうにレースを編んでいた。その下には新しい編み物枕があって、子供っぽい笑顔でそれを見せてくれた。

「ほら、先生、とっても素敵なプレゼントでしょう!」こう叫ぶと、私が矯めつ眇めつできるように編み物枕を持上げた。「手放しちゃった前のよりずっといいんですよ。ボビンが可愛く塗ってあるでしょう、それだけでも見てください!」

これまで編み物枕を見たことがなかった私が好奇心丸出しだったので、ノエミはとても嬉しそうだった。

「これをくれた優しい慈善家は誰?」枕を膝に戻しながらこう聞いた。

「知らないんですか?」驚いた彼女は、目を大きく開けて逆に聞いてきた。「あの方は先生にも話しただろうと思っていましたが。あのぉ、グレロワ先生ですよ、良い方です、本当に! 妹さんにお金を渡して買ってくるよう頼んだんですよ。」

親切な奴だ! ウジェーヌは自分が食うや食わずなのに、この可愛らしい受け持ち患者に贈り物をするとは、随分切り詰めたに違いない。だが、私は彼の寛大さを嫉妬することがなかった。というのも、この数日間ノエミの将来のことで頭が一杯で、ある秘密の計画を用意するのに奔走し、いまやそれを公表するだけになっていたからだ。

「それで、」私は椅子を引き寄せて言った。「貴女はまた編み物で生活費を稼ぐつもりですか?」

「やってみます。」答えに悲哀が籠っていた。

「ところで、編み物はあまりお金にならないでしょう?」

「ええ、そうなんです、先生! 私は手が早くなくて、わかりますよね――一日で編めるのはこんな小物ばかりで、一所懸命にしてるんですど――それに、今は機械編みのレースが沢山でてきて!」

「でも、生活費はそんなにかからないのでは、ノエミ?」

「飲食費はそうですね、先生。問題は家賃なんです。安宿はどこも酷く不潔だし! 本当に最低です。我慢できないんです、自分の回りに醜悪な物とか、忌まわしい顔とかがあるのは――ママン・パケみたいな!」

詩人の才能があるのだ、この可憐なアルザスの田舎娘には。多くの場合、こんな境遇に陥った少女は、食い扶持さえ満足にあれば周辺が醜くてもほとんど気にしないものである。

「ところが、貴女専用のいい感じの個室があって、清潔で快適で、ここにあるような鉄のベッド枠があって、椅子があってテーブルがあって、二つの窓の外にはリュクサンブール公園が見えて――しかも一銭も払わなくていい、としたらどうです?」

「ああ、先生!」

彼女は編み物枕を取り落とし、茶色の目をまん丸にして真剣に私の顔を見た。

「絶対に駄目だ、」私は続けた。彼女に見つめられて顔が赤くなった。「ママン・パケが住むあんな恐ろしい界隈に戻るなんて。あれは若い娘がいるべき場所じゃない。あそこの住民のような品性下劣な人物に成り下がってしまう――そうでなければ生きていられない――とすれば、貴女は死ぬ方を選ぶだろう、ノエミ。」

「でも私は無一文なんですよ、先生。」

「お金がなくても友人達がいるじゃないか。その一人は貴女に編み物枕を贈った、ね。そして別の一人が住む部屋を贈ってくれるんじゃないかな。」

彼女は目を伏せ、顔色が赤くなったり白くなったりところころ変わり、ベストの下で心臓が激しく鼓動しているのが判った。隠しきれない動揺が否が応でも伝わってきて、私は椅子から立ち上がり、窓枠に背を凭れた。彼女の目と私の目が同じ高さにならないように。

「そういうことなんですね、先生!」彼女は叫んで、いきなり泣き出した。

「そうなんだよ、ノエミ。」私は言った「判ってくれたんだね。さっき言った通りの部屋があるんだ。二日後に退院しても、家がちゃんとある。一緒に住む女性は親切で良い人だし、君とバンバンのことを全部知っていて、大事にすると約束してくれている。家具もあるし、部屋代も払ってある――君はそこに行って住むだけでいいんだ。君とバンバンがそこで幸せに暮らしてくれたら嬉しい。」

彼女は何も言わず、編み物枕の上に屈んで私の手をとり、おずおずとキスした。

ノエミが新居に住んで私達のうち誰が一番幸せだったのかはなんとも言い難い――私達というのは、ノエミ、私、バンバンのことだ。最も大げさに喜んでいたのがバンバンだった。嬉しそうにウーウー唸って部屋を何度も回り、しばらくすると疲れてハァハァいいながら綺麗な女主人様の元に戻って、お互いに抱き合うのだ。私はといえば、それを見るとどうも除け者にされたようでバンバンへの妬みを覚えたのである。この四本足の友人のことでは若干後悔していた。ノエミが病院に留まっていた間じゅう良い仲間だったのであり、自分の部屋からバンバンがいなくなって初めて、自分が寂しがっていることに気づいたのだ。新居のドアで別れた時、美しい飼い主は、いつでも私達のところに会いに来てくださいと言ってくれたのだが、私にはそれが間違いなく我慢できないような誘惑になることがわかっていた。だから思い切って彼女に、私とはなるたけ会わない方がいい、せいぜい一度か二度かそのくらいにするべきだと告げたのだ。ただし、宿の女将には私の名前と住所を知らせてあるから、便りを沢山くれてもいいよ、と。

彼女の子供っぽい性質と天分がこの時以上に発揮されたことはない。

「私、何かまずいことをしたんですか、先生?」戸惑った表情でこう聞いてきたのだ。嘆願するように茶色の目で見上げて、口をヘの字にして。「私達に会いに来るのが好きなんですよね。バンバンも先生が大好きです――来てくださらないならとても残念です。」

私は、二人が共に依って立つ場所と、二人の間の友情を材料に口さがない世人がどれ程おぞましい話をでっち上げるはずかをできるだけ懇切丁寧に解いて聞かせた。しかしノエミは困った顔で首を振って溜息をつくだけだった。

「判りません。」彼女は言った「でも、もちろん先生はよくお判りなのでしょう。他の女の子のことで、似たような話をママン・パケの所でよく聞きましたけど、私には皆目判りませんでした。私のことで腹を立てていないとだけおっしゃって。そしてできるだけ沢山手紙をくれたら。」

私は微笑んで約束した。別れた時、ノエミは開いた戸口に立ってバンバンを腕の下に押し込んだまま、綺麗な金色の頭で頷き返しつつ、下の街路を歩く私を見送っていた。

幾日もが過ぎ去った。私は意識を書物に集中させ、全ての時間と思考能力を投入して学位を得るための最後の二つの試験に備えた。一方ノエミの方は、二、三度、女将に下宿人をちゃんと見てくれているか問い合わせ、彼女も犬も元気に幸福にしていると確認するだけで我慢したのだ。

ところが、九月も終わりのある夕べ、座って勉強に没頭していた私の耳に、部屋に通じる階段を上ってくる女の子っぽい軽い足音が聞こえた。ちょっと躊躇い、ドアを叩いた。次の瞬間他でもないノエミが私の孤独を破った。忠実なバンバンを引き連れて。

「彼を見つけたんです、先生!」息をも継がず叫んだ「すぐ貴方に知らせたくて――きっと喜んでくれるから!」

「何だって――アントワーヌを見つけたのですか?」 本を脇に押しやり、立ち上がりながらこう聞いた。

「はい、アントワーヌを! 街角で。紳士みたいな身なりで。私でなければ彼だとは判らなかったでしょう! 彼、私がパリに来ているとは思ってなくて、私を見つけるとびっくりして真っ青になっていました。彼に、どんなに探したか、どんなに惨めだったか話しました。そして、貴方がたがどんなに良くしてくれたか、今どこに住んでいるかも。そうしたら、今晩訪ねて来てくれるって! 本当に幸せです!」

「君は手紙をくれるべきでしたね、ノエミ。」真面目に言った。「ここに来るべきではありませんでした。何て馬鹿な――」

ノエミは懇願するような身振りで割って入った。

「えぇ、はい、判っています。ごめんなさい! でも、アントワーヌのことを話したいと思ったら頭が真っ白になってしまって、他は全部忘れちゃいました。私のこと、うんざりしないでくださいね!」

ノエミに腹を立てるなんて、誰にできよう? どこまでも無垢であり、無垢なものが常にそうであるように自然だったのだ。

「私はね、お嬢ちゃん、君のことを考えて言っているのですよ。じきにアントワーヌに教えられてもっと賢明になるのでしょう。ここにおいでくださいと彼氏に伝えてください。早速結婚するんでしょう?」

「あぁ、はい、先生、すぐに! アントワーヌになかったのはお金だけで、今では沢山それを持っています。自分で仕事を立ち上げたんです、自分自身のパトロンなんですよ!」

「そうか、ノエミ、嬉しいよ。結婚式には是非呼んでくれなくちゃね。明日そちらに寄るので、そこで式の話を全部聞きましょう。間違いなくアントワーヌも君にすぐ手配して欲しいと思っているでしょうから。それで、今はさっさと帰ること。君自身のためです。お嬢ちゃん。」

「さよなら、先生!」戸口で立ち止まって恥ずかしそうに加えた「ほんとうに明日の朝来てくださるのですね?」

「はい、はい、朝食の前に。じゃ、さようなら、ノエミ。」

III.

翌朝十時頃、ノエミの家におもむくと、女将のジャヌル夫人がいて私が来るのを待っていた。

「貴方がいらっしゃるとノエミから聞いておりました。」と彼女は言った「つかまえてきますね。フィアンセの方が昨夜いらして、あの子ったら貴方のことをたっぷり話していましたよ。」

二分もしないで、彼女は我が可憐なる友人を連れてきた。幸福と新たに手にした希望に、日光のようにキラキラしていた。アントワーヌは私のことをこれまで以上に愛している、と言う。綺麗なプレゼントをくれたんです、銀の十字架です、結婚式のときにそれを着けるんです。先生からいただいたラメのリボンで結んで首から掛けます、本当にぴったりなんですよ、と。日取りは決まったの? と聞くと、いえ、まだ何日というところまでは、という答えだった。アントワーヌはそのことを何も言わないんです。でも、愛してるって沢山言ってくれます。もうすぐ二人で幸せになるんだよ、きっと美しいプレゼントをあげるよって。日取りなんていつでも決められるんですから、考えてもしょうがないんです。そして私に自分で編んだレースをいくたりか手渡して、アントワーヌはこういうのを買ってくれるお金持ちのレディを一人知っているのだと語った――伯爵夫人で、この種のレースを殊の外溺愛していて、一丈(*4)毎にたんまり支払ってくれる。それが彼女の持参金になって、ウェディング・ドレスを買うお金になるだろう。こんな風に開けっぴろげで嬉しそうな調子で、ぺちゃくちゃと彼女は喋り続けた。無邪気な魂を映し出して、瞳の奥には包み隠さぬ率直さが深く透明に煌めいていた。あたかも混じりけのない水が天の光を反映するかのように。

一日一日、一週一週と日が過ぎていき、しかしアントワーヌは私の前に姿を現さなかった。何度かジャヌル夫人の家に足を運んでノエミを呼び出してもらったのだが――今やこの善良な女性は、ノエミが婚約しており結婚する予定であることを知り、私たち二人の間柄についてよく判っていたので、こんな冒険ができたのだ――話はいつも同じだった。アントワーヌへの弁護を、彼がいつまで経っても私の所に来ない件に関する必要以上の言い訳を聞かされた。彼はノエミに、ある時は仕事が酷く溜まっていてうかがう時間がないんだと説明しておけと言い、またある時は、先生はお忙しいのでお邪魔になるといけないからだと説明するように言った。さらにある時は重要な手紙を書き始めたばかりだとか折悪しく顧客が来て引き止められているとか言うのだ。結婚式の日程については、彼はいつもはぐらかしていて、はにかみ屋のノエミは決してせっつかなかった。彼女はとても幸せそうで彼を信じていた。アントワーヌは私を心から愛していて、毎日そう言ってくれる。それ以上彼女が何を欲しがる? 美しい赤と白のバラの花束、ちょっとした装飾品、お菓子、リボンをくれた。実際、手ぶらで来るようなことはなかったらしい。その日の仕事が終わった後、連れ立ってリュクサンブール公園を散歩し、一度か二度はシャンゼリゼまで遠出した。おお、そうだ、アントワーヌはノエミを大変愛していて、ノエミはとても幸せだった。確かにとっくに結婚しているべき二人だったのだ。時はもう十一月で、あたりは日一日と侘しく冷たくなっていった。私は早々とランプをともし、湿った夜風が入らないように窓を閉めなければならなかった。ある午後、日が陰り始めたちょうどその時、ジャネル夫人が会いにきた。ひどく混乱し、心配そうな面持ちで。

「ムシュー、」彼女は言った「おかしな事が出来したので、どうしてもここに来ないではいられませんでした。お聞きいただいて、ご意見とアドヴァイスをいただければと思いまして。アントワーヌがやってきてノエミと散歩に出かけたのが半時間ほど前でした。二人が出てから十分と経たない頃、見たことのない一人のレディーが私のドアまで来て、マドモワゼル・ベルジュロンのお住まいはここかと聞きました。はいそうですが、今出かけておりまして、と答えました。すると見知らぬレディーは凄い目つきで私を睨み、一人で出かけたのか、と聞くのです。そこで、いいえ、フィアンセの方とお二人で、もしなにかご伝言があれば帰り次第直接伝えます、と答えたのです。いきなりレディーが私の腕を押えて、それが酷くきつうございましたから、すんでの所で大声を上げそうになりました。その女の方の顔は真っ青になり、次に真っ赤になって、やっと声が出せるようになると、上の階のノエミの部屋で待っていてもいいかと聞いてきました。私はとりあえず「いいえ」と答えたのですが、女の方はいうことを聞こうとせず、強情に待つと言い張ったのです。今でもそこにいます、私には追い立てることができませんでした。」

ジャネル夫人は私に真向かいになって立っていた。私は目を上げて、夫人の目をじっと見た。夫人が何を考えているか察して、低い声でこう言った――

「私を呼びに来たのは正解でしたね。我々の哀れなお嬢ちゃんは大変な厄介事に巻き込まれたようです。まずいことに、ノエミよりもその女の方が、アントワーヌに対する権利を余計に持っているのかもしれない。」

「間違いありません」ジャネル夫人が答えた「あの女の方の姿を見たら! 神様、私達のノエミに実害が及ばないように対処する時間があって助かりました!」

「あの子の一生は台無しになってしまう、」私は言った「あんなにも邪悪を知らず、あんなにも彼を愛して。」

話しながら私は帽子を取るとジャネル夫人の跡を追って階段を下り街路に出た。家に着いて、夫人を中二階にある本人の居間に残し、私はつらい気持ちで、しかし意を決して足を踏みだし、ノエミの部屋に陣取る異様な女性と対峙しようとした。ああ、そこでは起きうる中で最悪の事態が既に起きてしまっていた。ノエミは女将が居ない間に散歩から帰っていて、ドアを開けると恐ろしい光景が目に入った。我が哀れなお嬢ちゃんは私の前に立ち尽くしていた。真っ白な顔を恐怖を浮かべ、波打つ胸には一房の秋咲きアリウムがピンで留めてあった。アントワーヌからの最後の贈り物。ほっそりした体つき、美しい金色の髪、黄昏の曖昧な光に、幽霊のような青白い顔色。美しくも激しく苦しんで、悩む精霊のように見えた。だがそこ美しい顔には恥や疚しさは一片たりともなかった。入ってくる私を見ると、安堵の声を上げて、庇護を求めるかのように飛びついてきた。

「あの人に言ってください、先生!」いたたまれないような声でこう叫んだ「あの人に言って、一体何を言ってるのかって! あの人は自分がアントワーヌの妻だなんて言っているんです!」

ドアを開けた時背中を見せていた見知らぬ女は、この声に振り向き、私と顔を見合わせた。ブルネットで、鋭く黒い目で、唇を強情に曲げていた。ノエミの横に立つと、太陽の光の脇に湧く黒雲に見えた。

「ええ、その通り!」彼女は叫んだ。怒りと失望に半ば喉を絞められるような声だった。「私があの人の妻です。で、この女は何者だっていうの? ここまであの人の跡をつけてきた。いまじゃ私を避けてばかり。この女のサインがある手紙を見たわよ。なんかあの人を愛してるんだってさ。ほら!」

机の上にくちゃくちゃに丸めた紙片を投げつけ、いきなり顔を両手で覆って号泣し出した。ノエミは黙ったままその姿を見、恐れ、迷っていた。私は静かにドアを閉め、不幸な女性に近寄って肩に手を乗せた。

「非難されるべきは、貴女のご主人ただ一人です。」私は囁いた。「この純情な娘を罵らないで。貴女と同じくらい悩んでいるのです――もしかするとそれ以上に。何年も前から言い交わしてた仲なのですよ。」

ノエミを哀れに思う気持ちと、アントワーヌを恨む気持ちのせいで、私は口を滑らせてしまった。これでは不公平の誹りを免れない。しかし、それほどまでに憤慨していたのだ。

「貴方はこの娘の肩を持つのね!」私の無分別な言葉に反発して彼女は叫んだ。「純情――この女が純情だって? けっ、相手が既婚者だって知ってたに決まってるでしょ。男が結婚しようとしない理由が他にある? 私がそんなおとぎ話に騙されるような馬鹿なネンネだと思ってるわけ?」

「いいえ、」私は険しい声で答えた。視線を彼女からノエミに移して。「マダム、貴女は子供ではありません、ですが、この子は違うんです! この子が貴女ご自身のような大人の女性なら、ご主人は決してこの子を騙すようなことをしなかったでしょう。この子はすっかり彼を信頼しきっていたのです。」

横柄に、ほとんど獰猛と言ってもいい身振りで、アントワーヌの妻はノエミに背を向けドアに向かった。「本当にありがたいことですわ。」すすり泣きを抑えながら暗い顔つきを私に向けて、「この娘みたいに初心だったことがなくて! 私は、ムシュー、貴方のお人形ではございませんの。貴方のことは良く存じ上げておりますわ。それだから貴方にはこの娘を守る権利がおありなのね。近所の人はこの娘の身の上を知ってますのよ。貴方のことも嗅ぎ付けて言い広めてくれますわ。この部屋は貴方の持ち物で、ムシュー、中身も全て貴方のお財布から出たもの。貴方の『純情娘』もその御足の一部に決まっている。その娘を自分用にとっときなさいな。二度とアントワーヌの足を踏み入れさせませんからね、こんな汚れた家に!」

言い終わるが早いかドアを開け、それ以上何も言わずに外の闇に消えて行った。

暫くの間、深い沈黙が支配した。彼女の最後の言葉が、暗く静かな部屋をぐるぐると回り谺を返しているようだった。私は自らひどく恥じ、とても目を上げてノエミの顔を見ることができなかった。

突然、微かな泣声が聞こえ、私は驚いた。ノエミは両腕を私の方に伸ばして、足元に頽れ跪いた。

「ああ、先生! アントワーヌはもういない! 私の心は死にました!」そして拳で自分の胸を乱暴に叩き、床の上で気を失った。

この恐ろしい夕べ以来、私達は一度もアントワーヌを見かけなかった。この上なく心弱かったのか、最低の卑劣漢だったのかは判らなかったが、しかし、私自身としては常に、彼は本当にノエミを愛していたのだと信じていたし、彼が結婚したのは俗っぽい金銭欲のためで、まさに魔が差したのだろうと考えている。彼の妻は金持ちで、ノエミは乞食だった。可哀想なこのお嬢ちゃんは、一言も彼を非難せず、焦るような様子もなく、つらい気持ちを漏らすこともなかった。娘の無垢なる人生は全て愛のためにあり、愛が失われた時、人生もまた娘を去ったのだ。来る日も来る日もベッドに横たわり、押しつぶされ、次第に萎んでいく花さながらだった。器質的疾患の徴候はなく、はっきりと判るような慢性疾患に罹患してもいなかった。ジャネル夫人は、この子は心が破れてしまったのですね、と言ったが、それ以上にうまい表現はなかった。バンバンは愛しい女主人に何か大きな悲しみが降り掛かったことを何となく理解しているようで、いつも足元で横になると、思いのこもった優しく切ない目でノエミを見つめ、夜も昼も側から離れようとしなかった。ノエミは愛犬の中に見いだせる何かに多少は慰められたに違いない。それは少なくとも一つの揺るぎない真実の愛の証であったのだから。

横たわるノエミの姿は日ごとに白く優美になり、繊細な美しさを増し、深く濡れた目は何か内奥の光を放つかのように輝いていった。聖人の絵にある後光のように金髪が頭の周りに垂れ、時折私は、ノエミが我々の眼前で非物質化していくような気さえした。ノエミの心霊が我々の目に見えてくるようだった。あたかも、心霊が純粋な炎となってますます燃え上がる代わりに、それを収める地上の肉体は再吸収され消費されていくかのように。時折夕方になると、ノエミの脈拍が上がり、頬に消耗性の熱病を思わせる紅潮が走ったが、私に見て取れる異常な身体所見は――極めて軽微なものだ――これだけで、体温には殆ど変化がなかった。

こうして娘は横たわり、身体は衰弱していった。毎日毎日、毎時毎時。

ジャネル夫人は深く気遣っていた。善良な婦人であり、他人が悲しむのを気の毒に思うことができたからだ。だが、夫人の言葉も行動もノエミの気持ちには届かなかった。確かに、折りに触れて、この哀れなお嬢ちゃんは、かくも不可思議に通り過ぎようとしている世界に対し、もう目も耳も向けていないのではないかという気がしたのだ。ノエミは既に何処か他の世界、我々のものではない他の地平の上に移住し、我々の物質世界からは認識できない光景や音だけを受け入れ始めているかのようだった。

C'est le chagrinこれが悲しみなのです、ムシュー、」ジャネル夫人が言った「c'est comme ca que le chagrin tue悲しみはこうして人を殺めるのです――toujoursいつでも。」

十二月の第三週はじめ、私は学位を取得するための最終試験に召喚された。酷く寒い日で、人気のない街路を冷たい風が通り過ぎ、あちこちの角に新雪の吹きだまりを作っていった。大通りに沿って早くも新年の贈り物を売る屋台が立ち並びはじめ、店先には明るい色のbonbonnieres砂糖菓子が愉快に飾られていた。子供達は楽しいことへの期待感にわくわくし、そこここの魅力的なショーケースに張り付いては、あっちの方がいいこっちの方がいいと大騒ぎだった。町中がお祭りを迎える気分で、浮かれた笑い声に満ち満ちていた。そのすぐそばにある、ひとりぼっちの小さな部屋では、心を破ったノエミが死にかけているのだ!

厳しい試練を成功裡にくぐり抜けた私は試験室を辞し、医学校の中庭に下りた。そこはぺちゃくちゃ喋りながら歩き回る学生達で混雑していたが、私の心は重く、面持ちは、学術的年季奉公のルビコン河を恙無く渡り、世の中の桂冠と栄誉に手が届くようになった若者のそれではなかったのだ。世の中だって? そこで一番大きな喝采を浴びるのは、鋼鉄製の心臓を持ち、汚濁に塗れて生きている輩じゃないか、そんなのはとてもじゃないが願い下げだ。私は知っていた。昔と同様に今でもそれは、無垢で誠実なる者を殺し、純粋なる精神に礫を投げつけるのだと。

ちょっと苛立たしく、中庭で偶々出会う学友たちのお祝いの声から逃げ出し、鬱々として家路を辿った私は、テーブルの上に寄り合わせたメモ用紙があるのに気づいた。そこにはこんな短い伝言があった――

「お願いです、今すぐ来て、ムシュー、この子はもう長くない。私はこの子の側を離れられません。貴方に一目でも会いたいと懇願しています――マリー・ジャネル。」

震える手でメモ用紙をベストに突っ込み、呼出しに応じようと急いだ。我が家とノエミの家までがこんなに遠く感じたことはなかった。ノエミの部屋に登る階段がこんなにきついと思ったこともなかった。ようやく、半開きになっているドアに辿り着き、それを開けて中に入った。ジャネル夫人は白布で覆われた小さなベッドの足側に座り、バンバンは女主人の脇に横たわっていた。聞こえるのは、暖炉で薪が爆ぜる音だけだった。私が部屋に入ると、ジャネル夫人は首を回して私を見た。目が涙でいっぱいだった。話す声は嗄れ震え、畏怖すべき死の臨席を示していた。

「ムシュー、手遅れです。亡くなりました。」

私は恐怖の叫びを上げて飛び出した。

「死んだ? ノエミが死んだ?」

白く穏やかにノエミは身体を横たえ――折られた百合のように――死してなお美しく甘美だった。目を軽く閉じ、形の良い唇には微笑が浮かんでいるようだった。ノエミの純真な人生が塵芥と化したあの日以来みることがなかった微笑みが。右手をバンバンの頭に乗せ、左手には私が贈った銀のリボンがあった――結婚式に着けたがっていたあのリボン。

「この二つは貴方宛です。」ジャネル夫人が静かに言った「あの子は、貴方がバンバンを好きで、バンバンも貴方が好きだと言っていました。一生大事にしてかわいがってくださいね、と。リボンは――私自身のために取っておいて欲しい、と。これから先、あの子のことを思い出す形見となるように。」

ベッドの脇に跪いた私は大声で泣いた。

「まあ、まあ、泣かないで!」ジャネル夫人がかがみ込んで囁いた「これが一番だったのです。この子は神の御使の許に召されたのですから。」

科学は天使の存在を信じることを止めたが、良き婦人の信仰のうちに、今もなお彼らは生き続けている。

私達の「賢さ」の主な働きとは、美しい希望と愛と信仰とをこの地上から根こそぎにすることではないかと、私は思う。時の始まりからこれまでずっと、人の心を励まし、純化させ、安らげてきた希望や愛や信仰を。いつか、おそらく遠い未来に、私達は、より高貴で純粋な未知の科学体系の唇から、よりはっきりと大自然の声を聞く日が来るのかもしれない。その日私達は決して物質が全てではないこと、人の愛や願いは無駄ではないことを学ぶのだろう。そしてより高き霊的存在の裡に、打ち砕かれた心は癒され、滅んだ命は生命を全うするのだ。「かかる声々を越えし所に平安あり」(*5)そんな地において。

さて、ノエミの亡骸は静穏なる佳城に憩い、信じることの篤かったその胸の上には恋人から贈られた銀の十字架がある。 愛のためなら全てを耐え忍ぶことができた娘、だが恥辱と虚言が揺るがぬその心を砕いてしまった。その死の一撃を加えたのは誰あろう最愛の恋人だったのだ!


翻訳について

底本は Project Gutenberg の Dreams and Dream Stories By Anna Kingsford の第二部 Dream Stories の第五話 Noémi; or, the Silver Ribbon です。この翻訳は独自に行ったもので、先行する訳と類似する部分があっても偶然によるものです。

医者の卵たる者、若くて美人だからといって(←そもそもこういう発想自体が良くない)患者にサービスしすぎるのはどうかと思いますが、キングスフォード自身のパリ生活が反映されているのかもしれません(さぞモテたでしょうねえ)。担当医が患者の年齢を把握していないくらい劣悪な環境だったのですから、まあ見捨てておけなかったのも仕方がないのかも。当時のフランスでの医育制度を知らないので、そちら方面は雑に訳してあります。パリの雰囲気を出したいからか、生のフランス語が所々出てきます。「私」の名は Gervais、フランスなら「ジェルヴェ」ですが、ここではイギリス人として訳しておきます。

この訳文は他の拙訳同様 Creative Commons CC-BY 3.0 の下で公開します。TPPに伴う著作権保護期間の延長が事実上決定した現状で、ほとんど自由に使える訳文を投げることには多少の意味があるでしょう。

固有名詞:the École de Médicine of Paris、AEsculapius、Amélie、Léontine、Paul Bouchard、Pépin、Noemi Bergeron、Maman Paquet、Eugène Grellois、Auguste Villemin、Antoine、Jules Leuret、Bambin、Marie Jeannel

「夢の物語」には、以下の八編が収められています。いくつか邦訳を試みておりますので。興味をおもちでしたらどうぞ。キングスフォードは犬が好きだったのか、第一話 A Village of Seers でも犬が大活躍します。また、第一部 Dreams の中から、短い詩集 Dream Verses を除いた部分を「夢日記」として訳出してあります(誰か Dream Verses を訳してくれませんか……)。

  1. A Village of Seers:「千里眼の村」
  2. Steepside; A Ghost Story:「崖端館」
  3. Beyond the Sunset:「夕映えのむこうの国」
  4. A Turn of Luck : 「幸運のターン」
  5. Noémi:「ノエミ」(本作)
  6. The Little Old Man's Story:「小さな老人の話」
  7. The Nightshade:「犬酸漿」
  8. St. George the Chevalier:「騎士・聖ジョージ」

2, Jun., 2016 : とりあえずあげます
6, Jun., 2016 : ちょっとだけ手入れ
19, Jun., 2016 : もうちょっとだけ手入れ
3, Jul., 2016 : 第七話へのリンク
6, Sep., 2016 : 第一話へのリンク
14, Feb., 2017 : 第一部へのリンク、アクサン追加
4, Mar., 2017 : 第六話へのリンク
18, Apr., 2020 : 第八話へのリンク
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