☆桃兎の小説コーナー☆
(08.09.25更新)

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 ドラゴンマウンテン 第二部

  第一話  竜の提案    

 
   3 上位の洗礼

     7

 ヒュン、と刃が空気を裂き音を立てる。
「う〜ん、やっぱりうまくいかないなぁ、……ふんっ」
 少女は下に落ちたナイフを拾い上げると、再び構え、腕を振り下ろした。

 時刻は夜の十二時を回っていた。
 日付が変わり、カヒュラの提示した期限までの残り日数はあと二日だ。
 無数の星で眩しいはずの夜空は所々が雲に覆われ、月明かりも無く辺りはうす暗い。僅
かに山小屋から漏れる明かりが、うっすらと少女を照らしていた。
 そんな冷たい風の吹く山小屋の裏手で、少女は何かを振り切るようにナイフを投げてい
た。

「……っ! あぁ、また駄目かぁ」
 何度投げても上手くいかず、少女はむぅと口を尖らせる。
 昼間の登山の影響で少女の体はぎりぎりと軋んでいたが、それでも諦めずに岩場に落ち
たナイフを拾い上げた。
「もう一回っ!」
 今度こそ、と腕を回す。だが少女の投げたナイフは途中で勢いを失い、目標である五メ
ートル程先にある細く伸びた枯れ木を前にぽとりと落ちてしまった。
「ん〜、もう少しっぽいんだけどな」
 とぼとぼと歩き、少女はナイフを拾い上げる。
 もう三十分はこうしてナイフを投げ続けている。だが、一向に成功する気配がない。
 そして、眠れそうにもなかった。

 ふと雲が風に流され、やわらかい光が岩場を映し出す。<闇>の魔力を放つ夜の支配者
が顔を出したのだ。同時にごうと冷たい風が山上から降りてきて、少女の一つに纏められ
た黒い髪を一気に舞い上げた。
「……、もう直ぐ、満月なんだ」
 頭上には、真円に近づく白く輝く月。
 ふと上を見上げ、少女は眉を寄せた。

 満ちていく月を見て思い出すのは、あの夜の戦い。
 そして愛する男のことだった。

 あの戦いから丁度一ヶ月。
 だが、あの夜の戦いは昨日の事の様に思い出す事が出来た。

『何をしてるんだ? こんな夜遅くに』

 後ろから聞こえてきた低い声に、少女は勢い良く振り返る。
 背後の岩場に居たのは、夜光を受け圧倒的な存在感で佇む銀色の狼だった。
 月明かりをそのまま集めたような銀色の毛並みを持つ、大きな狼。
 だがその毛並みの所々から赤いものが滲んでいるのを見つけ、マリンは思わず声を上げ
た。
「ガント……! 血、怪我してるの!?」
『なんでもない。少し動いてきただけだ』
 狼は、少女から目を逸らしてガウ、と小さく唸っただけだった。
 カタカタと小さく音を立てる深紅の義手で岩場を踏みしめながら、ガントは山小屋に近
づきふるふると体を揺すった。
「少し、って……」
 ガントが山小屋を出てからもう何時間もたっている。どう見ても『少し動いてきた』様
には見えないのだが、何事もなかった様にその場に伏せるガントを見てマリンはその先の
言葉を飲み込んだ。

 ごうと、再び冷たい風が二人の間を駆け抜ける。
 春になったとはいえ、未だ山を駆け下りる夜風は雪の冷たさをはらんだままだ。

 マリンは山上を見つめたまま伏せるガントの隣に腰掛けると、少し時間を置いてから口
を開いた。
「あれからずっと帰ってこないから……、ご飯だってまだでしょ? 心配したんだよ?」
 狼の紺色の瞳を見つめながら、マリンはその顔を覗き込んだ。
 愛する男はその問いに答える事無く、山の上を見つめたままだった。月明かりに浮かぶ
山裾を紺色の瞳に写し、唯黙していた。だがその瞳には強い光が宿っていた。
 決して揺らぐ事の無い、強い意思。
 そのぶれる事のない意思の強さを、少女は良く知っていた。
 だがそれ故に、少し心配にもなっていた。
 少女が不安げな表情に変わったことに気づき、狼はすっと少女に顔を向けた。
『……お前に心配されるほど弱くは無いさ。それより、何故こんな夜中に外にいるんだ。
いくら結界のはってある圏内とはいえ、突然魔物が来たらどうするんだ。それに疲れてい
る筈だろうが』
「うん、疲れてる筈なんだけどね。ちょっと眠れなくて……、体を動かしたら寝れるかな
って思ってナイフの練習してたんだ」
『……眠れない?』
 狼は手先にナイフを持つ少女の言葉に首を傾げた。 
 どちらかと言うとマリンは寝つきがいい方だ。ましてや昼間の疲れも考慮すれば、今頃
はとっくに夢の中でもおかしくは無い。
 見ればマリンの表情は決して明るいものではない。それが気になり、狼は僅かに眉を寄
せた。
『……どうした、言ってみろ』
 頭に直接響く、低く優しい声。
 その声に、マリンの心臓がとくんと反応する。
 ガントがガントである唯一の証拠とも言うべきその声は、優しく聞こえれば聞こえる程、
マリンの心を甘く揺らす。
 甘えてはいけない、昼間の事を考えそう思いながらも、マリンは自分の気持ちをぽろぽ
ろと話し始めた。
「うん……。きっと……、ちょっと不安なんだと思う。さっきクロフォードに指導しても
らってたんだけどね。やっぱりこっから先は今までと違うんだなって、そう思って。上は
極端に植物が減るから、魔物も一度見つけた餌は何処までも追いかけてくるって。下みた
いに回避する事は難しい。戦わなきゃいけない」
 月明かりに浮かぶナイフを見つめながら、マリンは言葉を続けた。
「上に行くの、初めてだから。魔法は使えないし使いたくない。自分が……カヒュラの元
まで……その力が通用するのか、とか……」
 そう言って目を伏せるマリンを見て、狼はかふっと息を吐いた。
『俺はお前の実力を良く知っているつもりだ。……俺が鍛えた拳は上の魔物にも通用する
筈だ。自信を持て。迷いは力を奪う。何より……』
「何より……?」

『少しでも無理だと感じたなら、俺は何があったとしてもお前をこんな場所に連れて来た
りなどしない』

 目の前の男の発した言葉に迷いはなかった。
 その強い言葉が、揺れ動くマリンの心をがっちりと掴む。
「……ガント」
 マリンはぐっと拳を握り締めた。
 ガントが二年かけて『山で通用する武器』に仕上げてくれた拳は、女性の手にしては少
々傷の多い手だった。だが、マリンはこの手が嫌いではなかった。唯の力が強いだけだっ
た魔法使いの手、だが今はそこいらの戦士と同等、もしくはそれ以上の力があるのだ。
(大丈夫、カヒュラの元へ……必ず行くんだ)

 ガントが『通用する』と言ってくれた。
 『無理だと感じたらこんな場所に連れては来ない』という事は、無理ではないという事
だ。

 ガントのその言葉は、揺らいでいたマリンの自信を取り戻すには十分なものだった。
「……はい!」
 マリンの瞳に輝きが戻る。
 それをみて狼はすっと目を細めた。
『解ったなら早く寝ろ。明日も早いんだ』
「うん。……ありがと、ガント。あふ……あれ、急に眠たくなってきちゃった」
 安心からか、急に視界に靄がかかりマリンはごしごしと目をこする。
『行け。早く』
 僅かに語気を強めるガントに、マリンはびくっとなり立ち上がった。
「は、はい、お休みなさい! ……ガントもちゃんと休んでね?」
 所々に赤い物を滲ませた狼にマリンは心配そうに眉を寄せた。だが、狼が『解った』と
首を振ったのを確認すると、マリンはふらりと山小屋に入っていった。

 瞬間、ガラン、と深紅の手甲が地面に転がり落ちる。

『……っは』
 緊張の糸が切れたように目が虚ろになり、狼はその場に崩れる様に伏せた。
『……、あぶねぇ。全く』
 僅かに呼吸を荒げる狼は、そのままがくりと目を伏せる。
 ついさっきまで延々雪狼と組み合っていたのだ。慣れない体で山を駆け上がり、休む事
無く戦いに向かった。狼の体はマリン以上に疲弊している状態だった。
『こんなにだるいのは……戦場以来か』
 がふっと息を吐き、落ちそうになる意識を必死で持ち上げる。そして、マリンが居なく
なるまでもった事にほっとする。
 弱い姿など見せたくない。
 それは男の意地だった。
 狼の目の前に転がる紅い手甲は、月明かりを反射して鈍く光っていた。深紅のガントレ
ットを獣の手で引き寄せ、それを咥えゆらりと立ち上がる。
『絶対に、俺はマリンを守り抜く。体も取り戻す』
 再び狼の瞳に強い光が宿る。
 
『俺は……、人間だ』

 低く唸る様に、ガントは呟いた。

 それは心の底から滲み出る様な、そんな言葉だった。


     8

 Tシャツとスパッツ。それがマリンの基本のスタイルだ。
 その姿の上から、短い革製の巻きスカートを身につけ、薄い布ベルトで固定する。
 本来なら、ここで短いベストを羽織る筈だったが、少女は着慣れたその服を畳むと、リ
ュックの底にしまい込んだ。代わりに白い包みに入った物を取り出すと、包みを破り、そ
の中身をパンと広げる。
 それは、腰まで覆う長さのベストだった。
 しまい込んだベストと同じ材質の革で作られた桃色のそれは、新品のレンジャー服だっ
た。いつか上位レンジャーとなって上で仕事をする時用に、と用意しておいた物だった。
(ちょっと予定より早いけど……着る事になっちゃった)
 少女は真新しいベストに腕を通すと、ボタンを留めてふぅと息を吐いた。

 ここから上は今まで以上に死が近い世界だ。
 流石にいつものへそ出しスタイルで挑む訳にはいかないと、マリンは覚悟を決める。
 ベストの上にいつもの革ベルトを巻きつかせ、きつく無い程度にぐっと締め上げると、
それに付けられている二つのポーチ確認し、マリンは小さく頷いた。
 茶色の革のポーチには数個の上質の魔石に、幾つかの小さな魔法道具。
 その奥にある白いポーチには、真新しいナイフが十本揃っている。
 二つのポーチをそっと撫で、マリンは窓際に移動した。
 窓の取っ手に引っ掛けておいたのは、深い紫の竜の爪の首飾りだった。
 魔力の無いマリンの代わりとなるそれは、月の光を浴びて魔力が十分に溜まった状態に
なっていた。首飾りを手に取り首にかけると、その瞬間、不意にマリンの周囲で何かがざ
わめく。
 それはマリンの連れている三匹の精霊達の気配だった。
 活発に動き回る気配を感じたマリンは、ふるふると首を振り、小さく呟く。
「だめ。まだ休んでいて。あんな事して、無事なはずが無いでしょ?」
 マリンは悪魔との戦いで使った無茶な魔法を思い出し、精霊達に語りかけた。
 だが、精霊達はそれを否定するように更に動き回る。
 魔力の無いマリンには、彼らの姿は見えない。声も聞こえない。
 だが、気配は解る。付き合いが長いせいで彼らが何を言いたいかもなんとなく解る。
「……私、ちょっと自分が許せないんだよ。どうなるかなんて解らない、不確定な呪文を
使った自分の事が。だから、次に本当に貴方達の力が必要になるまで、休んでいて欲しい
の」
 マリンの言葉を聴いて、精霊はしぶしぶとその動きを止めた。
「こんな無茶な使い手についてきてくれて……、ありがとうね」
 宙に差し出した手に、熱い感覚が伝わる。
 おそらく手の上には<火>の精霊、エレイドが居るのだろう。
 熱い感覚は手を焦がしそうな程に強いものだ。つまり、エレイドが何か強い感情を抱い
ているのだろう。きっと何か叫んでいるに違いない。
「それに、しばらくは使いたくても使えなさそうだしね」
 マリンがあははと笑うと、足元に触れる精霊がゆさゆさと揺れた。<土>の精霊、タキ
オンが揺れているのだ。彼は心配性な精霊だ。象の形をした彼の長い鼻が足に絡まるのを
感じて、マリンは苦笑する。
「大丈夫。私はこれでもレンジャーなんだよ。それ以上に、あのガントの弟子だよ? レ
ンジャーになって丸二年。あの容赦ない師匠に鍛えられたこの体、いつも見てるでしょ?」
 年頃の女の子の体とは少し違う、筋肉の隠された体。
 腕は細く見えるが、猪を転がすだけの力がある。足は細くはなく、どちらかというとし
っかりした太さのある足だし、お腹を良く見れば腹筋の形が見える程だ。それを覆い隠し
ているのは程よい厚みの脂肪だ。
「ふふ、『女の子らしい』とは程遠い体だけどね!」
 相変わらずあまり発育してくれない胸をぽんと叩いて、マリンは明るく笑う。
「メディは胸がおっきくなったじゃないって言ってたけど、あの胸を前にそんな事言われ
ても、説得力ないよね。全く。確かに少しだけサイズアップしたけどさ」
 ふんと胸を張ってみるが、やはり少しむなしい。
 革の服の上からじゃ、見た目はぺたんこに等しいのだ。
 メディ曰く、「最近体つきが女らしくなってきている」らしいが、自分ではどのへんが
どう変わったのかさっぱり解らない。
「さ、冗談はこのくらいにして」
 マリンは枕元においてある革のリボンを手に取ると、それを手早くポニーテールに括り
つけた。ぎゅっと結ばれたリボンの傾きを鏡で確認していると、肩の辺りに座っていた精
霊がマリンの頬に触れた。ふわりと優しい暖かい感触。それは一番長い付き合いの<聖>
の属性の光の精霊の感触だった。
「大丈夫。フォロイ。私、頑張るよ。あんな姿になっちゃったガントだって、必死で頑張
ってるんだし、クロフォードは依頼でも無いのにこんな所まで来てくれたんだ」
 リュックを背負うと、マリンは手袋を手に取り、手に嵌めようとしてピクリと止まる。
 左手首に刻まれたアニマルバングルの文様と、その手の甲にあるカヒュラの紋章。
「そういえば、ここ二週間程研究所に行って無いなぁ。座標設定が裏庭と研究所だから、
今行きたくても行けないしなぁ」
 カヒュラが授けた空間移動の魔法は特殊な術式で組まれており、魔法の知識の多いマリ
ンでも解明出来ないものだった。最初にこの魔法を発動させた裏庭からでないと移動が出
来ないと解ったのは、何度か行き来した後の事だった。便利な魔法や強力な魔法ほど、制
約が多いのはお約束だ。だが、研究所で留守番している元気な竜を思い出すと、マリンは
苦笑いの表情になってしまった。
「きっとナイト怒ってるよね。『なんで一言言ってくれないんだー!』って。これじゃ研
究所の主として失格だね」
 実際、出発が急だったせいでナイトには一言も言っておらず、ちょっとした放置プレイ
状態だ。
「怒って出て行っちゃうかなぁ。次に会ったら、極上の蜂蜜を持っていってちゃんと謝ん
ないとね」
 手袋をぎゅっと嵌めて、マリンは拳を握り締める。
 最後に金色の竜をかたどったバッジを襟に着け、きゅっと唇を引き結んだ。

「さ、行こう。きっと……みんな待ってる」
 
 マリンはドアノブを開けて部屋を出ると、その一歩を踏み出した。
「お、新しいレンジャー服か。似合っているじゃないか」
 目線の先には準備の整った二人のレンジャーがマリンを待っていた。
「上位の領域に行くんだもの。装備だって、それにあわせなきゃ、ね」
「気合十分だな。よし、出るぞ」

 クロフォードが扉をあけると、登ったばかりのまばゆい朝日がさぁっと差し込んだ。
 鮮烈な朝日に照らされ、前を行く銀狼が眩しく輝く。
「ガント」
『何だ?』
 マリンに呼びかけられ、ガントは足を止める。
「私、強くなるよ。ガントの事……何よりも好きだから」
『馬鹿者。そんな甘い事言ってるんじゃない。これから何処に行くと思ってるんだ。……
わざわざ言わなくても俺だって同じ気持ちだ。不安になることなど何も無い』
 確かめるように言ったマリンの言葉に、ガントは小さく答えた。
「うん」
 少し頬を染め、マリンは小さく頷く。

 ガントはそんなマリンを見て、一層鋭い視線になる。
 ここが山であるが故に、いやそれ以上に山の上部を行くというその事が、ガントの緊張
感を引き上げていた。意識せずとも、自然と厳しくなってしまう。コレより上は、ガント
でも気を引き締めて行かねば命を落しかねない危険な場所なのだ。人の姿なら兎も角、今
は狼そのものだという事実が、無意識のうちに男を焦らせる。

 ガントは、一度深く深呼吸をした。
 高ぶる心を鎮め、冷静さを取り戻そうと目を閉じる。
(俺は戦える。何があっても、マリンを……守る)
 ガントの心の深い場所に刻まれた、決して揺るぐことの無い誓い。
 人の姿を取り戻す旅ではあったが、その事以上にこの誓いは男にとって重要な事となっ
ていた。
 マリンを守る為に、腕を失い、姿すら変えられた。
 だが、その事に男は一片の悔いもなかった。
 それ程に強い思いが、男の根底には流れているのだった。 
 
 ほんの少しの油断も迷いも、この先を行く者にとっては邪魔なだけだ。ガントは深い紺
色の瞳に強い意志を潜ませ、『師匠』としてマリンに語りかけた。 
『集中力を切らすなよ。……これは師匠としての警告だ』
 自分に言い聞かせるような言葉だった。マリンはその言葉を受け取り、深く頷いた。
「了解」
 マリンはガントから漂う本気の緊張感を感じて、ぎゅっと拳を握り締めた。
 ココから先は『女の子』である気持ちをしばらく封じなければいけない、そう感じる程
空気が違っている。仕事中である時と同じ位の緊張感と、レンジャーとしての気持ちで臨
むのが相応しいとマリンには思えた。
 山小屋を出て上を見上げると、延々と続く岩の斜面が見える。雲をかぶっているせいで
山頂付近は見えないが、雄雄しいドラゴンマウンテンの姿はマリンの心を試しているよう
にも見える。
「……ね、最後に、最後に一つだけ、……緩んだ事聞いていい?」
 ここから先は甘えた事など言ってられない。だからこそ、マリンは小さく問いかけた。
『何だ?』
 厳しい顔のまま、ガントは首を傾げる。
「……似合ってるかな? これ」
 それはマリンが『女の子』としてどうしても聞いておきたい一言だった。こんな緊張感
の中でそんな事を聞くのはどうかしてるのはわかっていたが、そこだけは譲れなかった。
最初のクロフォードの一言のせいもあったが、どうしてもその言葉をガントから聞いてみ
たかったのだ。
 この質問に深い意味なんてないかもしれない。ただ、ガントの一言が聞きたかったのだ。
 その言葉は、少女にとって間違いなく大きな力に、支えになるのだ。
 小声で呟くマリンに、ガントはピクリと眉を動かし小さく首を振った。 
『馬鹿者』
 ぴしゃりと突き放され、マリンは思わず赤面する。
「ご、ごめんなさいっ、もう言わないか……」
『全く』
 狼は苦い顔で首を振った。
『……似合っているに決まってるだろうが。馬鹿者。いちいち聞くな。もう言うなよ。気
持ちを切り替えろ』
「……はいっ!」
 狼の一言に、少女の心が満たされていく。
 マリンは拳を握り締め、山を仰いだ。
 自分の事をこんなにも思ってくれている人が居る。
 彼の力になりたい。
 未知の地への不安と恐怖を必死に押さえ込み、少女は一歩を踏み出した。


 荒涼とした山肌を三人のレンジャーが進んでいく。
 少し進んだ所でふと先頭のクロフォードが足を止めた。荷物を降ろし、鋭い視線を走ら
せる。
「来たぜ、マリン。上位の洗礼だ」
 マリンがクロフォードの視線のほうに顔を向けると、そこには気高いまでに美しい大鹿
の姿があった。左方の五メートルはあろうかという大岩の天辺から見下ろすその数は二頭。
 黒く艶やかな毛並み、枝の様に伸びる大きな角。そしてぎらつくその目に宿るのは、侵
入者に対する明確な殺意だ。
「ガントいけるな?」
 クロフォードの言葉に、ガントはガウと低く答える。
「マリン、俺様達で仕留める。お前は回避に専念。まずは奴らの動きに慣れろ」
「了解」
 マリンは岩陰にリュックを下ろすと、視線を鋭くし低く構えた。


     9

「キャウウッ!」
 大鹿ケルウスが激しく嘶き、大きく首を揺さぶる。
 空間を裂く様な絶叫を思わせる鋭い声に、マリンの肌がさっとアワ立つ。
『声にのまれるな、……くるぞ!』
 ガントの合図と同時に、二頭のケルウスが岩を蹴り宙に躍り出た。
「!!」
 決して意識をそらせた訳ではない。
 気がつけば、目の前に二頭のケルウスが同時に飛び込んできていたのだ。
 驚く時間さえなく、マリンはギリギリで飛び、とっさに身をかわす。
 マリンの居るはずの場所に蹄を立てたケルウスは、回避したマリンを目で追うと再び足
に力を入れた。ゴッと大鹿の足元の岩が砕け、破片があたりに散る。
「キャウッ!?」
 瞬間、片方のケウルスが甲高い声で鳴き、鮮血を散らす。
 クロフォードのバスタードソードが、その腹を捕らえ横一線に深く切り裂いたのだ。突
然の痛みに怯んだケルウスに、すかさずガントが体当たりを仕掛けその場に押し倒す。ケ
ルウスはゆうに大人一人分はある大きさだが、狼もそれに負けない体躯を持っていた。狼
は起き上がろうと跳ねるケルウスの首に鋭い牙を立て、ぐっとめり込ませた。
「キャウッ、キャウ!」
 ガントを振り払おうとケウルスが掠れた声を出し首を振るが、狼は口を血で濡らしなが
ら牙を更に食い込ませ問答無用で気道を圧迫する。しばらくして大鹿は目を見開いたまま
口を大きく開け、ピクリとも動かなくなった。
「う……、うあ……」
 少女は息をのんだ。
 まるで狼が獲物を仕留めに行くような、正しくも残酷な光景。
 険しい顔でケルウスを咥える血に濡れた狼に動揺し、マリンの心臓がどくんと大きく鳴
る。
 マリンの警戒が一瞬途切れる。
 そしてその隙をもう一頭のケルウスが見逃しはしなかった。
 マリンが岩場に着地したと同時に、もう一匹のケルウスが方向を変え少女に飛び掛った
のだった。
(避け……!?)
 かわす為に飛ぼうとして、マリンはひっと息をのんだ。瞬間、踏ん張った左の足元がパ
キンと崩れ、マリンの体が斜めに傾く。
「レスピアシオン!?」
 黒く散った破片を見て、着地した場所があの特殊鉱物であった事にマリンは直ぐに気が
ついた。運良く爆発はしなかったが、体勢の崩れたマリンの目の前にはケルウスが迫って
きていた。
 ザンッ!
 マリンの目の前に一筋の光が走る。
 それは、ケルウスの長い首を捕らえたクロフォードの剣の軌跡だった。
 一閃の光の通ったケルウスの首から鮮血が散り、ずるりと頭が下に落ちる。だが、切り
離された体は岩場を蹴った勢いのまま、真っ直ぐマリンに向かって突っ込んできていた。
(やだ、ぶつかって滑りおちるっ……っ!)
 後ろは下りの山の斜面だった。防御の姿勢すらとれず、斜面をすべるマリンは岩を掴も
うと手を伸ばした。
「ガウッ!」
 銀色の塊がダンダンダンと斜面を跳ね、マリンの元へと向かう。
 間一髪、大鹿が突っ込むよりも速く、狼はマリンの襟を咥え掻っ攫った。
 胴体だけのケルウスはそのまま岩の斜面に突っ込み、ガガガッと下に転がり落ち斜面に
砂煙が舞い上がる。
 ガントは比較的平らな斜面に着地してマリンを離すと、がふっと息を吐いた。
「っ!」
 着地の際に尻を打ち、マリンはぐっと眉を寄せる。だが滑り落ちるよりも数段ましだ。
『大丈夫か』
「ご、ごめんなさい、私……」
 眉を寄せるマリンに、ガントが首を振る。
『最初から綺麗にかわせるなんてこっちも思ってないさ。気にするな』
 マリンはゆっくりと立ち上がると、ぬるりとした感触が首にあるのを感じ、そこにそっ
と手を当てた。それはケルウスの血だった。おそらくガントの口についていたモノだろう。

 ――ケルウスに噛み付いたガントは『獣』そのものに見えた。

 ふとさっき見た光景が頭をよぎり、マリンはビクリと体を震わせる。
 今までも血に濡れるガントは幾度も見てきていた。だが獣人の姿の時でもそんな風に感
じた事は今まで無かった。
 だが。
 その見た目が完全に人の姿とかけ離れているせいか。
「ガント、本物の狼みたいだった……」
 一瞬ガントがガントに見えなかった。
 そんな気がして、マリンはガントの方を振り返った。
 銀色の尾を立て、鋭い爪で大地を掴み、崖下のケルウスを眺めるガントの姿は正に狼そ
のものだ。
 驚きと戸惑いの表情のマリンの脇で、銀色の狼はぷるぷると体を震わせる。
『本物の狼、か。やり方を本物に習ったからな。……だが、噛み付くのは気分が良くない
な。血の味は好きじゃないし、何より獣に成り下がった様で気に食わん』
 眉を寄せ、グルルとガントが唸る。
 その言葉と脳内に響く声に、マリンははっとなる。
(何考えてるんだろ。ガントは獣なんかじゃないのに……)
 昨日感じたものとはまた別の新たな戸惑いをかき消すように、マリンはふるふると首を
ふった。
「マリン、アレがケルウスだ。速く感じたか?」
 剣を収め、クロフォードが荷物を拾い上げる。
「うん、……少しびっくりしちゃった」
 マリンもリュックを拾いに行き、それを背負いふぅと息を吐いた。
「なれない場所でそう感じるだけだ。あいつらは魔物としてはお前でも倒せるレベルの筈
だからな、そのうち慣れるさ。それにしてもガント。お前なかなかいい攻撃だったな?」
 嫌そうに眉を寄せるガントを茶化すように、クロフォードがフフンと笑う。
『相手がケルウスじゃなければ爪で仕留めたさ。だが、あいつらに時間を与えたくなかっ
たからな。嫌でもやるしかないだろ』
「相手がケルウスでなかったら……? 時間? どういう事?」
 ガントの言葉にマリンは首を傾げる。
 上を目指し再び斜面を登りながら、クロフォードが口を開いた。
「あいつらの声を聞いただろ? あの声は良く響くんだ。あの声で何度も啼かれると、他
の魔物がすぐによってくるのさ。だから、あいつに襲われたら、出来るだけ早く仕留める
の事をまず考えなければいけない。なるべくひと啼き、一撃で仕留める。それがケルウス
とやる時の鉄則だ」
「なるほど……、そうなんだ」
 マリンはこくんと頷き、岩場に残っているもう一体の息絶えたケルウスをチラリと見た。
ピクリとも動かないケルウスの首には狼の歯形が残っていた。
 ガントが嫌がりながらも口を使って攻撃した理由も解った気がして、マリンの顔からは
戸惑いが薄れていった。

 それにしても危険な場所だ、とマリンは思った。

 今歩いている道はそれ程傾斜は激しく無いが、さっき着地した場所はかなり急な傾斜に
なっていた。しかも足元には砕けやすい鉱物まで潜んでいるのだ。飛ぶにも着地にも気を
使わなければならない。
「山の見た感じは四合目の岩場と変わらないのに……」
 良く見れば、砂埃のしたから、うっすらと黒いものが見えている箇所がある。これから
増えていくであろう厄介な鉱石の存在に、マリンは苦い顔になった。
「さ、じっとしていたらケルウスの血の匂いに他の魔物がよってくる。いくぜ、マリン」
「りょ、了解」
 前を行く二人のレンジャーを見て、マリンはフルフルと首を振った。
「それにしても確実に一撃……か。上位のレンジャーって化けものだよ」
 強いレンジャーを目指す少女の心に、この一戦は衝撃として刻まれたのだった。


「マリン、飛べ!」
 男の声に従い、マリンは高く飛び上がる。マリンの居た場所がごぼりと盛り上がり、そ
こから鋭い爪が勢い良く生える。空を掴んだ爪は、獲物を探すようにその腕を地面に出し
辺りをごそごそと探り出した。
『こいつはこうして……引っ張り出す』
 狼はガシャリと深紅の義手で踏ん張ると、左の手から鋭い爪を光らせた。
 地面から生えた手にそれをずっと突き刺すと、地中に潜むそれを地面へと引っ張り上げ
る様に一気に腕を振った。
「ギャギャギャッ!?」
 狼に引っ張り出されたのは体に針の様な毛を持つ、モグラに似たドラゴンだった。
「こいつはタルパドラゴン。地中に暮らすロウドラゴンだ」
 引きずり出されたドラゴンに、クロフォードがずんと剣を突き刺す。
「弱点は腹だ。そして背中のこの針には毒がある。拳が武器の場合は無理に倒さない方が
無難だ」
 淡々と解説しながら、クロフォードはタルパドラゴンから剣を引き抜いた。
 ごぷっと茶色の体液が溢れ、小型のドラゴンはその場でびくびくと息絶える。
「クロフォード、あれ……」
 淡々と話す男に、少女が後ろを指差す。
 大分先であったが、何かの影がゆらりと揺れていた。
「……ふん、多すぎるな。魔物が」
 美麗な男が眉を寄せ、素早く視線を走らせる。
 周囲には相当数の魔物が集まっているらしく、そこいらじゅうから獲物を狙う視線を感
じる。
 端正な顔を僅かに歪ませると、クロフォードはちっと舌打ちした。

 最初にケルウスと会ってから数時間。クロフォードは懐中時計を出して針の位置を確認
する。時刻は昼の一時を過ぎようとしていた。
 一行は数時間の間に六合目の半分まで進んでいた。
 クロフォードの頭の中ではもう少し先まで進んでいる予定だったが、その予定は大きく
ずれてきていた。
『季節が悪いのは解っていたが、……ここまでとは予想外だったな』
 銀色の毛並みを山風に揺らしながら、ガントはぼそりとつぶやいた。
「季節が悪いって……春先だから、冬眠明けの魔物がお腹をすかせてるって事?」
 マリンの問いに、クロフォードが頷く。
「その通りだ。だが、これは多すぎる」
 山を往く七時間の間、剣をしまう暇が無い程に戦闘が繰り返されていた。
 流石のクロフォードも若干いらついているらしく、口調が単調になってきている。
「なんで、こんなに多いの?」
 山道に少し慣れてきたマリンが、様子を伺いながら足を進める。
「さぁな。だが定期的にこういう事が起こるんだ。お前も知ってるだろ、定期的に俺様が
上の魔物を討伐に行ってるのを。今回はそれに重なったって訳だ。……ち、めんどくせぇ」
 目的の七合目の洞窟の入り口まではあと一時間もあればつく筈だ。
 だが、この調子では日が暮れるまでにたどり着けるか解らない状態だった。
「マリンが思ったよりも早く慣れてくれたお陰で、半日でいける可能性もあったんだがな」
 愛用のバスタードソードをぶんと振るい、ふるふると首を振る。
 じりじりと近づく魔物たちは、確認できるだけで七体。今日戦ってきた中では最多の数
だ。
 囲まれれば無傷ではいられない数な上に、これ以上ここで足止めを食らえば日暮れまで
に洞窟にたどり着けなくなるだろう。
 やれやれと首を振ると、クロフォードは汗で濡れた金色の髪をかきあげた。

「ガント、マリン。ここからは二人で行け」

「く、クロフォード!?」
 マリンは目を見開き、突然の提案に声を荒げた。
「ガント、七合目の看板の北東の位置に風洞の出口があるだろ。そこから真っ直ぐ東に十
分ほど走った場所の大岩の裏側にでかい入り口がある筈だ。そこがカヒュラの洞窟の入り
口になっている」
『解った。この場は任せる。……またな』
 クロフォードは背を向けたまま左の拳を差し出し、その拳にガントの獣の手がぶつけら
れる。にっと口の端をあげ、クロフォードは剣を構えた。
「ちょ、そんな、こんな数を一人で……!?」
 慌てるマリンをよそに、ガントは別の方向へと目を向ける。
「行け。お前達には時間が無いんだ。俺様を誰だと思っている? この程度の数なら、か
えって『一人』の方が早いんだよ」
(やっぱり……足手まといに……)
 そう考えるマリンの気持ちを読むように、クロフォードがふっと笑う。
「俺様はまだお前達の知らない技があるって事だ。ふん、知られてたまるか」
「クロフォード……」
 クロフォードはすっと拳を差し出し、マリンに向けた。
 差し出された拳は手袋が破れ、手の甲が見えていた。連戦の中皆無傷ではあったが、流
石に装備にはダメージがきている様で、黒い革で出来た甲を覆う手袋は僅かに破れていた。
「行けよ。出来るだけ全力で走れ。いいな?」
 マリンは拳をクロフォードの拳にぶつけ、こくんと頷いた。
 が、その時クロフォードの甲に何かが見えた気がしてマリンはぴくりと反応した。
「あれ、コレ……」
「いけぇっ!」
 クロフォードの叫びと共に、周りに居た魔物がばっと姿を現す。
『マリン、こっちだ!』
「……っ! クロフォード、負けないでね!」
 マリンは大きく叫んで、ガントの後を追い走り出した。
(手の甲のあれ……カヒュラの紋章に似てた……なんだろう)
 マリンはチラッと見えた赤い模様に、自分の左手にあるカヒュラの紋章と似た空気を感
じていた。
 だが、そんな事を考える間もなく、狼がマリンに叫んだ。
『マリン、こっちにも二匹来ている、あいつらは長くは走れん、振り切るぞ!』
「りょ、了解!」
 マリンは意識を切り替えると、ガントの後を追いかけた。


「ふん、負けるな、だと?」
 飛び掛る魔物を綺麗に避けつつ、クロフォードは岩の斜面を駆け上る。
「負ける訳がないだろう。こんな『雑魚』相手に」
 魔物達と距離をとり、クロフォードは相手の数を確認する。
「ディーノ四匹にケルウスが二頭……、ふん、頭の悪いドラゴンは好きじゃないね。全く。
俺様の存在を理解できないなんてやれやれ、ありえない」
 視線を鋭く光らせ、クロフォードはふるふると首を振った。
「で、あの二人は……おぉ、早い早い。もう見えないな。じゃ、一気に片付けるとしよう
か」
 クロフォードは手袋を脱ぎ捨てると、改めて剣を構えた。
 右手に刻まれた赤い紋章が僅かに濃くなり、微弱な魔力がじりじりと漂う。
 涼しげなアイスブルーの瞳をすっと細めて、短くワードを唱え端正な顔を歪めニヤリと
笑う。

「さぁ、来てくれ我が友デイオス。連戦な上に雑魚がしつこくてめんどくさいんだよ」

 その声と同時にクロフォードの眼前に特大の魔方陣が出現する。
「素直に疲れたと言え」
「黙れよ」
 魔方陣から熱風が漏れ、その気配に魔物達が一歩下がる。
「さ、雑魚共。さっさと逃げ帰らないと『餌』だぜ?」 
 クロフォードは余裕の笑みで魔物達を見下ろし、妖しく瞳を光らせた。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 

 

 

 

 

 

 

 





 

 






















     10

「クロ、フォード、大丈夫かな」
 足元の悪い岩場を駆け抜けながら、マリンは息を切らしながら呟く。
『心配するな。ナンバーワンレンジャーを名乗るだけの力が奴にはある。それに、勝てな
い時にあんな事をいう奴じゃない』
 ガントの言葉には確信があった。何をどうするつもりかは知らないが、クロフォードは
それだけの信頼に値する男だった。
 背後からギャウッと魔物の嘶きが聞こえる。二人を追ってきた二頭のディーノだった。
 鱗に覆われた体、二本の細い足に長い尾、トカゲが立ち上がった様な、そんな表現がぴ
ったりのロウドラゴンは、かなりの速さで駆け抜ける二人を完全にロックオンしていた。
『こいつら、早いな……』
 二匹の魔物は徐々に距離を狭め、二人に迫ってきていた。
「ギャウ!」
 一匹のディーノが不意に飛び上がり、一気に距離を縮める。
「きたっ!」
 ガントよりも足の遅いマリンを狙い、緑の蜥蜴竜が牙を鳴らす。
「っ、このっ!」
 何時間も続く連戦のお陰で、新しく見た敵の動きは大分把握できた。
 マリンは背後に迫る気配に向けて体を向け、飛び込んでくるディーノに鋭い視線を向け
る。
「やぁっ!」
 マリンは迎え撃つべく蹴りを放ち、それをディーノのわき腹にヒットさせる。予想外の
少女の動きに、ディーノぐらりとよろける。
 岩場に慣れたのと度重なる連戦で、マリンはようやく反撃出来るようになっていたのだ。
 すぐさま足場を確保し、マリンは拳を真っ直ぐに放った。拳は的確にディーノの頬を捉
え、マリンは躊躇わずにそれを振りぬいた。
「ギャギャッ!」
 突然浴びせられた拳にディーノは驚き、そして蜥蜴竜の体は見事に宙を舞う。
『その調子だっ!』
 拳を振りぬいたマリンの背後から銀色の塊が飛び跳ねる。
 それはたんたんとリズム良く岩場を飛び跳ね、もう一匹のディーノに向かって爪を光ら
せた。
 ざくり、と首筋が裂かれ、血が溢れる。
 ディーノは悲鳴を上げるまでも無くその場に崩れたが、狼は完全に息の根を止めるべく
その喉を紅い手甲で出来た腕で踏みつぶした。
「はぁっ、はぁっ」
 額の汗を拭い、マリンは吹っ飛ばしたディーノを目で追った。
 宙を舞ったディーノは崖下にまっさかさま、首があらぬ方向に向いて動かない状態だっ
た。
「……仕留めたっ」
 むん、と拳を握り締め胸を張るも、不意にがくりと足が笑い、マリンはその場にへたり
こんだ。
「れれ、どうしよ、流石に、疲れたかな」
 力の入らない足に苦笑しながら、マリンはぐっと立ち上がる。
(マリンの足が限界か……)
 なれない岩場で魔物をかわしながらの連戦だ。上位のレンジャーだってこんな戦いが続
いたら流石に足が持たない。
 上位の力があるとは言い切れないマリンの疲労は、ピークに達しようとしていたのだ。

 ガントは少し高い岩場に立ち、あたりを探った。
 銀色の耳をピンと立て、紺色の視線をあたりに走らせ感覚を研ぎ澄ませる。
 気配、音、匂い。それらを探りガントは索敵をする。
 少し人間離れした索敵の仕方だったが、それがガントのいつものやり方だった。
 ワーウルフと人間の間に生まれたガントは、そういった感覚が人よりも鋭かった。特に
ワーウルフに姿を変えたときは、人の姿の時の何倍もその能力が上がる。
 狼の体になってからは一層感覚が鋭くなり、常に変身時のような感覚で魔物の気配を探
る事が出来ているのだった。

 魔物の気配を探り、ガントは状況を読む。
 クロフォードが引きつけてくれているのか、魔物の気配は薄かった。少し休む事はでき
そうだ。だが、ガントの頭には別の考えがあった。
『……マリン、乗れ』
「……っ、え?」
 息を切らすマリンに、ガントは手甲を鳴らしながら言い放った。
 その言葉にマリンは目を丸くする。
「乗る……て、ガントに!?」
 予想外のガントの言葉に、マリンは思わず声を大きくする。
『お前の足を休ませなければいけないのは解っている。だか止まる訳にもいかん。ここで
休むのもいいが少しでも距離を稼ぎたい。今はクロの奴が引きつけてくれているが、いつ
までこの状況が保てるか解らんからな』
 ガントはどうやら本気でそう言っているようだった。
「私が休めても、ガントが休めないよ。それなら私も歩く……きゃっ」
 とん、と、ガントが鼻先でマリンの足を押す。それにつられて、マリンがくらりとよろ
けた。
『どう見ても歩けんだろうが。休むのは洞窟に入ってからでいい』
 目指すのはカヒュラの洞窟だ。洞窟まではあと一時間もあれば着きそうな距離だった。
 それに向かう洞窟は唯の洞窟ではなくて竜の棲家だ。
 そういう場所は決まった場所にしか魔物がおらず、罠などの無い安全な場所を確保でき
れば普通の洞窟やこのへんで休むよりもずっと安全に休む事が出来る。
『竜の棲家の話は聞いた事があるだろう。それにいつもはもっと重い荷物を持って延々移
動する事もあるんだ。お前一人担ぐ位、この体でも余裕だ』
 ガントは視線をあたりに走らせながら、がしゃりと紅い腕を鳴らした。
「……、ホントに乗って良い?」
 本音を言えば、ほんの少しで良いから休みたかった。
 そして少しでも進まないと期限に間に合わないのも事実なのだった。 
『乗れ』
 狼に促されるまま、マリンはその背に跨った。
 その姿はまるで乗用狼に乗ったアマゾネスのような雰囲気だ。
 なんだか不思議な気分になり、マリンはどこかそわそわとしてしまう。
『……、あ、ちょっと重くなったかお前』
「っ! なっ!? きゃっ!」
『体を伏せてしがみ付いてろよ、軽く走るからな』
「うわわぅ!」
 バランスが取れずわたわたするマリンを他所に、ガントは走り出した。

 たんたんと岩場を駆け抜ける狼は、疲れなど感じさせない軽やかな動きだった。  
 マリンは風を感じながら、その首に腕を回し振り落とされないようにしがみつく。
(……ガント)
 こんな状況だというのに、体の奥がじわりと熱くなる。
 愛する人に触れている、その体温を感じている、唯それだけの事が、マリンを熱くする
のだった。
(だめ、馬鹿、集中しなきゃっ)
 マリンは戦闘モードに頭を戻そうと首を振る。
(だめだよなぁ……。こんなに気持ちがふらふらしてちゃ……)
 集中しなければいけないのに、沸いてくるガントへの気持ち。
 何度も押し寄せる、様々な不安。
(もっと……強くなりたいよ)
 風を受けて揺れる銀色の鬣に顔を埋めながら、少し強くしがみつく。
『……落ちるなよ』
「……うん」
 相変わらず狼のスピードは落ちることは無い。
 マリンは狼のその強さに憧れると同時に、少しだけまた不安になるのだった。
(……無理、してない……かな。……絶対してる……って気もするなぁ)
 本人に聞いた所で「していない」と言うだけだろう。
 マリンは今にも出そうになる言葉を飲み込んで、再び顔を上げた。

 目の前の光景が少し変わり、背の低い木の様な植物がちらちらと見え出し、岩場の色が
白っぽく変わっていく。
『ここら辺が大体七合目だ。ココから上は雑魚の数も減る。竜の巣の多く集まる場所。そ
れが七合目だ。……俺達でもあまり多くは来ない場所だし、近づきたくない場所だな」
 かしゃんと足を鳴らし、ガントは岩場の上に立ちどまった。
 所々に雪の残るこの場所は、空気も薄く独特の緊張感で包まれていた。
 ひんやりとした空気に、マリンはごくりと息を飲む。
 しがみ付いていた狼から離れ、少し休んで軽くなった足で岩場に立ち周りを見回す。
『このレンジャーのバッジの効果、知っているか?』
「え?」
 急なガントの問いかけに、マリンはきょとんとなる。
 質問の意味を考えつつマリンは襟についているバッジに触れつつ、記憶を手繰った。
「えと、レンジャーである事の証明、竜の加護を受けているアイテム……としか教えても
らってないと思ったけど……」
『そうだな。その竜の加護のお陰でレンジャーは助かっている部分もある。特にこのへん
を行く時はな』
 ガントは周りを確認しながら、ゆっくりと歩を進める。
 左手の方に七合目を示す看板があり、ガントはそれを確認するとくるりと右を向いた。
『少し空気が薄いだろう』
「言われてみれば……、うん、息しづらい」
 ドラゴンマウンテンはかなりの高さがある山で、この辺で、いやこの大陸で一番の高さ
があるといってもいい山だった。この山の裏にある『連なる山々』ですら、高度的にはド
ラゴンマウンテンの六合目くらいだと言われている。この高度になると、雲が下に見える
事だってある。
 そんな高さを持つ山だ。空気が薄いのは当然の事だった。
 だがマリンはその事をガントに言われるまで気づかなかったのだ。その事が不思議でマ
リンは首を傾げる。
『竜の加護のお陰で、今まではさほど空気の薄さなど感じなかった筈だ。本来なら五合目
あたりでそれを感じておかしくないんだがな』
「……そんな効果があったんだ、知らなかった」
 知らぬ間に受けていた恩恵に、マリンは少し驚く。
『この事は、本来上位になる時の研修で教えるべきことだからな。……ん。アレか? 洞
窟の入り口は』
 ガントの言葉に反応して、マリンはぴくりと顔を上げる。
 白っぽい大きな岩の裏に回り込むと、馬車が通れてしまいそうな穴がぽっかりとあいて
いた。
「おっきな入り口……竜が余裕で出入りできそう。でも、カヒュラが出入りするには小さ
いよね」
『カヒュラはゾーインとの時に体の大きさを変えていたからな。それで何とかなるんじゃ
ないか?』
「なるほど」
 ふと、入り口の上部に何か彫られたような跡があることに気づいて、マリンは目を凝ら
す。手の届く高さの壁際に、明らかに人為的に記された紋章の様なものがある。その隣に
は少し古い時代の魔法文字が刻まれていた。
「ガント、上見て。あれ、カヒュラの紋章だ」
 マリンは左手の手袋を外し、甲に刻まれた紋章と比べる。
『確かに……同じものだな』
 マリンは魔法文字をなぞりながら、むぅと口を尖らせる。
「えと……、『覚悟を決めろ。覚悟無きものには死を』。こ、こわっ。……ガント、ここ
で確実っぽいよ」
『だな』
 ぽっかり開いた穴の先は暗く、下へと向かう坂道になっているようだった。
 この穴は幾人の冒険者を飲み込み、そのうち何人がカヒュラの元まで辿り着けたのだろ
うか。
 マリンはリュックから小型のたいまつを引っ張り出しそれに火をつけると、暗い洞窟に
足を踏み入れた。
「……カヒュラに会って、師匠の行方を聞かなくちゃね」
『もしくは解決の方法を聞くか。なんにせよ俺達を呼び出した真意を聞かなくてはな』
 時刻は午後三時を過ぎようとしていた。
 マリン達は一歩を踏み出し、暗い洞窟の中へと入っていくのだった。

 

     11

「〜〜〜〜〜〜っ!!」
 マリンは全力で走っていた。
「っ! っ!」
 洞窟に入ってからマリンはずっと走りっぱなしだった。背負った荷物の重みもあり、マ
リンの息は今にも切れそうだった。
 折角ガントに休ませてもらった足もまた悲鳴を上げ始めていたが、こんな所で死にたく
は無い。
『マリン! 次の角を曲がるぞ!』
「りょ、了解!」
 緩やかな下り坂になっている洞窟の通路を走りぬけ、わき道になっている通路にマリン
は飛び込んだ。
 ゴロゴロゴロゴロ……!!
 マリン達の後を追うように、通路を埋め尽くすような巨大な丸い岩が下り坂を転がって
いく。
「ひぃ、ひぃ、何あの罠!」
『侵入者を排除する為とはいえ、容赦ないな』
「グガアアッ!」
「ひぃいっ!?」
 息つくまもなく、魔物が現れマリンはびくりとなる。
『グレータイガーか! カヒュラはなんてモン飼ってやがるんだ、マリン!』
「了解っ!」
 殺意をむき出しにして飛び掛る洞窟虎を、マリンはその足で蹴り上げる。
「ギャン!」
 疲れた足での攻撃はダメージは低い。だが敵を怯ませるには十分な衝撃があった。
 ひるんだ虎を押さえ込むようにガントがのしかかり、その首に噛み付き一気に締め上げ
る。
「ガウ! ガ……!」
 大きな体を揺らし必死に狼を剥がそうとするが、完全に気道をふさがれた虎は目を剥い
たままびくびくともがく。
「ごめんねっ!」
 マリンは一言謝るとその頭に向けてがっちりと組んだ手を勢い良く振り下ろす。
 ガゴン、という鈍い音と共に、虎は息絶えばたりと倒れこんだ。
『全く、手の込んだ洞窟だ』
 ガントは虎の首から口を離すと、息絶えた虎を突付いて首を振る。
「あぁもう、ココまで来るのも大変だったのに、カヒュラは鬼だ……」
 抜ける床、壁から飛び出す槍、転がる岩。王道だが強力な罠のオンパレードな上に、更
に魔物だ。

 マリン達は冒険者やトレジャーハンターではない。
 だから、こういった罠を回避するのは得意ではなく、さっきもうっかりスイッチを踏ん
でしまい、岩に追いかけられていたという訳だった。

『カヒュラは殺る気満々だな』
「まぁ……、カヒュラの巣に入る人間なんて、カヒュラを倒そうっていう冒険者やお宝を
狙ったハンターが多いわけだから、まぁ、分からなくも無いけど……」
 ようやく訪れた静寂に、マリンは壁にもたれてはふぅと息をつく。
 がごん。
「え」
 マリン達が飛び込んだのはあまり広くないわき道だった。そしてもたれかかった壁全体
が動いたような気がしてマリンはひくっと眉を動かした。
『ヤバイな』
 ごごご、と鈍い音を立てて、壁が動き、通路が狭まっていく。
「うああああああっ!」
 マリンは元の通路に戻ろうと慌てて振り返る。
 が、その通路からマリン達が出てくるのを待っている様に、緑色のドラゴンが目を光ら
せていた。ドラゴンのからだでは通路に入れないのだろう。マリン達をじっと見つめてい
る。
「緑! ドラゴン! ま、マウンテンドラゴンだっ!!」
 初めて見るマウンテンドラゴンに驚きながらも、迫り来る緊急事態にマリンはどうしよ
うかと思考を巡らせる。
『走るぞマリン! 反対側だっ、通路を抜けるぞ!』
「ひいぃっ!」
 マリンはくるりと方向転換し、走る狼を追いかけた。
 ゆっくりと、だが確実に迫る壁に泣きそうになりながら、マリンは首を振る。
「ガント、その先行き止まりとか無いよね!?」
『知らん。だがきっと大丈夫だ』
「勘?!」
 ガントの勘は良くあたる。
 だからマリンはとりあえずそれを信じて走ることに集中した。
 少し走るとマリンの持つたいまつの明かりに照らされ、通路の先に開けた空間が見えた。
「出口っ!?」
 壁の迫る通路を駆け抜け、マリンはその先にごろりと転がり込む。程なくしてずぅんと
壁が完全に合わさった音が空間に響いた。
 受身を取る際に手放したたいまつがころころと転がっていき、マリンはそのままばたり
と大の字になった。
 その空間は広い岩壁の部屋のようになっており、先ほど走ってきた通路だった壁の向か
い側にはその先に通じる通路があった。そして床は石の床で舗装されており、今までとは
少し違った雰囲気になっていた。
『この部屋は、何もないようだな』
 流石に少し息を切らせた狼が、あたりを歩き回り罠の有無を確認する。
「や、やっと、休憩、かな」
 大の字になったまま、マリンははぁと大きく息を吐いた。

 時刻は午後九時くらいだろうか。
『今日はココで休もう。流石に俺も休みたい』
 狼も大の字になるマリンの横に伏せると、がふぅと息を吐いた。
「クロフォード、大丈夫かなぁ……」
 途中で別れたクロフォードを思い出し、マリンはごろんと顔を横に向ける。
 いくらレンジャーナンバーワンとはいえ、マリンは心配になってしまう。
『あいつなら大丈夫だろう。勝手に一人で帰るだろうさ』
「強いよね、クロフォード」
『竜に関してはおそらくあいつが一番強いな。きっと帰り道にミドルドラゴンに会ったと
しても、全然平気だろうな』
「何それ、反則だよ……」
 マリンはむくっと起き上がると、ガントの背中に掛けてあるリュックを開け、中から携
帯食と水を取り出した。
 途中、隙を見て少し食べてはいたが、ゆっくり食べれなかったのでようやくご飯という
気分だった。
「やっぱり、二人の方が気が楽だね」
 マリンはガントの口元に携帯食を持っていくと、それをガントはぱくりと食べる。
『そうだな』
 暗い洞窟の中、たいまつの明かりだけに照らされて、一匹と一人はようやく休む事がで
きた。お腹を満たしたところで、マリンは急に体が冷えてきた事に気がついて、ぶるっと
身を震わせた。
「わ、ここ結構寒いんだ。今まで気づかなかった」
 慌てて毛布を取り出し、マリンはそれに包まった。だが、冷えていく体はがくがくと震
えだし、マリンは足を抱き寄せ小さく丸まった。
『今までずっと動いていたからな。それにこの洞窟は大分深いみたいだしな。もしかした
ら山の裏側に繋がっているかもしれんな』
「裏側?」
 マリンはガントの話に耳を傾ける。
『ドラゴンマウンテンはチークから見れば綺麗な三角錐の様な形だが、上から見たら三日
月の様な形だと言われている。裏側は何かに削られたように抉れた感じになっているんだ。
その区域を俺達は『裏側』と呼んでいるんだ、そしてその裏側から繋がるのがあの『連な
る山々』だ』
「『連なる山々』、オクタビア半島を横切る断崖絶壁の山脈……」
 外からは侵入不可能とされる『連なる山々』。そこに入る事が出来るのは唯一ドラゴン
マウンテンからだとマリンは聞いていた。
「なるほど、裏に回れば『連なる山々』に行けるんだね」
『まぁ、行く事など無いだろうがな。あそこには何も無く、ただ険しい岩山というくらい
しか解っていない。それにイエティやスノーウルフのような魔物が生きる地でもある』
「そか……厄介……だね……」
 不意に襲ってきた眠気に、マリンはがくりとなる。
『横になれ。俺も寝る。休んだら直ぐ移動だ』
「う……ん……」
 ぽすんと床に転がり、マリンはそのまま目を閉じた。
『……毎度の事だが、寝つきが良いな。お前は』
 そういいながらも、ガントも目が重い。
「うぅ……毛布……」
 寒いのか、マリンは更に毛布を求めて手を伸ばす。そしてガントの尻尾を掴むとそれを
引っ張った。
『……、寝ぼけてるな、お前』
 ガントはマリンの手を引き剥がそうと、ぱたんと尻尾を振った。マリンの手が尻尾から
離れ、ぱたりと石床に落ちる。
 が、やはり寒いのか、手を伸ばしマリンはうぅーと唸りだした。
『……汗臭くてもしらんぞ』
 ガントはその身を倒し、マリンの手に触れさせる。するとぬくもりに気づいたマリンは
一気にそれを抱き寄せた。
『!?』
 急に抱き寄せられ、ガントはビクリとなる。背中越しに感じる少女のぬくもり。それは
焦る男の心をほぐしていく暖かさだった。
「毛布……もさもさ……」
 そう呟くのを最後に、マリンはすぅすぅと深い眠りに落ちていった。
『……確かに毛布かもな。毛皮だからな』
 少女に抱き寄せられ、狼は目を細めた。
 緊張が解けていき、ガランと手甲が外れる。
 それからすぐに、ガントも眠りに落ちていくのだった。


 砂の海が見える。
 少年の目に映るのは荒れた大地と砂の海だった。
「魔物だ、お前は人じゃない」
「くるな、化け物!」 
 自分から離れていく人間達。それは昨日まで仲良く遊んでいた子供達だ。
「違う、僕は人間だ!」
 必死に訴えるが、浴びせかけられる視線は冷たい。
 やがて人は消えていき、少年は一人になった。
 耳は獣の様に大きくなり、尻尾が生え、手も体にも深い毛が生えている。
「違う、僕は……!」
 湧き上がる衝動。
 壊したい。
 全てを壊したい。
「嫌だっ! 違うんだ……!」
 薄れていく意識。消えていく理性。
「大丈夫、アナタは人間。心を強く、負けてはだめ」 
 暖かい手が少年を包む。
 そのぬくもりは自分を引き戻すには十分な効果があった。
 だが、それを振り切るように、心の奥から魔物である部分がじわりと染み出してゆく。
「嫌だ! 嫌だ!」 
 ぬくもりを頼りに、少年は必死にもがいた。
 頬に触れる確かなぬくもり。
 唯一自分を、そんな自分を受け入れてくれる光。
「僕は……、僕は……


『俺は……人間だ!』
「ガント!?」


 目を覚ますと、そこは洞窟の中だった。 
「大丈夫!?」
 そして目の前には、必死の表情で頬に触れる愛する少女がいた。
『あ、あぁ……』
 体に滲むのは嫌な汗。体の中に響くのはうるさいほどに早い鼓動。
 悪夢を見ていたのだと、男は理解した。
「びっくりしたよ、苦しそうに唸って、叫ぶから」
 座り込み頬に触れてくる少女は、真っ直ぐに男を見つめていた。
『なんでもない。……久しぶりに、悪夢を見ただけだ』
「ガント……」
 牙を剥き、息を荒くする狼に、マリンはばっと両手を広げた。
『!?』
「怒らないでね。でも、こうすると、落ち着くと思うんだよ」
 マリンはガントをきつく抱きしめた。
 抱きつくなど、そんな甘えた事をすれば怒られるかもしれない。そう思いながらも、マ
リンは腕に力を込めた。
 だが、ガントは何も言わなかった。
 事実、ガントの鼓動は穏やかになっていっていたのだ。
「どんな姿になってもガントはガントだよ? ……うん。そうだよ。絶対そう」
 自分に言い聞かせるように、マリンはそう呟いた。
 その言葉はガントの心にも強く響く。
『もう……大丈夫だ』
 ガントはマリンから離れるとその身を震わせた。
『何時だ』
「丁度朝の六時。結構寝ちゃったね」
『そうか』
 ガントは転がっていた手甲を咥えると自分の肩にあてがった。
 手甲は主の意思に反応し、ぎゅんと姿を変えていく。
 人の手を守るための装備が姿を変え、狼の右手に変わる。 
 ガントは深紅の足を鳴らすとマリンに振り返った。
『行こう。かなり深くまで来たからな、カヒュラまであと少しの筈だ。一気にココを攻略
するぞ』
「うん、了解!」
 少女は立ち上がると、再び動き出せるように身支度を始めた。

(絶対に……その手を離したりはしない。失ってなるものか……っ!)

 ガントは両手に力を込め、床石を掴んだ。
 その紺色の瞳に宿るのは絶対の意思。
「いこう、ガント。カヒュラに会いに……!」
『あぁ』
 唯一無二の存在を目に写し、狼は奥へ伸びる通路へと足を踏み入れた。

 

 
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