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ヒュン、と刃が空気を裂き音を立てる。
「う〜ん、やっぱりうまくいかないなぁ、……ふんっ」
少女は下に落ちたナイフを拾い上げると、再び構え、腕を振り下ろした。
時刻は夜の十二時を回っていた。
日付が変わり、カヒュラの提示した期限までの残り日数はあと二日だ。
無数の星で眩しいはずの夜空は所々が雲に覆われ、月明かりも無く辺りはうす暗い。僅
かに山小屋から漏れる明かりが、うっすらと少女を照らしていた。
そんな冷たい風の吹く山小屋の裏手で、少女は何かを振り切るようにナイフを投げてい
た。
「……っ! あぁ、また駄目かぁ」
何度投げても上手くいかず、少女はむぅと口を尖らせる。
昼間の登山の影響で少女の体はぎりぎりと軋んでいたが、それでも諦めずに岩場に落ち
たナイフを拾い上げた。
「もう一回っ!」
今度こそ、と腕を回す。だが少女の投げたナイフは途中で勢いを失い、目標である五メ
ートル程先にある細く伸びた枯れ木を前にぽとりと落ちてしまった。
「ん〜、もう少しっぽいんだけどな」
とぼとぼと歩き、少女はナイフを拾い上げる。
もう三十分はこうしてナイフを投げ続けている。だが、一向に成功する気配がない。
そして、眠れそうにもなかった。
ふと雲が風に流され、やわらかい光が岩場を映し出す。<闇>の魔力を放つ夜の支配者
が顔を出したのだ。同時にごうと冷たい風が山上から降りてきて、少女の一つに纏められ
た黒い髪を一気に舞い上げた。
「……、もう直ぐ、満月なんだ」
頭上には、真円に近づく白く輝く月。
ふと上を見上げ、少女は眉を寄せた。
満ちていく月を見て思い出すのは、あの夜の戦い。
そして愛する男のことだった。
あの戦いから丁度一ヶ月。
だが、あの夜の戦いは昨日の事の様に思い出す事が出来た。
『何をしてるんだ? こんな夜遅くに』
後ろから聞こえてきた低い声に、少女は勢い良く振り返る。
背後の岩場に居たのは、夜光を受け圧倒的な存在感で佇む銀色の狼だった。
月明かりをそのまま集めたような銀色の毛並みを持つ、大きな狼。
だがその毛並みの所々から赤いものが滲んでいるのを見つけ、マリンは思わず声を上げ
た。
「ガント……! 血、怪我してるの!?」
『なんでもない。少し動いてきただけだ』
狼は、少女から目を逸らしてガウ、と小さく唸っただけだった。
カタカタと小さく音を立てる深紅の義手で岩場を踏みしめながら、ガントは山小屋に近
づきふるふると体を揺すった。
「少し、って……」
ガントが山小屋を出てからもう何時間もたっている。どう見ても『少し動いてきた』様
には見えないのだが、何事もなかった様にその場に伏せるガントを見てマリンはその先の
言葉を飲み込んだ。
ごうと、再び冷たい風が二人の間を駆け抜ける。
春になったとはいえ、未だ山を駆け下りる夜風は雪の冷たさをはらんだままだ。
マリンは山上を見つめたまま伏せるガントの隣に腰掛けると、少し時間を置いてから口
を開いた。
「あれからずっと帰ってこないから……、ご飯だってまだでしょ? 心配したんだよ?」
狼の紺色の瞳を見つめながら、マリンはその顔を覗き込んだ。
愛する男はその問いに答える事無く、山の上を見つめたままだった。月明かりに浮かぶ
山裾を紺色の瞳に写し、唯黙していた。だがその瞳には強い光が宿っていた。
決して揺らぐ事の無い、強い意思。
そのぶれる事のない意思の強さを、少女は良く知っていた。
だがそれ故に、少し心配にもなっていた。
少女が不安げな表情に変わったことに気づき、狼はすっと少女に顔を向けた。
『……お前に心配されるほど弱くは無いさ。それより、何故こんな夜中に外にいるんだ。
いくら結界のはってある圏内とはいえ、突然魔物が来たらどうするんだ。それに疲れてい
る筈だろうが』
「うん、疲れてる筈なんだけどね。ちょっと眠れなくて……、体を動かしたら寝れるかな
って思ってナイフの練習してたんだ」
『……眠れない?』
狼は手先にナイフを持つ少女の言葉に首を傾げた。
どちらかと言うとマリンは寝つきがいい方だ。ましてや昼間の疲れも考慮すれば、今頃
はとっくに夢の中でもおかしくは無い。
見ればマリンの表情は決して明るいものではない。それが気になり、狼は僅かに眉を寄
せた。
『……どうした、言ってみろ』
頭に直接響く、低く優しい声。
その声に、マリンの心臓がとくんと反応する。
ガントがガントである唯一の証拠とも言うべきその声は、優しく聞こえれば聞こえる程、
マリンの心を甘く揺らす。
甘えてはいけない、昼間の事を考えそう思いながらも、マリンは自分の気持ちをぽろぽ
ろと話し始めた。
「うん……。きっと……、ちょっと不安なんだと思う。さっきクロフォードに指導しても
らってたんだけどね。やっぱりこっから先は今までと違うんだなって、そう思って。上は
極端に植物が減るから、魔物も一度見つけた餌は何処までも追いかけてくるって。下みた
いに回避する事は難しい。戦わなきゃいけない」
月明かりに浮かぶナイフを見つめながら、マリンは言葉を続けた。
「上に行くの、初めてだから。魔法は使えないし使いたくない。自分が……カヒュラの元
まで……その力が通用するのか、とか……」
そう言って目を伏せるマリンを見て、狼はかふっと息を吐いた。
『俺はお前の実力を良く知っているつもりだ。……俺が鍛えた拳は上の魔物にも通用する
筈だ。自信を持て。迷いは力を奪う。何より……』
「何より……?」
『少しでも無理だと感じたなら、俺は何があったとしてもお前をこんな場所に連れて来た
りなどしない』
目の前の男の発した言葉に迷いはなかった。
その強い言葉が、揺れ動くマリンの心をがっちりと掴む。
「……ガント」
マリンはぐっと拳を握り締めた。
ガントが二年かけて『山で通用する武器』に仕上げてくれた拳は、女性の手にしては少
々傷の多い手だった。だが、マリンはこの手が嫌いではなかった。唯の力が強いだけだっ
た魔法使いの手、だが今はそこいらの戦士と同等、もしくはそれ以上の力があるのだ。
(大丈夫、カヒュラの元へ……必ず行くんだ)
ガントが『通用する』と言ってくれた。
『無理だと感じたらこんな場所に連れては来ない』という事は、無理ではないという事
だ。
ガントのその言葉は、揺らいでいたマリンの自信を取り戻すには十分なものだった。
「……はい!」
マリンの瞳に輝きが戻る。
それをみて狼はすっと目を細めた。
『解ったなら早く寝ろ。明日も早いんだ』
「うん。……ありがと、ガント。あふ……あれ、急に眠たくなってきちゃった」
安心からか、急に視界に靄がかかりマリンはごしごしと目をこする。
『行け。早く』
僅かに語気を強めるガントに、マリンはびくっとなり立ち上がった。
「は、はい、お休みなさい! ……ガントもちゃんと休んでね?」
所々に赤い物を滲ませた狼にマリンは心配そうに眉を寄せた。だが、狼が『解った』と
首を振ったのを確認すると、マリンはふらりと山小屋に入っていった。
瞬間、ガラン、と深紅の手甲が地面に転がり落ちる。
『……っは』
緊張の糸が切れたように目が虚ろになり、狼はその場に崩れる様に伏せた。
『……、あぶねぇ。全く』
僅かに呼吸を荒げる狼は、そのままがくりと目を伏せる。
ついさっきまで延々雪狼と組み合っていたのだ。慣れない体で山を駆け上がり、休む事
無く戦いに向かった。狼の体はマリン以上に疲弊している状態だった。
『こんなにだるいのは……戦場以来か』
がふっと息を吐き、落ちそうになる意識を必死で持ち上げる。そして、マリンが居なく
なるまでもった事にほっとする。
弱い姿など見せたくない。
それは男の意地だった。
狼の目の前に転がる紅い手甲は、月明かりを反射して鈍く光っていた。深紅のガントレ
ットを獣の手で引き寄せ、それを咥えゆらりと立ち上がる。
『絶対に、俺はマリンを守り抜く。体も取り戻す』
再び狼の瞳に強い光が宿る。
『俺は……、人間だ』
低く唸る様に、ガントは呟いた。
それは心の底から滲み出る様な、そんな言葉だった。 |