☆桃兎の小説コーナー☆
(08.08.25更新)

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 レスは日記でしております〜。


 ドラゴンマウンテン 第二部

  第一話  竜の提案

    2 揺れ始める心


     4

「おいガント、狼の体での山は……どうだ?」
 迷いの森に入って十分程たっただろうか。
 いつもとなんら変わらない薄暗い森の中を、マリン達はさほど速くは無い速度で進んで
いた。例えるなら冒険者を連れて歩く速度という所か。マリンが冬山明けの山入りという
事もあったが、ガントも狼の体での初登山となる事をクロフォードがちゃんと理解した上
での事だった。朝露で濡れた土の感触を確かめるように、ガントは時折止まりながら足を
進めていた。
『視界が低くて……慣れないな』
 元は身長一八六センチのガントだ。だが今の目線は一メートルを越えた程度の高さだ。
後ろ足で立ち上がればマリンと同じ位の視点になるものの、そういうわけにもいかない。
 いつもの見慣れた仕事場の筈が、視点が違うだけで知らない場所の様に感じられる。そ
んな違和感を修正しようと、必死で頭の中の景色と目に見える景色を統合していく。
「ガント、やっぱ変な感じ? そうだよね……、うーん、私もなんだか変な感じ」
 言葉少なに歩を進めるガントの後ろで、マリンも眉を寄せていた。
 いつもなら目の前にある筈の広くて大きな背中が、今は銀色の毛に覆われた狼の背中だ。
かなり大きなサイズ故に存在感はあるものの、見慣れた背中でないのが少し寂しく思え、
マリンは思わず目を伏せてしまう。ガントが歩く度に鳴る手甲の金属音も、マリンの奥を
なにかもやもやとした気分にさせた。
(なんだろう、なんだかヘンな気分……)
 山に入ってから、マリンの心は『いつも山に入る時』の様にすっきりとした気分ではな
かった。
 そのもやもやの原因は解らないが、ガントを見る度にその気持ちが強くなっていく様な
気がした。ふと思い返せば、この不安にも似た気持ちはガントが変えられてからずっと感
じていた気さえしてくる。不意に現れたその気持ちに、マリンは少し困惑していた。
『集中しろ、マリン。山を舐めると命を落すぞ』
「う、あ、はいっ!」
 直ぐ前を歩くガントの言葉に、マリンはびくりと背筋を正す。
(だめだめ、余分な事考えちゃ……。って、ガントにはすぐばれちゃうよなぁ)
 喝を入れるガントは、『いつもどおり』のガントだった。いや、むしろいつもよりも目
線が鋭い程だ。どこか張り詰めた雰囲気のガントに、マリンもごくりと喉を鳴らした。

 ガントは自らの腕と化した深紅の手甲を鳴らしながら、森を進んでいた。
 四足で歩くのは、もう大分慣れてきた。だが、一つ憂いている事があった。

 この体で、マリンを守り抜けるのか。

 焦りにも似た憂い。
 唯一その事だけが、ガントの緊張感を高めていた。
 マリンを守るための拳は獣の足でしかなく、岩をも砕いていた破壊力は今の獣の手には
無いのだ。この体で如何に魔物と戦うか、その事を一人シミュレーションしてきたが、そ
れは実戦ではなくあくまでも模擬戦闘に過ぎない。狼にされてからの戦闘は、あのスノー
ウルフを組み伏せた一回だけしかないのだ。
(戦闘面での不安は、これから解決するしかない……か)
 ガントは森の木陰に視線を走らせながら、ガントは低く唸った。

 ふと、視界の違和感が消えていく。
 頭の中の森の風景と実際に見える風景のずれを修正する事に、どうやら慣れてきた様だ
った。この対処の速さはレンジャー暦が長いお陰か、それとも勘が良いせいなのか。
 どちらにせよ、気にかけることが一つ減り、ガントは僅かに表情を緩めた。
 カシャリ、と手甲を鳴らすと、狼は小さく頷きマリンに振り返る。
『よし、大体感覚はつかめた。もう大丈夫だ』
「クロフォード、ガントがオッケーだって。私もオッケーだよ」
「よし、じゃスピード上げるぞ。昼までには森を抜けるぜ」
「了解!」
 マリンはぴしっと返事をすると、リュックを背負い直し先を行くクロフォードを追いか
けた。

 返事と同時にクロフォードは速度を上げた。『レンジャーの移動速度』に切り替え、一
行は森を縫うように進む。だがその速度は、マリンの知っている移動速度よりも速いもの
だった。
(まだ何とかついていける)
 マリンはそう思いながら、前を行く二人を必死で追いかける。
 前を行くクロフォードは、地面を埋め尽くす様に這う根をすいすいと越え、迷う事なく
道無き森を進んでいく。それを追いかけるマリンがふと何かに気づき、きょろきょろと辺
りを見回した。
(あ、いつものガントと行くルートと少し違うんだ)
 緑に覆われた濃い空気の中、マリンは周りの木々を見まわした。
 レンジャー達はそれぞれのルートを持っていて、一人一人森の進み方が違う。
 マリンが主に使っているルートは、少し体力が必要で魔物も出るが、最短で森を抜けれ
るというガントに教わったルートだ。だが今クロフォードが通っている道は、比較的足元
が安定した歩きやすいルートだった。レンジャー達が共通で使っている依頼人や冒険者を
つれて歩くルートともまた違うこの道は、マリンが初めて通るルートだった。
(これがクロフォードのルートかぁ。魔物もあまりでないし、体力を温存しつつ急ぐ時は
いいルートかも)
 周りを見回しながら、マリンはクロフォードがこのルートを選んだ理由をふと考える。 
 新しいルートを後輩である自分に教えてくれているのか、それとも……

「……って、うわわ?!」

 ふと気がつけば、白いマントと銀色の毛玉は鬱蒼とした木々の先だった。
 ほんの少し気持ちがあっちに行っている間に、先を行く二人は大分前に行っていたのだ。
「ちょ、早っ!? うわ……集中集中!」
 マリンは自分に渇を入れなおし、今後のペース配分を考えながらも慌てて二人を追いか
けるのだった。


 森に入って一時間。
 傍目には同じ風景の繰り返しに見えるこの迷いの森を、レンジャー達はどんどんと突き
進んでいた。先頭をクロフォード、その足元にガント、そして最後尾がマリンとその順番
は森に入った時から変わらないままだ。
「おー、マリンの奴、良くついてきてるな。ちゃんと訓練されてるじゃないか」
『当然だ』
 後ろを振り返るクロフォードの言葉に、ガントは目を細めて小さく笑った。
「お前もその姿の割には速いよな、いや速さだけならこっちの方が速いか? ……、と猪
だ」
 がさりと木の葉が揺れる。瞬間、クロフォードの鋭い視線が遥か前方の木陰に居る猪を
捕らえ、即座にぴっと何かを放った。流れるような、ほんの数秒の早業だった。
 少しして、前方に居た猪がぷぎぃと鳴きその場にどさりと転がる。
「! クロフォード、今何したの?」
 追いついたマリンが遥か先で倒れた猪に気づき、何事も無かったかの様に進んでいくク
ロフォードの横に並んだ。
 クロフォードは「ん?」と横のマリンに目線を移すと、ほんの少しの間の後で不意に立
ち止まりふっと笑う。
「あぁ? 今のはコレだ」
 クロフォードは腰の辺りにある革のポーチを開けると、その中から素早く何かを取り出
した。ひゅんと空気を裂く音と、きらりと光る何かに、思わずマリンは一歩飛びのく。
「……ん、それ、ナイフ……?」
 クロフォードが手にしていたのは、美しく磨かれた細身のナイフだった。
 クロフォードは掌ほどの長さの細いナイフを、手馴れた様子でクルクルと遊んで見せる。
「お、おおう……」
 クロフォードの見事なナイフ捌きに、マリンは口をぽかんと開けて見入ってしまってい
た。何をしてもいちいち絵になるのがクロフォードだ。一見ただの細い頼りなさそうなナ
イフなのに、クロフォードが持つだけで一撃必殺の暗器に見えてしまうのが不思議だ。
「こいつには毒が仕込んであるんだ。急いでる時に雑魚相手の戦闘は面倒だろ?」
「うん、確かに」
 今まで敵が出てくれば吹っ飛ばしていたマリンは、それもそうだとこくんと頷く。
「でも、クロフォードがナイフ使うなんて、私初めて聞いたよ?」
「そりゃそうだ。誰にも言って無いし、見せた事も無いからな」
「そかー。……って、えぇ!?」
 さりげなく凄い物を見てしまった様な気がして、マリンは目を剥いて驚いた。
 当の本人は気にした様子も無く、倒れた猪に近づいてナイフを回収すると、すっとポー
チにナイフを戻し再び森を進みだした。倒れている猪を見ると、丁度ナイフは猪の眉間辺
りに突き刺さっていた様だった。見事な投擲に、マリンはごくりと喉を鳴らす。
『確かに俺も知らなかったが。なるほどな』
 ガントはふむと頷き、麻痺して転がる猪をジャンプして越える。びくびくと痺れる猪は
白目を剥いたまま動く気配が無い。マリンはナイフに塗ってある毒が一体なんなのか想像
しながらも、クロフォードに問いかけた。
「ね、いいの? 私にそんなの見せちゃっても……!」
 誰にも見せていないという事は、それは本人がとっておきの技だと考えているからだ。
レンジャー達は仲間同士の結束が強いとはいえ、それぞれの手の内を全て知り合っている
訳ではない。手の内を明かすという事は、それだけ相手を信頼しているという事の証でも
ある。
 そんなことを考えているせいか少し興奮気味なマリンを見て、クロフォードはぷっと噴
き出した。
「構うかよ。マリン程度じゃ商売敵にもならねぇよ。他の連中に知られたら多少嫌だが、
マリン程度じゃ別に気にならないね。あ、そこの狼は見た事忘れろ。真似すんなよ?」
『そんな事、真似出来るほど器用じゃない』
 狼はぷいっと顔を背け、がるると唸る。
 ガントは元々不器用なのだ。だからこそ、その拳、体自体が武器なのだ。
 唸るガントに苦笑しながら、ふとマリンは眉を寄せた。
「……ちょっとまって。なんか私、すっごいしょぼく見られてる?」
 さっきのクロフォードの言動からすると、マリンは足元にも及ばないと見られている事
になる。自分がレベルが低いのはわかってはいるが、そんな風に言われると流石に悔しく
て、マリンはぷぅと頬を膨らませた。
「お、自分でもしょぼいと解ってるのか」
「うっわ! ひっどい!」
 顔を真っ赤にして拳を振り回すマリンに、ガントが目を細めて小さく笑う。
 憤慨するマリンを見ながら、クロフォードはフフンと金色の髪をかき上げた。
「冬山を自力で往復できない奴は、『唯のレンジャー』だ」
「……じゃあ、クロフォードは何なの?」
 その問いを待っていたかのように、クロフォードは途端に良い顔になってキラリと目を
光らせる。
「俺様は『素晴らしいレンジャー』だ。ちなみにあいつは『優秀なレンジャー』だ」
『そりゃどうも』
 指差された狼は小さく答え、鼻を鳴らした。もちろんこのガントの言葉は、クロフォー
ドには唯の獣の唸り声にしか聞こえていない。だが、その言葉を理解するマリンは二人の
やりとりが面白くてぷっと吹き出してしまう。
 が、直ぐに『唯のレンジャー』だと言われた事を思い出し、再び頬を膨らませた。
「……うー、解ってはいるけどなんか悔しい」
 膨れ面のまま木と木の間をすり抜けるマリンに、先を行くクロフォードがふっと笑い不
意に足を止めた。それに合わせてマリンも足を止める。
「なら、コレ、やってみるか? マリン」
「ん、え?」
 クロフォードはすばやくナイフを取り出すと、マリンに向かってぴっと差し出した。
「え、やってみないかって、まさかナイフを?!」
「気をつけて持てよ、人間がこの毒に触れれば三日は動けないぜ」
 クロフォードはにやりと口の端を上げて目を細める。
「うわ、そんなの仕込んでるの!? 毒怖いって!」
 マリンはおっかなびっくりナイフを受け取ると、それをじっと見つめた。
 かなり使い込まれた印象を受けるそのナイフは、まるで柳の枝のように細く軽くて、ど
こか柔らかいイメージがあった。
「投げ方はそうだな、思いっきり切り裂く感覚で腕を回して自分の目の辺りまで行ったら
放すんだ。腕自体はそのまま回しきれ」
「う、うん」
 マリンはクロフォードのふりを真似するように腕を回すと、眼前に来たタイミングでナ
イフを放す。
「ふん!」
 ひゅん! という空気を裂く音に、マリンの目が「やった!」と輝く。
 だが、放たれたナイフは数メートル飛んだ所で、ぽてっと地面に落ちてしまった。
「うわ、あっさりと……木にも刺さんないで落ちちゃった」
 最初から出来るとは思ってはいなかったが、なさけない結末に思わずしょげてしまう。
「いや、最初はそんなもんだろう。ちゃんと覚えればいろいろ便利だぜ? ……ワンセッ
トやるよ。練習してみたらいいんじゃねぇか? それにこの山には色々居るからな。いろ
いろ、な」
 クロフォードはあたりの気配を探りながら、バックパックの中から予備のナイフを出し、
その革のポーチをぽんとマリンの手のひらに載せた。白い硬革で出来たポーチはどこか可
愛らしい感じの物だった。
 マリンが白いポーチを空けて中を見ると、丁度ナイフが十本入っている。どうやら未使
用のものらしく、先ほどのナイフよりも綺麗だ。
 スラリと細い綺麗なナイフを片手に、マリンは慌ててクロフォードに向き直った。
「え……、ええええ!? くれるの? これ高そうだよ!」
 焦るマリンに対して、ナンバーワンレンジャーは余裕の表情だった。そんな事は少しも
気にしてないのか、笑みを浮かべたままマリンの投げたナイフを拾い上げると、それを素
早くポーチに放り込んだ。
「気にするな。町のレディ達へのプレゼントよりはよっぽど安上がりだ。それに俺様にと
って、そんな物は高くも無い唯の消耗品だ。あぁそうそう、それには毒は仕込んでいない
から、さっきと同じような効力は期待するなよ? あとコレは投擲用のナイフだからな、
普通のナイフと同じ使い方はするな」
「でも! えと……! うぅ、うん、ありがとう、クロフォード」
 再び森を進みだすクロフォードに、マリンは慌ててその後を追いかける。
 少し照れるマリンの声を聞いて、クロフォードの後姿が満足げに揺れた。
「さて、ちゃんとついて来いよ? 今止まった分、もう少し速度を上げるぞ」
「え!? ちょ! 鬼だ!」
 マリンは魔石のポーチの横にナイフのポーチをさげると、急いでクロフォードを追いか
けた。

『……』
 先に追いついてきたガントを見て、クロフォードがフフンと笑う。
「自分が何もしてやれなくて悔しいか」
『……別に』
「ならさっさと戻れるように努力しろよ? フム、ああいう素直なタイプも面白いよな」
『黙れ、この女好きが』
「おぉ怖い。唸るなよ。アブねぇ、狼に食い殺されるぜ」
 クロフォードは軽口を良いながら、また少し歩く速度を早くする。
 どこか機嫌よさそうにすいすいと進んでいく男を見て、マリンはふるふると首を振った。
「ちょ、クロフォード! うわあああ! それもう走ってる速さだってば!!」
 一合目の目印が目の端を過ぎていく。
 ついて行くのに精一杯になっていたマリンは、もう既に涙目だった。


     5

「おー、良くついてこられたな! 褒めてあげよう」
 岩だらけの山肌に立つ五合目の山小屋の前で、澄んだ声が響く。
「クロ……ふぉど……」
 ようやく目的地に着いたという安心感と疲労からその場にへたれこんだマリンが顔を上
げると、夕焼けに染まった岩の斜面でクロフォードがマントをはためかせていた。
 その光景は見事なまでにキまっていて、町に居る彼のファン達がそれを目撃したならば
「クロ様〜!」と黄色い声が飛んだにちがいなかったが、マリンとってはそんな事はどう
でもいい事だった。
『マリン』
 ガントがマリンの傍に駆け寄ると、マリンの疲れた顔が自然と緩んでいった。狼とはい
え、頭に響く低い声は人の時と変わらない。それはいつだってマリンを心をほっとさせる
のだった。
「ガント……、えへへ、なんとか予定通り、だよ」
 マリンは肩で息をしながら拳を差し出すと、それに重ねるようにガントは手を合わせた。
 
 迷いの森を抜け二合目の山小屋で一休みした後は、三合目の草原をほぼ全力で駆け抜け、
四合目の岩場では魔物との戦いを回避しながら、速度は落さず進んでいったのだ。マリン
はレンジャーになってから鍛えたられた脚力で必死についていったが、それでもかなりキ
ツいものだった。
「ひう、はう……、何とか、大丈夫、かな」
 本当は何とかというレベルではないのだが、マリンはひらひらと手を振った。こんな所
で音を上げる訳にはいかないのだ。
 ひゅう、と山から吹き降ろしてくる風がマリンの長い黒髪を舞い上げる。
 僅かに冷たい早春の風が心地良くて、少女は大きく深呼吸をした。
「この調子なら三日後までにカヒュラの元に辿り着けるかもな。さて、山小屋に入るぞ。
ココから上は行った事無いんだろう? しっかり休まないと、キツイぜ?」
「上、か……」
 ココから先の五合目より上は、マリンにとっては未知の領域だ。
 この山が好きなマリンにとって、知らない場所を行くのは、不安と楽しみな気分と半々
で、ガントと二人で研修に来てた時にはよく「興奮しすぎだ」と叱られていたりしたもの
だ。だが、今回はいつもと状況が違うのでそう明るい気分にもなれなかった。
「こんなに急いでなきゃ、楽しい道中なのになぁ、おぉぅ……」
 マリンはよろりと立ち上がると、夕焼けに染まる山小屋へと入っていった。


 マリンにとって、五合目の山小屋は初めて来る場所だった。
 五合目の山小屋を使うのは、五合目以上の場所に用がある腕の立つ冒険者や難易度の高
い依頼を受けたレンジャーくらいだ。マリンはこの付近までは来たことはあっても、ここ
で一晩過ごさなければならない様な依頼を引き受けたことは無いのだ。
 ドラゴンを仕留めに行く、希少な鉱石を探しに行くなど、そういう難度の高い依頼を引
き受けるのは、ガントやクロフォード、そしてマクスやハーベスト夫妻とレンジャーの中
でも上位の力を持っている者に限られる。ドラゴンマウンテンの山頂付近は、それ程に険
しいのだ。

 五合目の山小屋は、二合目の山小屋を一回り小さくした感じの建物だった。中の構造は
二合目の山小屋とあまり大差なく、見た感じは二合目のそれより若干綺麗な印象だ。
「中、結構きれいだね」
「まぁ、頻繁に人が訪れる場所じゃないからな」
 マリンは荷物を置くと、手早く暖炉に火を入れる。春とはいえ、山の夜は冷えるのだ。
「ガントもお疲れ様」
『おう。お前も頑張ったな』
 そう言うガントの視線は、マリンではなく窓の外に注がれていた。山を進んでいた時と
変わらぬ鋭い視線のままのガントに、マリンの胸の奥がきゅんと苦しくなる。
(なんだろ、この気持ち……)
 迷いの森の中で感じたものと同じ、正体のわからない思い。
 ガントが背負う荷物を解くと、マリンはそのまま手を止めた。
「っ!」
 ビクリと、マリンの手が震える。
(……いや、これ……っ!?)
 不意に頭によぎったのは、あの満月の晩の出来事だった。

 月夜の晩に降り立った、青白い悪魔。
 体から血を流しながら、マリンの前に立つガント。
 自分に降りかかる、愛する人の生暖かい血の感触。
 右腕を落とされ、声を殺し震えるガント。
 月の石の魔力で、狼の血が全面に来て完全なワーウルフに変わっていくガント。
 悪魔の手に生まれる黒い呪詛。
 
 そして……

「――っ!!」

 気がつけば、マリンはガントに抱きついていた。
 荒々しい銀色の獣の体を抱きしめ、マリンの体は僅かに震えていた。
『!?』
 何事かとガントは驚き、くるりとマリンに振り返った。
 息を止めしがみつく少女に、狼は表情を曇らせる。
 だが次の瞬間、狼は首元に抱きつくマリンに低く「ぐるる」と唸ったのだった。
『マリン』
 マリンの頭に響く、厳しく、そしてどこか寂しげな声。
 その声にはっとなり、マリンは慌てて手を離した。
「あ、ごめんなさいっ! つい…。うぅ、クロフォードも居るのに……」
 ガントの言わんとする事を理解したマリンは、慌てて少し距離を置いた。

 ガントはたとえ二人きりの時でも、そこが山であるならば『甘えは命取りだ』と厳しい。
それは二人の間にあった暗黙のルールだった。お互いの距離が縮んでいった時も、よほど
のことが無い限りそれは変わらず、その厳しさは彼の愛情の一つでもあった。
 いくら無意識でやってしまったとはいえ、自分の甘えた気分が許せなくてマリンは目を
伏せた。

「ご、ごめん……なさい」
 俯くマリンを横目に、床に腰掛けていたクロフォードが口を開いた。
「そうだマリン。今日は客用のベッドで休め」
「え!? だめだよ、あれはレンジャーが使っちゃ……」
「今日は俺様達以外は誰も居ない。それに、明日はちょっと無茶してでも先に進むからな。
その為にはお前の体調が完璧な状態じゃないとだめなのさ。解るか?」
「う、うん……」
「解ったら、荷物を持っていって来い? ココから上は初めてなんだろ? 今日の休養っ
ぷりが大事なんだよ」
「うん、解った。……じゃ、ベッド使わせてもらうね」
 マリンは荷物を持つと、よろりと立ち上がって足早に奥へと向かっていった。
 ふと振り返ると、ガントは相変わらず外を凝視したままだった。 
(あう……、嫌われちゃった……かな)
 そっと首の革紐にかかった指輪を握り締め、マリンは小部屋の扉にこつんとおでこをあ
てる。愛を誓い合った婚約指輪に流れる暖かい魔力。それは間違いなく『マリンを守る』
というガントの思いの証だった。
(違う、私の事大事だから、ああやって怒ったんだ。嫌いになった……なんて。やだやだ、
なんでこんな弱気なの……?)
 久しぶりの山を全力で登って疲れたせいなのかもしれない。
 マリンはベッドがあるだけの小さな個室に入り窓際に荷物を下ろすと、窓を開けて外を
眺めた。
 空は赤から闇色へ変わろうとしていた。沈みかかった太陽が鈍い赤光を放ちながら、一
日の終わりを告げる。
 部屋に舞い込む山風に髪を躍らせながら、少女はふるふると首を振った。 
(だめだめ、こんなんじゃ。もう、自分のバカっ)
 マリンはベッドに倒れこむと、そのまま布団に顔を埋め深く息を吐いた。
 

「おう、ガント」
 マリンが居なくなった部屋で、クロフォードは小さく声を掛けた。
 暖炉の火が燃える音と一緒に聞こえてきた呼びかけに、ガントが顔を上げる。
「マリンのやつ、結構キてんじゃえねぇのか? あれは」
 意思の疎通は出来ないのだが、クロフォードはかまわずガントに話しかける。ショルダ
ーアーマーと白いマントを外すと、クロフォードは暖炉の前に座り呟いた。
 
『……あぁ、そうだな』
 ガントはクロフォードに答えるように頷くと、すっと目を伏せた。
「別に仕事って訳じゃねぇんだし、移動中でもないんだから多少いちゃついても今更だぜ?
まぁ、普段仕事場にしているこの山だからこそ気を抜きたくない、っていうお前の気持ち
も分からんでも無いし、それにお前のクソ真面目は今に始まったことじゃないからな。お
前がそれだけマリンを信用しているってことも、理解できる。けどな?」
『……』
 黙りこむガントに、クロフォードはやれやれと首を振った。
「マリンの話によると、カヒュラに会った後、あの大魔導師を探しに行くんだろ? あの
魔導師なら呪いを解く方法を知ってるかもしれない、とな。まぁ、カヒュラがどんな用事
でお前達を呼びつけたかは知らんが、俺様が居なくなったら、お前達は二人きりだ。マリ
ンを強くするも弱くするも、お前次第だぜ? ガント」
『解っているさ』
 狼は返事をするように首を縦に動かした。
「世の中にゃ、ほっていても逞しく生きる女もたくさん居るが、マリンは違うね。あいつ
も弱くは無いが、その強さの根幹はおそらくお前だ。あいつは仕事中や山に居るときに甘
えるような馬鹿じゃない、それくらいは解るさ。だけどな、そんなあいつがああなんだ。
……、まぁ、俺様にはどうでもいい事だけどな?」
 クロフォードの言葉に、ガントは目を細めた。

 ガントは解っていた。
 マリンが自分のことを色々気遣ってくれている事も、色々動揺しているという事も。
 だが、この体では抱きしめてやる事すら出来ないのだ。
 窓の外に再び目線を向けて一歩踏み出すと、ガントの右腕がガシャリと鳴った。
 ガントの金属の腕は、外れる寸前だった。集中力が切れれば、ガントの腕はたちまち唯
の手甲に戻ってしまう。
 今日一日山を歩き、一つ解った事があった。それは、ガントレットを装着した状態での
移動が予想以上にきついという事だった。
 ほとんど無意識で動かせるようになったとはいえ、精神的疲労は徐々に積み重なり、四
合目に差し掛かった辺りでは、周りを見る余裕がなくなる程だったのだ。
 今日は魔物を避けて戦闘は回避できた。
(だが、明日は?)
 戦闘に入れば、さらに考える事は増える。
 このパーティーで戦闘が始まれば、クロフォードが先頭に立って戦う形になるだろう。
そうなれば、ガントは不慣れなマリンのフォローにまわりつつ応戦する事になる。
 森の中で考えていた事を再び思い出し、ガントは目線を鋭くした。 

「いきなり七合目までってのは荷が重いかもしれんが、まぁ、これもマリンの運命さ。で、
お前がやるのか? 指導予習は」
 備え付けのクッションに腰掛けたクロフォードが問いかけると、ガントは「グルル」と
首を横に振った。
「俺様でいいんだな。なら基本だけ教えておく。後は元に戻ってからちゃんとお前が仕込
めよ」
『頼む』
 ガントは「ガウ」と短く返事をするとそのまま入り口の方へと歩いていく。 
「ん、お前は別の用事か? ……まぁ、気をつけて行ってこいよ」
「ガウ」
 ガントは手甲をがしゃりと鳴らすと、そのまま外へと出て行った。
「……、さて、こちらはこちらの仕事をするかな。マリン! 指導予習するぞ!」
 クロフォードの呼びかけに、奥の部屋に居たマリンが「はい!」と返事をする。
「指導予習か……。誰かに教えるのは何年ぶりだ?」
 後輩のレンジャーが新しいエリアに入る際の注意事項を、先輩のレンジャーが前もって
教える事をレンジャー達は指導予習と呼んでいる。本来なら師匠であるガントがすべき事
だが、今回は少し別だ。
「ふむ、教えてもらったのも大分前だよな」
 クロフォード自身がが五合目以上の指導予習を受けたのはもう八年も前になる。
 当時のクロフォードの師匠だった人は教える事自体が下手で、何を言っているのか解ら
ず四苦八苦した事をふと思い出す。
「マリンにはちゃんと伝えないとまずいよな。練習で登るのとは訳が違う」
 クロフォードはバックパックから地図と手帳を取り出すと、ふと目線を外にやった。
 深い闇のグラデーションが空を包み、外は夜の世界になろうとしていた。

 


     6

 外は日が落ち、空には星が顔を出しはじめていた。
 雲の隙間からまぶしく輝く月が顔を出し、岩場に佇む銀色の狼を浮かび上がらせている。
 真円に近づく月の光を浴びながら、狼は岩場の影に目線を飛ばした。
 岩場の影にある、複数の鋭い視線。僅かに漂う冷気に、ガントは低く唸った。
『……居るんだろう? 森からずっと付いて来ていたのは知っている』
 低い声に誘われるように、岩陰から三頭の獣が顔を姿を見せた。
 水色の透き通る毛並み、普通の狼よりもひとまわり大きな体。
 それは一昨日麓に降りて来ていた雪狼、スノーウルフ達だった。
『気づかれているのは解っていた。あの少女だけは気づいていないようだったが』
 雪狼の中でも一番大きな体のリーダー格の狼グラースが、一歩前に出てぼそりと話す。
『あいつはいつもあんなモンだ。で、何故後をつける?』
 後ろで姿勢を低くして辺りをうかがっている二匹を横目に、ガントはグラースを見下ろ
す。グラースは口から冷気を漏らすと、少し考えてから口を開いた。
『カヒュラからは伝言を指示されただけだ。俺達は戻る道すがら、ついでに見守っている
だけだ』
『見守っている、か』
『一応、カヒュラからは俺が気に入ったのなら護ってやれとは言われている。それ以上に
お前に負けてしまったからな。お前が何か命を下すならそれに従うが』
 グラースは一騎打ちでガントが勝った、つまりはガントが群れの長の上だ、と、そう考
えているようだった。ガントと共に歩むマリン対しても、同様に思っているようだった。
『狼の世界はわかりやすいな。野生はこんなもんなのか』
『人間は違うのか? 一緒だろう。戦争だの俺達を倒すだのと力を誇示しあうだろう』
『そうかもしれない……な』
 ガントは目を伏せてぐるる、と唸る。
『グラース、頼みがある』
『なんだ?』
『少し体を動かしたい。ココから上は戦闘が増える。マリン相手にこの姿じゃ稽古はでき
ないからな』
『何故だ?』
 グラースはわからないと言うように、首を傾ける。
『愛するものに牙も爪も向ける訳にはいかんだろ。というより、この姿では手加減ができ
ん』
『じゃれて軽くかんだり位はしないのか? するだろう?』
『人間の肌はお前らみたいに丈夫じゃない』
『……たしかに。直ぐに裂けるな』
 妙に納得したようにグラースは頷く。
『それに、この体での戦い方を完全に理解した訳じゃないからな』
『解った。とりあえず『喧嘩』すればいいんだな?』
『そういう事だな』
 魔物とはいえ、知能の高いものは、こうして意思の疎通が出来ればなにも怖い存在では
ないな、とガントは小さく笑った。一部のドラゴンだってそうだ。
 そして自分も、半分は魔物だ。今の姿は完全に獣だ。
 どこか可笑しくて、ガントはぐるぐると喉を鳴らした。
『さて、少し付き合ってもらうぞ。稽古が出来ないのは結構なストレスなんだ』
 そう言うとガントは小屋から少し離れた場所にある比較的平坦な岩場に向かって走りだ
した。
『お前達はその場で待機だ。俺だけが行く』
 グラースは仲間に告げると、ガントを追いかけた。
 
(コレで少しは俺の気も晴れるといいがな)
 自由に動けない事もストレスだったが、マリンの傍に居ながらいつものように力になれ
ない事も結構な負担になっていた。他にもいくつかストレスの要因があったが、そんな事
を気にしても解決するわけではなかった。
 焦りにも似たこの気持ちを打ち消したくて、ガントは大地を蹴った。

 総ては元に戻れば解決する事――。

 その為にも、ガントはこの姿であってもマリンを守れるだけの力が必要だった。
 狼としての戦い方が必要だった。
『行くぞ!』
 ガントは地面を掴み、大きく一声吼えた。


「お、来たか。まぁ座れよ」 
 クロフォードが顔を上げると、マリンが丁度こっちの部屋に入ってきた所だった。
 クロフォードに呼ばれてやってきたマリンの片手には、小さな本――レンジャーレクス
・通称レクスと呼ばれるレンジャー全員が共通して持つ本、と、ペンがあった。
「よろしくお願いします、先生!」
 ぴしっと敬礼してみせるマリンに、クロフォードはふふんと小さく笑った。
「さて、今日の予習はガントに代わって俺様がする。ありがたく思え」
「実際すっごい貴重だよ。クロフォードが予習してる所なんて見たこと無いもん」
「そうかもな。じゃ、まず山の地形からだな」
 クロフォードは地図を足元に広げ、山の中腹をすっと指差した。
 地図は上から見たチークと山の周辺の地図だった。
 ドラゴンマウンテンはチークの方角から見れば綺麗な三角形に見えるが、上から見た図
だと北西側が大きく削れて三日月にも似た形に見える。その後ろは未踏の地『連なる山々』
があり、地図はそこで途切れているのだった。
「ココが今居る山小屋だ。ココまでの道は、知っての通り岩だらけの結構めんどくさい山
道だ。で、ココから上が所謂上級者の世界。本格的にめんどくさい山道だ」
 どこか砕けたその教え方に、マリンはぷふっとふきだす。
「笑ってる場合じゃないからな。山の傾斜は四合目と対して変わらんが、何が面倒かと言
うと、魔物の数が圧倒的に多いことだ。ココから上は小型のドラゴンも出てくる。代表的
なのはマウンテンドラゴンだな」
「知ってる! マウンテンドラゴンって、あの緑色の如何にもなドラゴン、でしょ?」
「よく勉強してるな。そう、アレだ」 
 クロフォードは自分のレンジャーレクスを開き、その一ページを指し示した。
 そこには、緑の皮膚、頭には二本の角、蝙蝠の様な翼を持つ竜の挿絵が描かれていた。
「えっと、体長一〜三メートル、山の中腹に棲むこの山で最も代表的な種のドラゴン、分
類はミドルドラゴン、だね」
 マリンは自分のレンジャーレクスを開き、同じページにある挿絵の下の文章を読んだ。
「その通りだ。で、これは書いていない事だが、竜ってのはある程度頭の良い種類になっ
てくると会話が出来なくても意思の疎通が可能になる。所謂中級のドラゴン、ミドルドラ
ゴンと分類されるのがそれにあたるな。」
 ドラゴンは、強さではなく知能で分類されていて、ロウ・ミドル・ハイと三段階に分か
れている。飛竜種のワイバーンは強さとしては上の方だが、その知能からロウドラゴンと
分類される。それに対して、人語を解し、魔法を操るドラゴンはハイドラゴンと呼ばれる。
カヒュラはドラゴンの中でも別格だが、分類上はハイドラゴンに含まれるのだ。
「彼ら、ミドルドラゴンは俺様達がレンジャーである場合、素通りさせてもくれる場合も
ある。レンジャーは無駄な殺しはしないって事を彼らは知っているんだ。そして、本来は
竜の守る立場だという事もな。つまり戦闘は回避できるって事だ、ただし」
「ただし?」
「縄張りに侵入した時や子育ての時期なんかは、容赦なく攻撃してくる。あぁ、機嫌が悪
い時も容赦ねぇな」
「ド、ドラゴンと戦闘……」
 マリンはワイバーンとの戦闘やドラゴンフェスティバルの時のゾーインとの戦いを思い
出し、ぶるると身ぶるいした。
 ドラゴンという生き物は本当に強い。
 現在の生態系の頂点ともいえるその存在は伊達ではないのだ。
「まぁ、心配するな。いくらこのドラゴンマウンテンに竜が多いとはいえ、そんなに頻繁
に居るもんじゃない。それよりも気をつけなければいけないのは、冒険者達が雑魚と呼ぶ
魔物達だからな」
「雑魚?」
 首を傾げるマリンに、クロフォードがふふんと笑う。
「あいつら冒険者はドラゴンメインの頭だから、それ以外の魔物を雑魚とよぶんだろうが、
それは大きな間違いだ。ここから上に居る雑魚って呼ばれる魔物のレベルは、下のマッド
ボアと同等かそれ以上の力を持っている。つまり、お前ら下位のレンジャーが必死に戦っ
てた魔物が、ここじゃ普通って事だ」
「……マジで? 全然雑魚じゃないじゃん」
 マリンの顔が、引きつった笑いのまま固まる。
「上部にしか出ない魔物でよく見かけるのは、このケルウスだ。見た目はでかい鹿だが、
雄の角に跳ね上げられたらお前なら死ねるぜ? 角のダメージもそうだが、落ちた時がヤ
バイ。山の斜面で突き落とされたら、ちゃんと着地できなきゃ骨の一本や二本じゃすまな
いぜ。これでよく冒険者が死にかけて、レンジャーに背負われて下山するって訳だ」
「……、重症の冒険者を背負って降りてくるレンジャーを見るたびに謎だったけど、コレ
が原因ですか」
 レクスに描かれたケルウスは、枝分かれした大きな角を持つ優雅な鹿だ。
 体色は三色あると書かれており、茶が通常、他に黒や白も居ると書いてある。
 見た感じは美しくおとなしそうなイメージだが、所詮は魔物だということか。
「あぁそうそう、普通に落石にぶつかるって場合や、滑り落ちて重症ってパターンもある
からな」
「りょ、了解」
 マリンは予想外に厳しい上の様子に、最早引きつった笑いしか出なかった。
(どおりでガントとか凄いはずだよ。こんなところで普段仕事してるなんて……)
 化け物だ。と、ふとそんな単語が頭をよぎる。
「あと一つ、問題がある。お前ならではの問題だ」
「私……ならでは?」
 マリンは首を傾げ、クロフォードの目を見る。
 相変わらず澄んだ水色の瞳が、何処か真剣な雰囲気に変わる。

「よく聴け。五合目の中腹から若干黒い岩が目立つ様になる。それは六合目の途中まで続
く。岩の名前はレスピアシオン」

「レスピア……それって呼吸って意味だよね、なんだっけ聞いた事あるな」
 マリンは腰元の魔石の入っているポーチから小さな本を取り出した。それは赤い表紙の
辞書のような本だった。金色の箔押しのしてあるその本を開き、マリンは真剣な顔でペー
ジをめくる。
「なんだ、その本は。全部手書きじゃないか。それに……俺様が読めないってことは、魔
法言語か?」
 興味深そうに覗き込むクロフォードに、マリンがこくんと頷く。
「うん、これは私が自分で作った魔法用の辞書なの。学校にいる時に普通の辞書じゃ役に
立たなくって、自分で作ったの。魔法文字で書いて秘密を守りつつ、必要な知識だけを記
して携帯用にした便利な代物。ページによっては魔法をかけてあってね、いろいろ仕掛け
もしてあるんだよ。いいでしょ」
「……すげぇな。なんだよそりゃ」
 軽く驚くクロフォードを横に見ながら、マリンは後半の赤いマーキングのしてあるペー
ジで手を止めた。
「あった、レスピアシオン。赤のマーキング、魔法道具の項目にあるってことは、練成の
時に見たのかな。で、何だっけ……ってうわぁ!?」
 マリンはそれを見て、思わず声を上げた。
「ちょ! コレがあるって事は、魔法使い無力化って事じゃない!! この岩は魔法の発動
で生まれた魔力を吸い込む、つまりは魔法を打ち消すんだよ! 嘘! マジで!?」
 目を見開いて驚くマリンに、クロフォードも驚いてみせる。
「説明する前に一人で勝手に理解した魔法使いはお前が初めてだマリン。お前、本当に魔
法に関する知識は凄いんだな」
「そんな場合じゃないよ! コレって、拳のみでしか戦えないって事だよ、うそ、どうし
よ……。魔法が使えない区域があるって聞いてたけど、その原因がこれでしかもそんな広
範囲だなんて……」
  マリンはその腕っ節のせいで町の人たちから戦士と間違えられがちだが、れっきとした
魔法使いだ。しかもその魔法の腕は、フルで使えば吸血鬼すら倒してしまう程だ。マリン
は自分の魔法の腕を過信していたわけじゃないが、それがあるからこそ、山の上に行って
もなんとかなると思っていたのだ。精霊の事が頭にあるので魔法を使うつもりはもとより
無いのだが、この事実は今後の仕事に関わるので無視は出来ない事だった。
「あともう一つ厄介なのは、あの岩が壊れやすいって事だ。普通の衝撃なら割れて砕け散
るだけだが、強い衝撃なら……」
「吸って蓄えてる魔力分の爆発を引き起こす、でしょ」
「ご名答。その通りだ」
 マリンはふるふると首を振り、涙目になる。
「あの岩さ、マジックアイテムにする時結構有益な鉱物なのよ。でも、扱いが難しすぎて
私だって扱えるか解らない程で、はっきり言って魔法使いからしたら、敵以外の何者でも
ないんだよ……」
「そこまで解ってるなら話は早いな。つまり、あの一帯を抜けるまでは……」
「私、足手まとい……かな」
 しゅんとするマリンに、クロフォードはぷっと笑った。
「それはないね」
「え……」
 クロフォードは即それを否定した。
 マリンが顔を上げると、そこには何処が機嫌よさそうに笑う男の顔があった。
「明日からはペースは落として進む。ここからカヒュラの洞窟までの距離は、解りやすく
言えば麓から二合目の中腹位と同じ距離だ。それを一日かけて進む。お前はにはあいつに
鍛えられた足がある。その足は今日のバカみたいなペースについてこれた足だ。一番困る
のは足が弱い事なんだよ。上では休憩なんぞしてたら魔物が直ぐに狙いに来る。一定の安
全な場所意外は全てが危険だと思って間違いない。俺様は、お前が戦えなかろうがその足
がある限りはそんな風には思わないね」
「つまり、回避に専念しろって事?」
「そうなるな。まぁ、地形に慣れたら一発殴ってみればいいさ。あいつに鍛えられた拳だ。
結構通用するとは思うぜ?」
「う、うん」
 マリンはガントを思い出し、すっと目を細めた。
「あ、そういやガントは? 何処行ったの?」
 ふと気がついて、マリンはきょろきょろと見回す。
「あぁ、あいつはあいつなりに一杯一杯なんだろうよ。今のお前となんらかわんねぇな」
「そ、そう……なの?」
「っていうか、お前もそうだ。何を溜め込んでるんだ?」
 不意に真剣になったアイスブルーの瞳に、マリンはビクリとなる。
 クロフォードの目は澄んでいてお世辞抜きで綺麗だ。そんな目に真剣に見つめられると
流石のマリンも少し動揺してしまう。
「べ、別に、何も……」 
「この山の上部は、何かを迷ってる奴を生かしておくほど甘くは無いぜ? 聞いてやるよ。
それとも当ててみせようか?」
 クロフォードはバックパックから水筒と小さな缶を取り出すと、缶を開けてマリンに差
し出した。覗き込むと、中には一口大のクッキーが一杯に入っていた。
 マリンはありがとうと頷くと、そのクッキーを一つとって口に放り込む。甘いバターの
香りが口の中に広がり、硬くなっていたマリンの表情がほにゃっとほぐれていく。
「お前、あの時の戦いを消化できてないだろ」
 涼しげな、だが何処か鋭い声に、マリンの口が止まる。
 クロフォードは水筒を開けて、山小屋に備え付けてあるカップにその中身を注ぐとそれ
もマリンに差し出した。
「飲めよ。紅茶だ。良いやつなんだぜ?」
 ふっと良い顔をして笑うクロフォードに、マリンは唯頷きカップを受け取った。
 花の香りの漂う紅茶を一口飲みふうと息を吐くと、マリンは小さな声で話し出した。
「ガントを見てるとね……時々切なくなるの。よくわかんないけど、きゅってなるんだ」
 目を伏せる少女に、クロフォードはふむと頷く。
「マリンはガントがああなったのは、自分のせいだと思ってるのか?」
 クロフォードも一口紅茶を飲み、クッキーを一つ放り込む。
「それも少しあるけど……。だってあんな悪魔が来たのって、きっと私のせいだから」
「というと?」
「ほら、秋に私とガントでヴァンパイアに止めをさしたでしょ? それで私に興味を持っ
たとかいって、レオノーレって言う女の子のヴァンパイアがやってきて私を捕まえて……。
私の力が気になるって、あの子はそう言ってたんだ。そして、あの青白い悪魔。後でガン
トに聞いたんだけど、丘で戦った悪魔の名前はクラウルって言うんだって。それって、レ
オノーレが言ってた名前と一緒なんだよね。って事は、私の魔法のせいであの悪魔が来た
って事で、きっと間違いないと思うんだ」
「なるほど、ね。だからガントがああなったのも自分のせいだと?」
 ふむと頷くと、クロフォードはクッキーをもう一つとって僅かに視線を鋭くした。
「う、うん……。でもね、きっとそんな事ガントに言っても「違う」って言うと思うし、
怒ると思うんだ。だって、ガントは私を守る為に……躊躇したりしない。どんな時でも、
全然迷ったりしないんだよ。もし私が原因でも、私のせいだなんて……きっと言わないと
思うんだ」
「なんだ、あの馬鹿の事、よく解ってるじゃないか」
「でも……それでもっ……」
「腕、か?」
 クロフォードの一言に、マリンの手がビクリと震える。
「確かにアレはインパクトあるよな。だが、あいつはお前が言う様に、お前のせいだなん
てこれっぽっちも思ってないね。お前達は一緒に歩むって決めたんだろ? んじゃ、何も
問題ないさ。お前はあいつのモノに。あいつはお前のモノになるって、……そう決めたん
だろ?」
「……うん」
「ならあいつの体はお前の体だ。と、言う事は?」
「あ……、私がガントの腕に……なれば良いって事?」
 マリンの答えに、クロフォードは目を細めながら紅茶をくっと飲み干し、フフンと口の
端を上げた。
「お前達は傍から見てもいいペアだよ。違和感の原因なんかそのうち放っておいても分か
ってくるさ。分かる迄悩んで苦しむよりも、前向いて出来る事したらいいじゃないか。い
つものお前なら、そうする筈だろ、マリン」
「クロフォード……、ありがと。ちょっとすっきりしたかも」
 表情を緩めるマリンに、クロフォードはふっと笑う。
「まぁ、あのガントレットがある時点で、お前は『腕』としては不要かもしれんがな」
「ふああん! ひどいっ! クロフォードのばかっ! もう! クッキー食べつくしてや
るんだからっ!」
「全部食うなっ! 甘いモノは、いや、心安らぐティータイムは物心ついた時からの俺様
の大事な心のオアシスなんだ!」
「せめて、もうひとつっ……むぐっ!?」
 クロフォードは缶をヒョイと持ち上げると、クッキーを一つ、素早くマリンの口の中に
滑り込ませた。そしてぺしっとマリンにでこピンを放つ。
「ふぁ!?」
「ほれ、一つ。さ、晩飯の用意して食べて、さっさと寝るぞ」
「了解ー。クロフォード、でこピン痛い」
「ナンバーワンレンジャーのでこピンだからな」
「もう、意味わかんないよ! それ!」
 文句を言いつつも、マリンの顔には笑顔が戻っていた。
 だが、クロフォードの表情は僅かに曇っていた。
 流しに駆けていくマリンを見ながら、髪をかきあげ頭を振った。

「お前達は想いが強すぎンだよ。……馬鹿野郎。心配させやがって」

 小さく呟いたその声は、赤く燃える暖炉の火の音に紛れて消えていく。
 それは否定ではなく、ただ二人を案じる、友を想う気持ちからの言葉だった。


注:マリン達が見ている地図は別物です。
  参考資料的に載せてみました。
  マリン達が見ている地図は山の部分のみ
  拡大したモノだと思ってください。

 
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