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「おー、良くついてこられたな! 褒めてあげよう」
岩だらけの山肌に立つ五合目の山小屋の前で、澄んだ声が響く。
「クロ……ふぉど……」
ようやく目的地に着いたという安心感と疲労からその場にへたれこんだマリンが顔を上
げると、夕焼けに染まった岩の斜面でクロフォードがマントをはためかせていた。
その光景は見事なまでにキまっていて、町に居る彼のファン達がそれを目撃したならば
「クロ様〜!」と黄色い声が飛んだにちがいなかったが、マリンとってはそんな事はどう
でもいい事だった。
『マリン』
ガントがマリンの傍に駆け寄ると、マリンの疲れた顔が自然と緩んでいった。狼とはい
え、頭に響く低い声は人の時と変わらない。それはいつだってマリンを心をほっとさせる
のだった。
「ガント……、えへへ、なんとか予定通り、だよ」
マリンは肩で息をしながら拳を差し出すと、それに重ねるようにガントは手を合わせた。
迷いの森を抜け二合目の山小屋で一休みした後は、三合目の草原をほぼ全力で駆け抜け、
四合目の岩場では魔物との戦いを回避しながら、速度は落さず進んでいったのだ。マリン
はレンジャーになってから鍛えたられた脚力で必死についていったが、それでもかなりキ
ツいものだった。
「ひう、はう……、何とか、大丈夫、かな」
本当は何とかというレベルではないのだが、マリンはひらひらと手を振った。こんな所
で音を上げる訳にはいかないのだ。
ひゅう、と山から吹き降ろしてくる風がマリンの長い黒髪を舞い上げる。
僅かに冷たい早春の風が心地良くて、少女は大きく深呼吸をした。
「この調子なら三日後までにカヒュラの元に辿り着けるかもな。さて、山小屋に入るぞ。
ココから上は行った事無いんだろう? しっかり休まないと、キツイぜ?」
「上、か……」
ココから先の五合目より上は、マリンにとっては未知の領域だ。
この山が好きなマリンにとって、知らない場所を行くのは、不安と楽しみな気分と半々
で、ガントと二人で研修に来てた時にはよく「興奮しすぎだ」と叱られていたりしたもの
だ。だが、今回はいつもと状況が違うのでそう明るい気分にもなれなかった。
「こんなに急いでなきゃ、楽しい道中なのになぁ、おぉぅ……」
マリンはよろりと立ち上がると、夕焼けに染まる山小屋へと入っていった。
マリンにとって、五合目の山小屋は初めて来る場所だった。
五合目の山小屋を使うのは、五合目以上の場所に用がある腕の立つ冒険者や難易度の高
い依頼を受けたレンジャーくらいだ。マリンはこの付近までは来たことはあっても、ここ
で一晩過ごさなければならない様な依頼を引き受けたことは無いのだ。
ドラゴンを仕留めに行く、希少な鉱石を探しに行くなど、そういう難度の高い依頼を引
き受けるのは、ガントやクロフォード、そしてマクスやハーベスト夫妻とレンジャーの中
でも上位の力を持っている者に限られる。ドラゴンマウンテンの山頂付近は、それ程に険
しいのだ。
五合目の山小屋は、二合目の山小屋を一回り小さくした感じの建物だった。中の構造は
二合目の山小屋とあまり大差なく、見た感じは二合目のそれより若干綺麗な印象だ。
「中、結構きれいだね」
「まぁ、頻繁に人が訪れる場所じゃないからな」
マリンは荷物を置くと、手早く暖炉に火を入れる。春とはいえ、山の夜は冷えるのだ。
「ガントもお疲れ様」
『おう。お前も頑張ったな』
そう言うガントの視線は、マリンではなく窓の外に注がれていた。山を進んでいた時と
変わらぬ鋭い視線のままのガントに、マリンの胸の奥がきゅんと苦しくなる。
(なんだろ、この気持ち……)
迷いの森の中で感じたものと同じ、正体のわからない思い。
ガントが背負う荷物を解くと、マリンはそのまま手を止めた。
「っ!」
ビクリと、マリンの手が震える。
(……いや、これ……っ!?)
不意に頭によぎったのは、あの満月の晩の出来事だった。
月夜の晩に降り立った、青白い悪魔。
体から血を流しながら、マリンの前に立つガント。
自分に降りかかる、愛する人の生暖かい血の感触。
右腕を落とされ、声を殺し震えるガント。
月の石の魔力で、狼の血が全面に来て完全なワーウルフに変わっていくガント。
悪魔の手に生まれる黒い呪詛。
そして……
「――っ!!」
気がつけば、マリンはガントに抱きついていた。
荒々しい銀色の獣の体を抱きしめ、マリンの体は僅かに震えていた。
『!?』
何事かとガントは驚き、くるりとマリンに振り返った。
息を止めしがみつく少女に、狼は表情を曇らせる。
だが次の瞬間、狼は首元に抱きつくマリンに低く「ぐるる」と唸ったのだった。
『マリン』
マリンの頭に響く、厳しく、そしてどこか寂しげな声。
その声にはっとなり、マリンは慌てて手を離した。
「あ、ごめんなさいっ! つい…。うぅ、クロフォードも居るのに……」
ガントの言わんとする事を理解したマリンは、慌てて少し距離を置いた。
ガントはたとえ二人きりの時でも、そこが山であるならば『甘えは命取りだ』と厳しい。
それは二人の間にあった暗黙のルールだった。お互いの距離が縮んでいった時も、よほど
のことが無い限りそれは変わらず、その厳しさは彼の愛情の一つでもあった。
いくら無意識でやってしまったとはいえ、自分の甘えた気分が許せなくてマリンは目を
伏せた。
「ご、ごめん……なさい」
俯くマリンを横目に、床に腰掛けていたクロフォードが口を開いた。
「そうだマリン。今日は客用のベッドで休め」
「え!? だめだよ、あれはレンジャーが使っちゃ……」
「今日は俺様達以外は誰も居ない。それに、明日はちょっと無茶してでも先に進むからな。
その為にはお前の体調が完璧な状態じゃないとだめなのさ。解るか?」
「う、うん……」
「解ったら、荷物を持っていって来い? ココから上は初めてなんだろ? 今日の休養っ
ぷりが大事なんだよ」
「うん、解った。……じゃ、ベッド使わせてもらうね」
マリンは荷物を持つと、よろりと立ち上がって足早に奥へと向かっていった。
ふと振り返ると、ガントは相変わらず外を凝視したままだった。
(あう……、嫌われちゃった……かな)
そっと首の革紐にかかった指輪を握り締め、マリンは小部屋の扉にこつんとおでこをあ
てる。愛を誓い合った婚約指輪に流れる暖かい魔力。それは間違いなく『マリンを守る』
というガントの思いの証だった。
(違う、私の事大事だから、ああやって怒ったんだ。嫌いになった……なんて。やだやだ、
なんでこんな弱気なの……?)
久しぶりの山を全力で登って疲れたせいなのかもしれない。
マリンはベッドがあるだけの小さな個室に入り窓際に荷物を下ろすと、窓を開けて外を
眺めた。
空は赤から闇色へ変わろうとしていた。沈みかかった太陽が鈍い赤光を放ちながら、一
日の終わりを告げる。
部屋に舞い込む山風に髪を躍らせながら、少女はふるふると首を振った。
(だめだめ、こんなんじゃ。もう、自分のバカっ)
マリンはベッドに倒れこむと、そのまま布団に顔を埋め深く息を吐いた。
「おう、ガント」
マリンが居なくなった部屋で、クロフォードは小さく声を掛けた。
暖炉の火が燃える音と一緒に聞こえてきた呼びかけに、ガントが顔を上げる。
「マリンのやつ、結構キてんじゃえねぇのか? あれは」
意思の疎通は出来ないのだが、クロフォードはかまわずガントに話しかける。ショルダ
ーアーマーと白いマントを外すと、クロフォードは暖炉の前に座り呟いた。
『……あぁ、そうだな』
ガントはクロフォードに答えるように頷くと、すっと目を伏せた。
「別に仕事って訳じゃねぇんだし、移動中でもないんだから多少いちゃついても今更だぜ?
まぁ、普段仕事場にしているこの山だからこそ気を抜きたくない、っていうお前の気持ち
も分からんでも無いし、それにお前のクソ真面目は今に始まったことじゃないからな。お
前がそれだけマリンを信用しているってことも、理解できる。けどな?」
『……』
黙りこむガントに、クロフォードはやれやれと首を振った。
「マリンの話によると、カヒュラに会った後、あの大魔導師を探しに行くんだろ? あの
魔導師なら呪いを解く方法を知ってるかもしれない、とな。まぁ、カヒュラがどんな用事
でお前達を呼びつけたかは知らんが、俺様が居なくなったら、お前達は二人きりだ。マリ
ンを強くするも弱くするも、お前次第だぜ? ガント」
『解っているさ』
狼は返事をするように首を縦に動かした。
「世の中にゃ、ほっていても逞しく生きる女もたくさん居るが、マリンは違うね。あいつ
も弱くは無いが、その強さの根幹はおそらくお前だ。あいつは仕事中や山に居るときに甘
えるような馬鹿じゃない、それくらいは解るさ。だけどな、そんなあいつがああなんだ。
……、まぁ、俺様にはどうでもいい事だけどな?」
クロフォードの言葉に、ガントは目を細めた。
ガントは解っていた。
マリンが自分のことを色々気遣ってくれている事も、色々動揺しているという事も。
だが、この体では抱きしめてやる事すら出来ないのだ。
窓の外に再び目線を向けて一歩踏み出すと、ガントの右腕がガシャリと鳴った。
ガントの金属の腕は、外れる寸前だった。集中力が切れれば、ガントの腕はたちまち唯
の手甲に戻ってしまう。
今日一日山を歩き、一つ解った事があった。それは、ガントレットを装着した状態での
移動が予想以上にきついという事だった。
ほとんど無意識で動かせるようになったとはいえ、精神的疲労は徐々に積み重なり、四
合目に差し掛かった辺りでは、周りを見る余裕がなくなる程だったのだ。
今日は魔物を避けて戦闘は回避できた。
(だが、明日は?)
戦闘に入れば、さらに考える事は増える。
このパーティーで戦闘が始まれば、クロフォードが先頭に立って戦う形になるだろう。
そうなれば、ガントは不慣れなマリンのフォローにまわりつつ応戦する事になる。
森の中で考えていた事を再び思い出し、ガントは目線を鋭くした。
「いきなり七合目までってのは荷が重いかもしれんが、まぁ、これもマリンの運命さ。で、
お前がやるのか? 指導予習は」
備え付けのクッションに腰掛けたクロフォードが問いかけると、ガントは「グルル」と
首を横に振った。
「俺様でいいんだな。なら基本だけ教えておく。後は元に戻ってからちゃんとお前が仕込
めよ」
『頼む』
ガントは「ガウ」と短く返事をするとそのまま入り口の方へと歩いていく。
「ん、お前は別の用事か? ……まぁ、気をつけて行ってこいよ」
「ガウ」
ガントは手甲をがしゃりと鳴らすと、そのまま外へと出て行った。
「……、さて、こちらはこちらの仕事をするかな。マリン! 指導予習するぞ!」
クロフォードの呼びかけに、奥の部屋に居たマリンが「はい!」と返事をする。
「指導予習か……。誰かに教えるのは何年ぶりだ?」
後輩のレンジャーが新しいエリアに入る際の注意事項を、先輩のレンジャーが前もって
教える事をレンジャー達は指導予習と呼んでいる。本来なら師匠であるガントがすべき事
だが、今回は少し別だ。
「ふむ、教えてもらったのも大分前だよな」
クロフォード自身がが五合目以上の指導予習を受けたのはもう八年も前になる。
当時のクロフォードの師匠だった人は教える事自体が下手で、何を言っているのか解ら
ず四苦八苦した事をふと思い出す。
「マリンにはちゃんと伝えないとまずいよな。練習で登るのとは訳が違う」
クロフォードはバックパックから地図と手帳を取り出すと、ふと目線を外にやった。
深い闇のグラデーションが空を包み、外は夜の世界になろうとしていた。 |