プッチーニ:『蝶々夫人』
第5章 パリ版〜『蝶々夫人』の変貌

パリ公演 第2幕の舞台スケッチ(1906年)
(Albert Carré’s Staging Manual for Madama Butterflyより)
アルバート・カレとの出会い
ブレシアでの公演の後、『蝶々夫人』の楽譜の出版はどういう状況にあったのでしょうか。リコルディ社は1905年、ブレシアで上演した版に基づく新しい『蝶々夫人』の楽譜を出版しました(Nuovo
edizione
)。これが、一般的は第3版とされるもので、1904年2月のミラノ初演での第1版、同年5月のブレシア上演の第2版に続くものになります。またこの頃、米国での興行が決まっていたこともあり、同時に英語歌唱版も出版しています(時期が英国初演の直前ということで紛らわしいのですが、英国では原語のイタリア語上演だったので、あくまで英語版は米国用でした。)。ディーター・シックリングは次のようにのべています。
「プッチーニの出版社主であったジュリオ・リコルディは、こうした改訂の繰り返しが耐え難い混乱を招き、この作品の将来を危うくすると考えていました。確かなことは、おそらく1906年の春に、リコルディがヴォーカル・スコアの小改訂版を出版したという事実です(初版はブレシアでの演奏用に印刷されたものでした)。特筆すべきは、この版において『蝶々夫人』の有名なアリア「ある晴れた日に」の当初の構成が復活したことです。このアリアは、ブレシアでの上演に際して変更が加えられていたものでした。また、同時期に発売された英語版のヴォーカル・スコアには、それまでの間に試みられた数々のカットが反映されていたのでした(
ディーター・シックリング著 『蝶々夫人 - 未完のオペラ』。 )
つまり、シックリングはこの版は「小改訂版」としていて、版数のカウントには入れていないことになります。その夏が過ぎて10月にボローニャでトスカニーニが指揮した上演の際に、プッチーニは早くも手を加えています。シックリングはさらに続けます。
「しかし、リコルディにとってこれだけでは不十分でした。1906年の夏に決定版となるスコアの出版に向けた作業が始まりましたが、その際、彼はプッチーニに対し、真の最終稿を提出するよう強く求めました。その好機は、間近に迫ったフランス初演に関連して訪れました。パリのオペラ・コミック座の総裁であり、洗練された感性と演劇への深い造詣を持ち、現代的な意味での「オペラ演出家」の先駆けの一人でもあったアルベール・カレが、台本の一部変更やカットを希望したためです。これによりプッチーニは、それまでかなりの迷いを抱えながら試行錯誤していた自身の構想について、知識豊かな相手と話し合うことができました。1906年秋のパリでの長いリハーサル期間を経て、この過程からほぼ「決定版」と言える稿が生まれました。これを基に、1907年春にはイタリア語による改訂版のヴォーカル・スコアが出版され、夏には総譜も出版されました。細かな修正を除けば、これこそが今日に至るまで『蝶々夫人』がほぼ一貫して上演されてきた版なのです(
ディーター・シックリング著 『蝶々夫人 - 未完のオペラ』。 )
アルバート・カレ(Albert
Carré)は、当時オペラ・コミック座の監督の座にあり、演出家も兼任するかたちでビゼーの『カルメン』やプッチーニの『ラ・ボエーム』、『トスカ』などの作品を上演し、シャルパンティエの『ルイーズ』(1900年)やドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』(1902年)の初演も手掛けていました。いわばここで上演されるオペラの舞台演出全般に直接的かつ全面的に責任を負っていた人物といえます。またカレは、1905年の『蝶々夫人』ロンドン公演を観ていたとされています。さらにシックリングは別の論文で、プッチーニがアルベール・カレの洞察力に富んだ解釈に大きく影響を受けつつ改訂作業をうまく進めていたことを示しています。
「プッチーニと出版社が極めて重要視していたフランス初演を控えた1906年の夏は、この混乱した状況を整理する好機となりました。時を同じくして最初の印刷譜の準備が進められており、プッチーニはすでに1906年6月初旬の時点で第1幕の承認を与えていました。それだけに、パリのオペラ・コミック座の総支配人であり演出家でもあったアルベール・カレが、『蝶々夫人』の劇的構成(ドラマトゥルギー)に大幅な変更を求めてきたことに対し、ジュリオ・リコルディは決して快く思っていませんでした。しかし、プッチーニは7月にパリでカレと会うと、わずか1日で変更点について合意に達しました。これほど迅速に事が運んだのは、カレが求めたカットの内容を、プッチーニ自身の構想がすでに大部分において先取りしていたからだと説明するほかありません(
ディーター・シックリング著『いわゆる「蝶々夫人」の様々なバージョン』)。
その後プッチーニは1906年10月23日にパリに到着し、12月7日には台本作家のルイージ・イリッカと合流しています。それはイタリア語版の新版を見据えたものであり、プッチーニがすでに蝶々夫人がパリの舞台で最高のバージョンに達することを予期していたことを示しています(
“Albert Carré’s Staging Manual for Madama Butterfly (1906) “ by Michele
Girardi )。
このプッチーニとアルバート・カレの共同作業によって完成した『蝶々夫人』の版は、一般的には『パリ版』とも言われますが、興味深いことに、この時点でジュリオ・リコルディは、すでに「第5版」に到達していると主張していたそうです。一般的には『パリ版』は第4版とされていますが、一方シックリングはそれまでに刊行された楽譜だけを考慮すれば『第3版』と言うべきとしています。つまり、ブレシアで上演した版とその後に出版された版を分けないで第2版としているということになります。ジュリオ・リコルディは、プッチーニとの手紙のやり取りの中で、ベルリンとパリでの上演のためにドイツ語とフランス語のヴォーカル・スコアを用意することに言及しています。そうすると初版(第1版)、ブレシア版(第2版)、ドイツ語版、フランス版、そしてパリ版と計5つになるので、出版社目線でのカウントで第5版と言ったのかもしれません。イタリア・オペラの歌唱指導者で東京芸術大学でも教鞭を執ったウバルド・ガルディーニは、『パリ版』の前までに5つの版が存在したとして『パリ版』を第6版としています(ウバルド・ガルディーニ著『「蝶々夫人」のパリ版にいたる経過とその相対的価値についての一考察』)。いずれにしても版のカウントについては研究者の間でも意見が分かれていて、本書第2章で述べた『版数の混乱』はこのあたりから生じているのかもしれません。。
アルバート・カレがめざしたこと
1906年12月28日にパリのオペラ・コミック座で『蝶々夫人』のフランス初演が行なわれました(フランス語歌唱)。以下は、このアルバート・カレによる『蝶々夫人』ステージング・マニュアルを解説した文献から改訂に関わる部分を引用させていただきます。
「プッチーニを駆り立てて『蝶々夫人』の演劇的構想と音楽形式を完成へと導いたのは、カレ(Carré)のような優れた演出家との出会いでした。この過程で、オペラの主題の扱いに関する根本的な選択がなされることになったのです。それまでの版で課題となっていた劇作上の難点は、パリでの上演を通じて克服されました。すなわち、東洋と西洋の対比が、主人公の激しい個人的悲劇とより強く結びついた象徴的な次元で描かれるようになり、それによって結末の劇的効果がいっそう高まったのです。また、パリ版では、日本人を嘲笑したり従属的な立場に置いたりするような、短く皮肉な「ブッファ(喜劇的)」な場面が削除されたことで、悲劇的な結末がいっそう際立つものとなりました。こうした変更は、このオペラの劇的な前提である「東洋と西洋の衝突」を、個人の悲劇を際立たせるための能動的な背景へと昇華させることにもつながりました(
以下 “Albert Carré’s Staging Manual for Madama Butterfly (1906) “ by
Michele Girardi からの引用 )。」

「当時、パリは日本趣味(ジャポニスム)の流行に沸き立っていました。そのきっかけとなったのは1867年と1900年の二度の万国博覧会であり、その熱狂ぶりはピエール・ロティの有名な小説『お菊さん』(1887年)からオペレッタに至るまで、様々な作品に見て取ることができました。1906年を迎える頃には、「オペラ・コミック座で上演される初の日本を舞台にしたオペラ」(少なくともプッチーニの認識ではそうであった)に対する、報道機関や一般大衆の期待は相当な高まりを見せていたはずです。日本という「本来の」舞台設定に忠実であることは、支配人カレの掲げる目標の一つでありました。そのため彼は、特に衣装の面で入念な調査を行い、主役を演じる妻マルグリットには、有名な女優Sada
Yakko(川上貞奴)のもとで稽古を積ませました。それは、芸者のような身のこなしや扇の扱いを身につけさせるためだったのです。」
*この時の蝶々さんは当時アルバート・カレ監督の夫人だったソプラノのマルグリット・カレ(1880年〜1947年)が歌いました。彼女は1899年にプッチーニの『ラ・ボエーム』のミミ役で舞台デビューしています。
*Sada
Yakko:川上貞奴(1871年〜1946年)は「日本一の芸妓」と言われた女優。川上音二郎一座のパリ公演で貞奴の名声は高まり、1900年のパリ万国博覧会において、『芸者と侍(La
Ghèsha et le
samouraï)』のヒロインを演じてフランスの観衆を魅了しました。ドビュッシーやアンドレ・ジッド、ピカソは彼女の演技を絶賛したとされています。
「カレは自身の回想録の中で、『蝶々夫人』の準備をどのように進めたかについてこう述べています。彼は通常、オペラの舞台となる土地を実際に訪れるのを常としていて、今回はパリ郊外のブローニュ=ビヤンクールへ足を運ぶことにしました。そこでは、アルベール・カーンという風変わりな人物が、日本家屋や庭園などを驚くほど精巧に再現し始めていたからでした。そのあまりの精巧さに、劇場の舞台美術家アレクサンドル・バイイは、そこで目にしたものをそのまま模写するよう指示されたほどでした。」
「最も重要な変更点は、ヒロインと彼女を取り巻く世界との関係に見られます。彼女は、伝統的な生い立ちと、西洋の男性によって持ち込まれた、秩序を乱しかねない新たな規範との間で板挟みになっているのです。日本という国の描かれ方に対するカレの貢献は、このオペラにおける二つの文明間の関係を変え、その重心を東洋へと移すものでした。パリでの上演に際して、短い喜劇的(ブッファ)な場面が削除されたことで、日本人登場人物には少なくともある程度の尊厳が回復し、西洋人登場人物との対比がいっそう際立つようになりました。また、これにより女性主人公の心理的な一貫性も高まりました。彼女が社会の慣習である「お見合い結婚」への順応を断固として拒絶したことこそが、悲劇的な結末へと至る筋道の骨組みとなっているからです。」
「カレが日本の登場人物の卑屈な振る舞いを軽視しようとしている最も明白な兆候は、まさに冒頭に見ることができます。蝶々さんとその友人たちは、威厳のある落ち着きをもって登場し、将校の制服を身につけた西洋の神の化身にひざまずくことなく、代わりに彼らの慣習に沿った礼儀正しい仕草で優雅にお辞儀をします。これは、結婚式後のアンサンブルの終わりに親族たちが取る振る舞いにも当てはまります。ミラノの時のように、彼らは軽食のテーブルに群がることはしないのです。」
「パリの舞台では、ピンカートンは以前(1904年のスカラ座公演)ほど下品な振る舞いをしなくなり、召使いを公然と嘲笑することはなくなったものの、親族が到着すると、彼は依然としてスズキから苛立ちながら立ち去り、領事と話し笑い続けます。ウイスキーを飲むだけでなく、大胆にもタバコに火をつけ、『ヤンキー放浪者(世界中どこでも、放浪者のヤンキー)』口ずさむのです。 (中略) カレは、粗野な西洋主義の旗手であるピンカートンに、決して寛容ではなかったことになります。 (中略) また、「叔父の迷惑な酔っ払いなど、日本人登場人物たちの不器用な振る舞いがこのフランス語版ではほとんど削除されています。」
「第2幕ではベランダの開口部の断面図として描かれている小さな家が、舞台面より40センチ高くなっていると記されています。ミラノ初演の時の第2幕の場面では、そのような高さは見られません。これは単なる些細な事ではなく、蝶々さんの心理を、彼女が周囲の世界とどのように関わるかという観点から首尾一貫して描き出す戦略の一部を形成しています。カレは、蝶々さんの幻想的な小宇宙を現実から切り離すという意図を着実に追求し、それによって、主人公の『アメリカ』の世界に入り込むことができる唯一の人物である領事の役割の重要性を高めたのでした。」
*日本人にとっては家屋の床が地面より高くなっているのはあたりまえのことですが、外と同じ高さの室内に土足のまま入り込む西欧人は奇異な光景に写ったことでしょう。しかし、日本人目線からではない視点で、外界とは違う蝶々さんの世界(小宇宙)を床の高さで表すという見事な演出だったということになります。
「ピンカートンの二人の妻はオペラのフィナーレで出会います。このエピローグは、舞台上の出来事に対する観客の視点を根本的に変えるいくつかのテキストの変更によって形作られました。カレはすぐに西洋人女性を観客の前に提示して見せ、それによって彼女を続く場面でも維持されることになる象徴的な役割のみに限定したのです。 (中略) パリ版までは、ケイトとスズキが庭から家に入ってきて、蝶々さんがケイトに直接話しかける機会があったのに対し、パリ版では、ヒロインが一瞬で悟った絶望のうちに、ケイトではなくシャープレスの方を向いて「あの女の方は?
私にご用かしら?」と問いかけるのでした。」
「1906年11月25日付のリコルディ宛ての書簡から、プッチーニが新版のフィナーレに対して何ら懸念を抱いていなかったことがうかがえます。
“
スコアはほぼ完成しており、明日には仕上がる予定だ。演出に関しては、このままにするか、それとも重要な部分を変更してもらうか……。カレはほぼすべてを変更したが、その手腕は見事なものだ。[……]
リハーサルも順調で、素晴らしい上演になることを期待している。カレによる第3幕の演出(ケイトの出番を大幅に削り、彼女を庭にとどまらせる点。その庭は舞台と同じ高さにあり、生け垣などの障害物がない)は、私にとって非常に好ましいものだ。
”
プッチーニはミラノ初演前からケイトの場面について疑問を抱いていたましたが、パリでようやく納得のいく解決策を見つけ、ピンカートンのアメリカ人妻を庭の外に置くというカレのアイデアを高く評価しました。ケイトの役割の変更と、彼女のセリフが蝶々さんと領事に移されたことで、より一貫性のある劇的な展開が可能になりました。アメリカ人妻の立ち位置は重要な役割を担います。ヤマドリの場合と同様に部屋の外に置かれることで、彼女は主人公の個人的な強迫観念の幽霊のような投影となり、主人公にとって本質的に異質な存在であり続けるのです。(Albert
Carré’s Staging Manual for Madama Butterfly (1906) by Mic hele
Girardi)。」
以上、プッチーニはアルバート・カレ監督との共同作業のもと、かなり本質的な部分まで掘り下げた改訂を行ったことが窺え、これによって現行の形にかなり近いものが出来上がったと考えていいと思われます。
パリにおける実際の演奏はどうだったのでしょうか。実はこのパリ公演の様子を語る資料がなかなか見つからないでいます。ただ、プッチーニ自身の不安に満ちた言葉は残っています。オペラ・コミック座での初演では、蝶々さん役はアルベール・カレの妻、マルグリット・カレが歌いました。彼女はマスネの『マノン』、ドビュッシーの『ペレアスとメリザンド』のメリザンド、プッチーニの『ラ・ボエーム』のミミの解釈で知られる優れた歌手でしたが、プッチーニは友人シビル・セリグマンへの手紙で彼女に対する本当の気持ちをこう打ち明けています。
「今日のリハーサルは順調でしたが、「マダム・ポム・ド・テール(ジャガイモ夫人)」の方はどうも芳しくありません。マダム・カレのことが心配です。彼女は気弱で頭のめぐりも遅い女性なのですが、『蝶々夫人』を上演する以上は我慢するしかありませんし、キャストを変えるわけにもいきません。ですから、彼女をおだてて何とか良いところを引き出そうと、懸命に努力するつもりです。ただ、彼女にこのオペラを最後までやり遂げるだけの力があるかどうか、不安でなりません(マイケル・ケイ著
『私はもう前の私ではないわ!( non son più quella! )』)。」
もし彼女の出演を拒んだら、このオペラは棚上げされてしまう恐れがあったという、プッチーニとしては背に腹は代えられない状況にあったことになります。延びに延びたパリ滞在をやっとのことで切り上げたプッチーニはニューヨークへと旅立ちます。
*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。
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