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神奈川月記9507

冠省
金が無くなったからと言うのじゃないが,生命保険料を引き下げたい。
かねて無駄金と感じていたのだけれど,手続きするのは面倒だ。放っておいた。保険外交員という奴,人の名前や歳や家族構成を根ほり葉ほり訊くは血液型占いや星占いやバイオリズムなどおれの大嫌いなものばかり持ってくるはくそまずい飴玉を置いていくは影も形も質量も無い契約だのに「商品」と称するはで,もういらいらして寿命の縮む思いだ。おれを殺す気か。ふと「死の商人」という言葉を連想する。普段のおれの邪険な態度から,おれのような人間にもいちおう声を掛けてみなければならないこの職業は当人の性格をかなり歪ませるものと思われる。
翻ってこのごろ職場に通ってくる外交の姉ちゃんはおれの好みだ。保険屋特有の笑顔が貼り付いておらず,まだ?快活なのだった。言葉を交わすのがさのみ億劫でない。
そりゃあ保険会社を替えるのは一向に構わんのですがね,今より保険料が1円でも上がるのは困るし何より解約の手続きが面倒くさいんですよ。解約通告なんて気持ちの良いもんじゃあないしね。またそのために電話1本かけるのだって厭だい。
おれは電話が怖いのである。すると彼女は事も無げにこう言った。「あ,委任状を書いていただければ私が婚約者として行きますよ」わぁお。おれ赤面しちゃったよ。そうか,みんなこうやって結婚してたんだな。
婚約してみました。
何はともあれ出費の下がるように組んでもらい──結果的に月額2000円ダウン──それでもいろんなオプションが付いて元の保障よりお得になった,らしい。余命6箇月って言われてカネを貰っても何だかなあで,そういうのはパス。はて半年たって生きてたらどうなるんだろう。保険屋から刺客が放たれるのかな,契約はきっちり果たしていただきやすとか言って。ま,それは新規の契約の話だ。第1回の保険料支払いは今の保険の解約払戻金を充てるのだから,円満にコトを運ばないと新旧ふた組の刺客に狙われかねない。
ところが元の保険会社は婚約者などでは委任状を認めてくれず,肉親でないと受け付けないそうである。その辺の加減乗除は会社ごとにまちまちらしい。たちまち婚約は破棄された。「では実妹ということにしましょう」妹が産まれてしまった。何という恥かきっ子だろう,親父もお袋も電池きれそうなくせに。しかしこんなことしてて良いのかな。良いわきゃねえな。
陰毛掻い掻い接して漏らさず,これも駄目だったのである。彼女はおれと半年しか生まれが変わらないのだ。
「じゃあ新卒のきゃぴきゃぴの後輩が居ますからその子の名前で委任状を書いてください」うほほほ,話がどんどんイリーガルに傾くなあ。でも姓が違うよ。「なに,嫁に行ったことにすれば良いんです」参った参った参った参った参った,諒解ですよ


FLORA500TB(B),いっかな配達されないぞ。なあにをやっておるのだ。問い合わせると,注文殺到で納期は5週間後になると言う。
あのな,好い加減にしろよ,ったくよー。あんな無茶な値段を付ければ注文も殺到するだろよ。んなことも見越さないで「1週間でお届けします」なんて謳うなよな。納品に1箇月も2箇月も掛かるんなら,その間にパソコンの値段なんか変わっちゃうっつの。ついこないだも駅前でキャンペインのビラ撒いてたじゃねーか。まだ客を引っ張る気か。
非常に腹が立った。まだ価格的に優位性が残っているから待つけれども,どこかがもっと安く出せば即キャンセルである。莫迦者め。
とは言うもののタマ不足はどこも御同様らしい。怒りに任せてキャンセルしてもそれから代替品を決めて契約するのに1週間かかる。その上でまた1箇月以上またされる可能性は非常に高い。ほんとに家電品のようにPCを買う人が増えたのだなあ。
日立IBMのテレビCMはうまいよね,筒井道隆が蟹江敬三を誘う奴とガレイジセイルの現場から電話を掛けてしまう奴。あんなのを観せられたらおっちゃん買ってしまうぞ。
しかしながらPCはまだまだ難しい。用語は日常生活から懸け離れたものばかりで和訳されていないし,操作が解らなくなったからといって電源をぶち切って良い物ではない。ビデオの留守録もおぼつかない人(多いよ)にシステムファイルの世話ができるとはとうてい思えない。自動車くらいブラックボクス化されていないと,またPC68や88の頃のような空しいブームに終わる懸念がある。パソコンって何ができるの?と訊かれて,何でも簡単にできるよと答えるのは筋違いである。あなたのやりたいことのお手伝いができるのだと,本当のことを教えてあげよう。


A3サイズで作ったEXCELの図表を別のワークシートに縮小して貼り付ける。[SHIFT]+編集(E)の隠しプルダウンメニュから貼り付けようとするに,奴はサイズが大きすぎるから適当に切り捨てると言い放った。えいくそ,半分づつ貼り合わせようと200%の画面で慎重に位置決めをしていたら,おえっぷ,吐き気がこみ上げ眉間がぎりぎりと痛む。たばこがまずい。あ・いかんいかん,今この瞬間おれは風邪をひいておる。
家路で悪寒がする。厭な汗がたらたらーと流れ,喉がぜろぜろ言いだした。風邪と言うよりゃ気管支炎だナ。肺も縁取りがしくしくする。とにかく気道を確保しないと夜明け前に地獄の呼吸困難が待っている。寝そべっていられないで酸欠で痺れた脚を抱き,脂汗を噴き出しつつ喘息様に土下座をしなければ息をさせてもらえないのだ。
上は大袈裟に書いたのではない。気管支が腫れ上がったり肺が萎縮したりしたときには,起きあがっているほうがまだしも呼吸が楽なのである。仰向け・横寝・俯せの後者ほど息がしやすく,まだ息が足りなければ体育座りか正座くずしの婆ちゃん座りへ起き直る。しかしそれだと頭を支えているのがしんどいから──もはや体力を消耗しつくしている──前にぱたっと倒れ,急性イスラム教徒擬きとなったまま半ば気絶するように眠るのだ。喘息持ちなら思うだに身の毛のよだつ数時間である。
あいにく手元には市販薬しかない。頭痛にイブA・気管支炎にアスクロンを投入したものの全快するには役不足といった感がある。辛うじて喘息の発作は抑えたが翌朝は寝汗でパンツまでぐずぐずだ。具合は良くも悪くもなっていない。
第1夜で勝利できなければ長期戦になる。仕事場にお休みの電話を入れ,這ったまま第1京浜を渡って水と飯の買い出しに行く。お馴染みの症状であるがこのたび先方の鼻息あらく,もう許しませんよ・きい,などと言っている。
一番まずいのは脱水症状で熱暴走を起こすことだ。イブAの催眠成分を頼って強制的に眠り,汗だくになって目が覚めるたび(2時間おきくらい)ポカリスエットをラッパ飲みする。シャツとパンツを穿き替える。間食にバナナやカステラの類を押し込む。快復が始まるまでは栄養のヴァランスなぞ二の次だ,即燃料に変わることが重要なのである。
本当は抗生物質があれば一発なのだ。どうして薬局で売らないのだ,睡眠薬なんか置いてるくせに。おれは抗生物質と気管支拡張剤さえあれば今後20年は医者いらずで行ける(と思う)のである。
昔,と言っておれの産まれる前だが覚醒剤でも何でも自由に買えたそうではないか。中毒になる人が出るからと例によってお節介を焼くのが居て市販禁止となったようだけれども,薬局には行けても診察を受ける暇やカネの無い半病人は少なくない。中毒から救われた人よりも必要な薬を入手できなくなって死んだ人のほうが多いのではあるまいか。だいたい医者が正しく処方してくれるとは限らないのである。ヴェテランの病人なら自分で欲しい薬のカプリングくらいできる。己が己を24時間体制で監視して臨床例にはコト欠かないのだからな。
時間の無駄と思いつつ病院に行く。案の定爺婆が鈴なりである。無神経と無礼を承知で言わせてもらうなら,おまーら元気なんちゃうんか。3時間半まって『山椒魚戦争』読み終えてしもうた(今ごろ読んでやんの)。
おれは自然気胸を両肺ともやって術痕も鮮やかだから病院に行くとたいてい胸部レントゲンを撮られる。撮れば必ず曇っているから2・3週おいて経過を見るのにもう一度とられる。胸部X線の被曝許容量は生涯に200回分くらいだったと記憶するが──年に,だったかな──ぼちぼち越えてやしないかしらん。
何と言うことだ。やっとのことで貰ったスリクの中に抗生物質が入っておらん。消炎剤と去痰剤だ。くっそー。抗生物質があれば節約して次の気管支炎に備えるのに。でも点滴と筋肉注射は打ってくれた。30分クラスのかわいいものでも点滴を打たれるとほっとする。西洋医学のありがたいのはこうした即効の対処療法である。劇的に気分が良くなる。
2度目に行くとレントゲン写真を前に医者がつまらなそうにしており,おれも一所になって見る。「気胸にはなってないねえ」そうですねい(生意気)。「こういう長い大きな肺は歳いってから肺気腫になりやすいんだよな」ははあ。「肺気腫ってのは息をするのに肺が縮まらなくなる病気なんだけどね,苦しいよ。ひひひひ」
ちぇっ,だからっておれにどうしろと言うのだ。

不一

1995年7月7日


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接して漏らさず
貝原益軒『養生訓』。性交時射精しないのが体に良いそうな。

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参った参った参った参った参った,諒解ですよ
森高千里『うちにかぎってそんなことはないはず』の1節。森高が嫁さんなら細野仙人も下界に降りてこようというものだ。

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山椒魚戦争
Karel Capek。

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written by nii. n