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神奈川月記9505

冠省
おれの歯は90年初秋徹底的に治療されている。豚の角煮に虫歯を知らされしぶしぶ歯科医を訪ねたところアレと叫ぶ間もあらばこそ爼上の魚となり,当時29本あった歯のうち12本を削られた上にパテ盛りとメタル加工とで改造人間と化したおれは豆煎餅をも噛み砕く無敵の肉体を得たのである。
ところが僅か2年後に右下のメタル冠がキャラメルに浚われて脱落,幸い飲み込まなかったので再利用,しかして1年後バブルガムと共に去りぬ。すんでのところで吐き出したのをまた装着し,もう1年を経て今度はキャラメルと駆け落ちしたのをおまえはまだ若いと連れ戻した。そうして去年くさった親不知を抜いて平和な日日を享受するのも束の間,右下メタルは桜餅なんぞに誘惑され4たび出奔を企てたのだった。
メタル冠の外れた跡は白いガムで覆われている。このガムが接着剤なのか単なる下地なのかは判らない。痛みも凍みもしないから放っておいて構わないのだけれど,舌で触ると吸い込まれそうに深く,おもしろすぎて猿になる。これはもう一度はめてもらおう。
メタル冠は飲みこまずに済んだ。現物さえあれば何度でも使いまわすことができる。飲みこんだところで害は無く,翌日か翌翌日「黄金」に原子変換して否,まみれて出てくるから漉してそれを使えば良ろしい。
セメントを塗り直して填めるだけだ,コトは簡単である。しかしこう何度も脱落するのは形状が悪くて接着面積の足りないせいだ,設計ミスではないか。てなことは口にしない。それじゃあってんで削りなおされては適わん。
ちょちょいで終わってしまって医者は手持ち無沙汰だ。丹念に齲歯を捜している。こことここに虫歯ができてるね。ふふふ,そんなことは先刻承知だ。では来週からここを治しましょう。そ・そうなん。
虫歯を治すと言いつつやっていることは問答無用の削除である。削除範囲は当然ながら正味の患部体積+αであって,αの部分を虫歯菌が侵すのにもう何年か掛かっていたはずだ。痛くもないのに前以て虫歯を治療しようとするのは間違っているのではないか。小さな虫歯のうちに治したほうが治療期間が短いとか安く付くとか一見非の打ち所のない意見を聞くのであるが,虫歯の成長は年のオーダで治療の増分は分単位である,比較にならん。だいいち臨終の際に虫歯ゼロである必要はまったく無い。ぼろぼろの歯でも逃げ切ってしまえば良いのである。
上はいま考えたことであって,その場ではハエと(口を開けているからハイと言えない)従うしかない。なにしろ敵は毎秒6600回転の黙る子も泣くスーパウエポンを手にしているのだ。誰が歯医者に逆らうことができようか。
実は3月下旬から仕事場が大森に変わっている。おれがしくじってクビになったのではなく,プロジェクト要員の肥大化で大部屋にも入りきらなくなり,業務仕様を考えるチームがはみ出たのだ。プロジェクトごとの引っ越しである。この作番おれは出戻りなのだが以前の在籍中にも頻繁に移転しており,エンドユーザたるメイカの建屋を獅子舞のように巡っている。
大森にはみっつの拠点があり,仮にO1・O2・O3と呼ぼう。入社半年後にO2からスタート,大手町のまた別のビルに移りその中でフロアが変わり,O1に移ってまたその中でも1度こし,仕事の都合でO3に出入りするうち一旦おれはリタイア,ここまでで6年ちかくが経過している。2年を経て鹿島田のビルへ復帰したと思ったら3箇月でO2に戻った。しかもおれが最初に潜り込んだ部屋である。完全に「振り出しに戻る」。
大森時代が長かったから行き着けの歯医者も大森なわけね。昨夏親不知を抜いたときはぜんぜん別の仕事で下北沢に通っていたからそこの医者を用い,大森の医者にしてみれば目を付けておいた獲物が忽然と消えていてがっかりというところかもしれない。商売にしてしまって新鮮味は薄れていようとも,恐怖する人間の歯をごきんと抜くのが快感でないはずがない。
当面のターゲットは上の前歯・左の2本だ。麻酔の注射がまず痛い。あれは何とかならんのか。浸透性の麻酔薬を歯茎に塗って神経を半殺しにしておいて,改めて注射で麻痺させるとかできんのかしらん。おれは痛がりなので,できることなら全身麻酔にしてもらいたい。そうだ,不幸にして全麻を要する術式を(また)受ける機会を得たならば,ついでに歯医者にもスタンバっといてもらおう。
フィーンと威嚇音を上げながらハンド ドリルが掘削する。いてっ,いててて,センセ痛い。痛いですかぁ。ハエ。我慢できませんかぁ。ハエ。じゃあもう1本麻酔を打ちましょう。痛い思いをして麻酔を掛けた以上,ちょっとでも治療の痛いのは許せん。何本でも打ってくれ。ゴリゴリゴリという木工鑢を思わせる振動が伝わる。フィーンとは違う奴だ。施工の間はずっと眼を瞑って貞操放棄状態にある。いったい何が執り行なわれているのだろう。
来週は右側の前歯を治しましょう。うぬ,本格的に治療サーキットに入ってしまっておる。ところが麻酔の切れた瞬間からいま完治したはずの歯が強烈無比に凍みる。冷たい物ばかりでなく,体温を0として温度差の2乗に比例して痛みが走るのだ。常温の缶コーヒも駄目で口で息する吸気が既に凍みる。アイスクリイムや鉄板焼のような極大値を持つ食い物などズガガガンと音を立てて衝撃を寄越す。ここここれは堪らん。神経が露出しとるんちゃうか。
ごはんがちっとも楽しくない。体重半分になったわ。息をしても凍みるのですとかわいらしい看護婦さんじゃないな歯科技工士さん或るいは歯科衛生士さんに陳情してズガン程度の音を聞かせると心から同情してくださり右前歯の改造は延期となった。え・延期なの?延期するより右をやっつけて左右とも併行対策してもらいたいなあ。右も凍みるようになったら噛める所が無くなりますよとの仰せであるが,おれには奥の歯がある。でも頭を抱かれて耳元でそう囁かれると抗えはしない。では今日は「レーザー」を当てましょう。何ですってえー。新兵器登場である。レイザーだと。レイザーと言えばヒーロー・ヒールともに必携の武器ではないか。そんな物がなぜ市井の歯医者などに。
放射の放射を放射して光を増幅する(Light Amplification by Stimulated Emission of Radiation)装置は10×20×40cm^3の羊羹形篋体に収められ,先端がアンメルツヨコヨコ様に曲がった筆ペン体が光ファイバで連結されている。もはや診察台にも載せてもらえず単なる控え室に追いやられたおれは筆ペン体を右手に・ミッキーマウスの手鏡を左手に持っている。筆ペン体の先端はポポポポポポポとルビー色の間歇光を発している。地上に誰ひとり似合う者の無いサングラスを掛けさせるとかわいい歯科技工士ないし歯科衛生士は5分間レイザーを患部に当てるよう言っておれを置き去りにしてしまった。何だ何だ何だ。5分たつとピヨピヨピヨピヨ。はい,おしまいですよ。あーもすーもない。こ・これはナニモノですかと尋ねたら,レイザーを当てて凍みるのを緩和するのですとの簡素なお答えを賜わった。はー。
怪光線を浴びるだけの治療が1日おきに4回も続いた。全然おもしろくない。歯医者に通いながら痛くないのはおかしいてな理不盡な考えが起きる。凍みるのは薄紙を剥がすように改善されつつあるけれども,それがレイザーのお陰なのか時の流れが洗い出すままなのか判別できない。レイザーの出力は僅か6mWで筐体には「MILD LASER」などと書いてある。非常にいかがわしい。無駄じゃ無駄じゃとジャコウネズミの哲学がおれの内面から聞こえてくる。もう良いんじゃないの。
あー,ずいぶん良くなりました。少し嘘を吐いて治療再開である。右側はずっと軽いらしいのだけれど,いててててて。また麻酔を2本つかう。通常の倍量うつのだと医者は恩着せがましいが,痛いもんは痛いのだ。通常量が少なすぎるんじゃねえのか。人はみな痛みに気絶して文句を言えないのではないかと疑え。
右下のセットをもうひとつやって一応おしまい。歯石を取るからもう1回かよえと言われているが──歯石と歯糞とは違うのかな──治療はさせないぞ。
麻酔を掛けたあと半日はシビレ節である。口元がだらしなくなって,くわえたつもりのたばこが火の点いたままぽとりと落ちる。カップや缶から唇が離れたとたんコーヒをピューと吹く。涎がだらだら出る。舌が麻痺しないのは不思議だが本当だ。今タームは前歯だったせいか効果が著しい。上に打つと鼻の穴(の周りの肉だが)がびりびりして水洟たらしたまま歩いてしまい,下に効かせれば唇を噛んでも気付かない。きっとキッスもつまるまい。

不一

1995年5月1日


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ミッキーマウス
泣く子も黙るディズニーのメイン キャラ。昔はけっこうワルだったそうである。おれはマイティマウスのほうが好きだけど。

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無駄じゃ無駄じゃ
1stムーミンの脇役・ジャコウネズミの爺さん(役名わすれた)の口癖&人生訓。原作者トーベヤンソンはこの虫プロ版を観て激怒したそうだが,原画をトレイスして動かしても人気は出ないぞ。

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シビレ節
クレージーキャッツ映画『日本一のゴリガン男』のテーマ曲。放送禁止曲である。

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不思議だが本当だ
赤塚不二夫『天才バカボン』のパパの台詞。

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written by nii. n