神奈川月記9202

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冠省
就職して,紙が大きいのにびっくりした.
僕は端からずっとコンピュータ関連の会社に勤めており余所を知らない.だから断定はできないけれど,オフィスではA4判が書式の標準だろう.それまではB5判しか馴染みの無かったせいでえらく大きく見える.見えるばかりか現実に大きい訳だが,違和感よりもどうも勿体無いと云う気持ちが先に立った.

大学ノートやルーズリーフ(懐かしいね)は皆B5だし,今でこそいろいろ変型判もあれど雑誌の類もやはりB5が主流である.A4の紙なんて見た事が無かったと言って良いくらい.昔から産業界ではA4だったのかそれともA4への切り替えと僕の就職とがタイミングを同じくしたのかな.

周知の通り紙の基本サイズは全紙を半分・四半分と折っていった大きさである.全紙が1・その半分が2・四半分が3と順に番号を振っているのだが──0番の倍紙と云うのもある──ここでA列とB列とあるのが解らない.
A1は594×841mm2・B1が728×1,030mm2である.同じ番号ならA列の方が3割がた大きめになる.いずれの列にせよアスペクト比は黄金律たる1:√2がきっちりと守られ,ますますこの2列の存在意義を不明瞭にしている.

大きめと聞いて思い当たるのは飲料水に代表されるアメリカン_サイズと云う奴な.A4判の台頭はOA機器の普及と恐らく不可分だ.大小を問わずOA機器はまずA4をベイシックに規格されている.使用頻度で言うとA4・A3・B4,それからB5じゃないかな.
家庭用のワープロやファクシミリであってもお負けに付いているのはA4の紙である.合州国で生じたOA化の波が伝播するに連れ,用紙も大判が当たり前になって行ったに違いない.アメリカ人の生理に添うサイズが輸入され,そのまま使われているのであろう.

はてね.上は単票での話なんだけど,業務用となると両脇に紙送り用の孔の開いた連票を使う機会がぐっと多くなる.ところがこいつはA4判より更に大きい216×305mm2の連続紙なんだな.
メートル法だとぴんと来ないが実は8.5×12in.2である.合州国産ならこっちが本筋という気がするね.A1・B1は日本で作った規格なのかもしれない.にしてはこっちもえらく半端な数字だ,やはり何か別の単位系の換算と思われる.

A4で日常こまるのは便箋に使った時だ.コンビニなんかで普通に売ってる長形封筒にぴたっと収まらない.B5なら縦長に置いて上向きに2回折れば済むのに,A4では上・横と四つ折りになる.折り目が汚いし封筒がだらしなく膨らんでしかも半分すかすかと,みっともなくっていけねえやね.


いかんいかん,忘れそうなので慌てて書いとく.
暮れから新年に掛けて2度観劇をした.ヒデキ,観劇ー.

ひとつは映画で,言わずと知れた『キングギドラVSゴジラ』である.この前に観た(映画館で)のが85年の『ゴジラ』だてえんだから僕の映画の観なさったらないね.別に映画が嫌いじゃなくて,でもはっきり言って映画館は嫌いだ.暗く狭く寒く臭く映画を観る以外なにもできず莫迦が多いからである.今回の横浜東宝も暗く狭く寒く映画を観る以外なにもできず莫迦が多かった.
なにぶん子供相手を意識した映画だから莫迦の多く混じるのは止むを得ないのかもしれないが,上映中に旗を振ったり風船を飛ばしたりする莫迦の矮小で貧困で卑しい精神はいったい何だ.莫迦が.あんな莫迦は映画館の方で抓み出さないといけない.初日(91年12月14日)に行ったのがまずかったかな.
ゴジラとメカゴジラそうそう,封切り記念に怪獣を象った鉛筆キャップを配っていて,甘木が「'92ゴジラ」をみんごと当てよった.で「メカゴジラ」だった僕がすかさず奪った.

上映開始5分で飽きてしまい眠たくなるのが僕の常なんだけど,ゴジラには何故か強く惹かれて観たくなる.大半は駄作なのだが,時どき現われて破壊の限りを盡くし悠然と帰ってゆく──そこがキングコングとの決定的な差だ──と云うのは傑出したキャラクタである.腐ってもゴジラ.
内容は,まぁ覚悟していたほど酷くはなかった.プロットはちょい捻ってあるがゴリ押しで,脚本・科白・役者その外は全て並み,つまりかなりの低レヴェルだった.なかんずく特撮部分は目を覆うばかりで,ギドラの幼獣(と敢えて呼ぶが)なんか教育TVのマスコットかと思った.未来から来たサイボーグは600万$の男より古臭くてしょぼい.ガチャピンの方がよっぽど活き活きしている.
ただハイライト_シーン(2怪獣の決闘場面)はさすがにうまくできており,ゴジとギドラは目玉を除いて皮膚?感も出ていた.2体の縫いぐるみで予算を遣い果たしたのがよく判る.
だいたい画面が明る過ぎる.だから特撮もぼろが出やすいのだ.初代ゴジラなんか殆ど闇に紛れており,それで背鰭の光るのが妖しくも美しかったのに.
あ,キングギドラは確かX星人が連れてきた宇宙怪獣だった筈だ.地球産に改竄してはいかんな.
劇場予告に拠れば,今度『モスゴジ』を撮るそうだ.過去の名キャラに頼るのはずるいぞ.ってもたぶん観るだろうな,莫迦の居ないのを祈りつ.

もうひとつは明けて8日の『桂枝雀独演会』である.これは良いに決まっている.当夜のプログラムは別表を見てちょうだい.

桂枝雀独演会
92.1/8(水) 中央区中央会館
18:00 開場
18:30 『ろくろ首』 桂 雀司
18:45 『代書屋』 桂 小米
19:03 『三十石』 桂 枝雀
19:52 中入り
20:02 『時うどん』 桂 枝雀
20:25 閉演

18時開場18時半開演と云うのはちょっと早い.枝雀師,帰りの新幹線の都合かな.何とか開演には間に合ったが,他の客もみな滑り込みと云った感じだった.大人が仕事帰りに東京中から集まるんだぜ,19時が良いとこだろう.
会場の中央会館は銀座1丁目と2丁目の境で国電有楽町駅から昭和通を渡った所にある,と此処で偉そうに書いているものの当夜は迷いかけて,折りしもブッシュ来日記念警邏中のお巡りさんに訊いたのだった.
キャパは目算で7・800程度.3階席まであり,でも1階席が無いと云う「正気の沙汰でないと」劇場である.椅子はあんまり良くない.前から6列目の左翼席で,かなりオフセンタだが視界は良好だ.ただステレオPAと演者の肉声とが拮抗する位置に当たり,演者の頭の左上空から声が聞こえるのには困った.

例に依って弟子から先に上がる.
枝雀師の弟子はべかこを初め雀司・雀松・雀雀と有望株が揃っており──と言うか小朝のあと若手でモノになりそうなのは上方のしかも枝雀師の下にしか居ないのだ──どうしようも無い噺を聞かされる恐れは少ない.最初はその内の雀司が『ろくろ首』をやった.明るくて張りがあって僕は好きである.猫がじゃれる所のクスグリはもっとくどくやった方が良かったな,サゲは僕の知ってるのと違ってた.
次いで小米の『代書屋』,これはいかん,これはいかんかったぞ.『代書屋』は無筆で無学な客と代書屋とのやりとりだけで構成され,細かなギャグの連続体だから時間が来ればどこでも切れると云う便利な噺だ.「1行抹消.判を貸しなはれ,判を」と展開するのが常道だのに,小米は途中から「あんた戦争に行ったんか,何でお国の為に死なんかった」と代書屋を詰り始めた.あたしゃ唖然としやしたよ,今時こんなせりふがギャグとして成立すると考え得たか.米の字の付くからには米朝師の弟子(従って枝雀師の弟弟子)なのだろうが,こ奴のアンテナとセンスにはかなり問題がある.本当に米朝一門なのだろうか.枝雀師はこのネタと知って許したのだろうか.

気を取り直して枝雀師の登場,いきなり大ネタの『三十石』である.淀川を伏見・大阪間で往復する連絡船中が舞台となっており,みっちりやれば軽く1時間は掛かる.枝雀師,いまいち弾まない様子で,それでも三十石に乗る前に40分以上ついやしてしまった.どないなんのかいなと心配していたら,船中のみんなを眠らせて中途でサゲた.ふう.ぱちぱちぱち.
そう言えば松鶴師も同じ所で切ってたなー.上方じゃ全部やらないものなのかな,圓生師はいちおう最後まで持っていってたけど.

中入りの後は再び枝雀師で『時うどん』である.これが即ち例の『時そば』で,今でも時折り新聞の見出しに「時そばドロ」なんてのが出る.実は『時そば』は上方から移植されたネタなのだ.
現在東京で聞ける噺のうち純粋に江戸(東京)落語と呼べるものは存外すくない.ぱっと思い浮かぶのは『箍屋』と『大山詣り』くらいか.僕の感触では7割以上が関西に元ネタを持っている.総じてあっさり洒脱にリメイクされる訳だが灰汁と一所にパワも抜かれるようなところもあって,どっちも解る僕としてはやはり一長一短と言わざるを得ない.その中でこの『時うどん』は文句無く上方噺の方が面白い.
ストーリはお馴染みだろう.甲が担ぎの饂飩屋を千度ほめていざ勘定(16文) を払う段になると1文銭づつ手渡しながら数を唱える.
「ひとつ・ふたつ・三つ・四つ・五つ・六つ・七つ・八つ,おい饂飩屋,いま何どきだ?」「へえ,九ツで」「十・11・12・13・14・15・16と.あばよ.」
翌晩これを乙が真似して「ひとつ・ふたつ・三つ・四つ・五つ・六つ・七つ・八つ,いま何どきだ?」「へえ,四ツで」「五つ・六つ・七つ…」.

関東版で甲の単独犯行を乙が偶然物陰から目撃するのに対し,上方版では友達通しの甲乙が連れ立って饂飩を喰い甲の鮮やかな手腕を眼の前で見ると云う設定になっている.その方が自然で論理的だ.手口を教えてもらった乙が俺もやろうと言うのを甲はお前には無理だと止めるのだけれど,乙は甲の口跡から仕種からすっかりコピイすれば前夜の経緯を完璧にトレイスできると信じてしまった.実際まちがえたのは実行した時刻だけだったのだ.
九ツで行なうべきを四ツにするとは真夜中と夕暮れとを峻別しないとんでもない愚か者のように思えるが,よく考えたらそうでもない.この噺の設定年代では24時が九ツであり,以降2時間毎に八ツ・七ツ・六ツと下がっていく.四ツとは現代の22時なのだ.四ツの次はまた九ツに帰るのだから2時間ばかり早かったに過ぎないのである.従って乙をあんまり与太郎(喜ィ公)に描くとこの噺は失敗する.時計を持っていなければ誰にでも起こりうる錯誤なのであった.

以前かいた通り枝雀師匠にはひと頃と比べて停頓の感が否めない.どうも一度確立した爆笑パタンを意識的に壊しているようだ.その結果を僕は否と感ずる.
とは言えそれは非常に高度なレヴェルの,カール_ルイスが10秒で走ってしまったようなもどかしさ・歯痒さの境地である.凡百の噺家とははっきり一線を画する.この夜もぎゃははと笑って僕は幸せだった.

いやー,落語と云うのは良い.生を聞くのは何とも楽しい.是非また機会を作って行きたいね.


映像用にVCRを入れたのは88年の初頭である.単なるタイムシフトマシンがすぐレコーダに昇格,4年間で160巻余りの邪魔で手放せないライブラリを育ててしまった.
記録の対象はまた始まったかの演芸物が主体なのだけれど,パーセンテイジでは映画・ドラマの類が過半数を占める.オタクのようで厭だがアニメが多い.

160巻700タイトルともなると中には何でこんなのが這入ってるんだ番組も混じってくる.『帝都物語』『ジョーズ2』なんてのがそれで,消したくって堪らない.また2年間再生しなかったプログラムも一応消去チャートにランクインされる事になっている.
それらがテイプの最後に録画されていた場合は消去も撮り直しも簡単なのだが,後ろに良いのが続いているとそうも行かない.古い『ノリダー』や『ガキの使い』・珍らCFなんかのお陰で露命を繋いでいる輩も少なくないのである.

それで今の僕の基準からとうてい容認できない物を消す為に1回だけダビングして外へ写しても良いと云う内規を設けた.全くFM放送からカセットへヒットパレイドを作り込んでいた頃からの僕の悪い癖で,こう云う例外を認めるとどうしても気の迷いや間違いが生じ,逸品・珍品を失う羽目になるのだ.
あっと紙数が盡きた.後はあ〜したのココロだ

不一

1992年2月12日


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600万$の男
 合州国当局(どこだよ)が事故で重体になった男に承諾も得ず勝手に片目・両耳・片手・両足を機械化(サイボーグ)するというテレビ映画。メカと改造手術の費用が締めて600万ドル。男は600万ドルを返済できないので言いなりに危険な諜報活動を強要される,んだっけ。同じ目に遭った女はバイオニック_ジェミー。

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ガチャピン
 フジテレビ『ポンキッキ』のマスコット_キャラ。ういろう型の蜥蜴と思われるが,スキー・スクーバ・大気圏外遊泳なんでもござれ。

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正気の沙汰でないと
 所ジョージの初期佳作。

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あ〜したのココロだ
 放送局わすれたラジオ番組『小沢昭一の小沢昭一的ココロ』のエンディング極め台詞。おれが高校のころ聞いていた平日夕方の帯番組だったが,まだやってるかもしれん。

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written by nii.n