神奈川月記9110

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冠省
オペレイションCの続続続続報である。
日本で主食と言へば米だ。米の国が米の字の国にガタガタ言はれても米に関してだけは引き下がってはならない。それはさて置き米の飯ばかり喰ってゐては飽きる,てな事はないがたまには違ふものも喰ひたい。米の次ぎにうまくて飽きないのは,麺でせうな。パンは所詮おやつか,或るいはその場しのぎの域を出ないやね。

栄養価や腹持ちは別として,僕の好みでは蕎麦・饂飩・ラーメンの順になる。蕎麦と言ってもシナ蕎麦でなく,日本蕎麦。日本蕎麦とわざわざ断るのは業腹なので単に「蕎麦」と書く。蕎麦の中でも汁物・種物でない,モリやザルの方である。両者の区別に確信があるのぢゃないが,海苔の掛かったのがザル・素っ裸のがモリと一応解釈してゐる。更にザルとモリとではモリの方が好ましい。啜り込むのに海苔は邪魔なのだ。

全く昔はものを思はざりけりで,学生時分は蕎麦なんぞ滅多に採らなかった。蕎麦をうまいと思ふやうになったのは就職してからである。ただし歳を取ったからとか東京の蕎麦がうまいからとか云ふ理由ではない。いつか記した通り社員食堂のごはんが滅法まづい,それで比較的ハヅレの少ない麺類方面へ逃げると云ふ事が続いて蕎麦に慣れた。
まぁ他府県より蕎麦好きを多く擁する東京の土地柄もあらうが──『時蕎麦』は上方では『時饂飩』である。『蕎麦清』もオリジナルは餅を喰ひ過ぎる噺なのだ──慣れてしまふとシンプルでスピーディでこなれが良く,しかも貧乏臭くない。誠に重宝である。

ところで前前段の順位にはスパゲッティが出てこなかった。つまり南欧の雄スパゲッティが僕は好きぢゃない。たはけた歯触はりにやたらと吐血ゲロみたいなトマトソースを掛ける。あんな物を喰ふのは嘘吐きと泥棒ばかりだ。
と思ってゐたら,やっぱり物には例外がある。蕎麦でもさうだがうまい店はさうあるもんぢゃあなく,うまい店に当たればちゃんとうまいのだった。

以前ドリアが大変よい出来だった店で意を決してスパゲッティを誂へてみると果たして期待を裏切らない。文句無くベスト_スパゲッティ賞を進呈して爾来贔屓にしてゐる。
その店のカウンタに初めて座り「菠薐草ときのこのクリイムソース」を待ってゐると,いきなり両眼がちくちくちくちく猛烈に痒くなった。充血してゐるのが自分でも判る。こりゃ堪らんと云ふのでコンタクト_レンズを外しに掛かったと思ひねえ。裸眼に戻れば痒みは忽ち去ったけれど,一度はずしたら洗浄しない内は二度と装着できないよ,お立ち合ひ。矯正視力はすっぱり捨ててそのまま持ち帰る事にする。不精をして携帯キットは家に置きっ放しである。
ハンカチの上にレンズを並べておいて,左右を間違へたらアウトだからもう1枚とり出し──僕は常にハンカチを2枚用意してある。鼻水ずるずるのとき1枚では足りない場合があるからね──別別に包んでズボンのポケットの左右にしまはうとしたら,右のレンズが,無かった。
忽然と消えてしまった。あちゃー,遂にやったか。カウンタの上を触診し床もひと通り_目視してみたものの,固より半分弱視では見付かる道理も無い。
最初の1枚はすぐに無くすヨと前に甘木から聞かされてをり,僕も覚悟はしてゐた。僅か3箇月の寿命であった。2万2000円は痛いがやんぬるかな。観念しよう。

ところが連れが諦めない。連れは乱視気味でやはりコンタクト_ユーザであって,身につまされるのかもしれない。いいよいいよと言ふのにカウンタの下に潜り込むやうにして捜してくれるのを泰然と眺めてゐられるほど帝王ではないから僕もごそごそやってゐるとまづ店の姉ちゃんが気が付いた。コンタクトを無くされたんですかと椅子をずらしてスペイスを空ける。兄ちゃんも,見付かったら連絡するから電話番号を書いといてくださいと言ふ。
だんだん大袈裟な事になってきた。
コップの水や果ては前菜のスープの中まで疑ってみたが頑として行方は判らない。他の客も巻き込みかねず営業に差し支へさうな状況は本意でなく,注文のスパゲッティが茹で上がったところでちょんにしてもらった。申し訳ない。平身低頭である。

スパゲッティをおいしく戴きながら考へた。コンタクト_レンズに破損保険はあっても紛失保険は無い。破損の場合も断片を持って行かないと認められず,無くしたのを壊したとごまかす不正も働けない仕組みになってゐる。両方なくしたのなら作り直すのにまた4万4000円も掛かり,2度目は少しは安くなるのかもしれないがいづれ小さい金額ではない。メンテ用ケミカルの残量を鑑みてもコンタクトの継続は否だ。しかして今回は片方だけだから2万2000円,コンタクトを止めて眼鏡を作るにしてもそれくらゐは必要である。第一まったく転用の利かない左眼のレンズをただ保管しておくのは性に合はない。と言って捨ててしまふ度胸は無い。せっかく馴染んだのにあっさり眼鏡の戻っては余りにつれない。仕方無い,明日の朝はフレックスにして横浜コンタクトに寄らうかな。

残ったレンズを大切に包んで***に帰った。ぼやけた目で部屋の錠を開けようと財布を探ると──鍵は小銭入れのキイホルダに留めてある──ちらりと何か光った。あっ,何と言ふ事だ。ピンクの透明なプラスティックが財布のポケットから覗いてゐるではないか。
いやー,奇蹟と云ふものは起こるもんでげすな。さんざん捜しても見付からない筈だ,ひと足先にポケットへ這入り込んでゐたのだ。うむー。僕を含めて5人の方方,お騒がせしました。どうぞ御安心ください。
それにしても卓上のハンカチからズボンのポケットの小銭入れへ瞬間移動とは,一体どう云ふ空間屈折の魔術であらうか。この不可思議はマリックでも宜保愛子(関係無いか)でも解き明かせはすまい。え,ハンカチを出す時に指に喰っ付いてたのが財布に触はったら落ちた? やかましい,僕がそんなドジを踏むものか。

9月10日は3箇月目の定期検診(コンタクトの)の日だった,すっかり忘れてた。ははぁ,この事件はコンタクトからの警告だったかな。11日遅れで診てもらひに行く。
購入当初にあった見え方の不満(輪郭の不鮮明・人工灯の滲み・装着の異物感)はこのところ影を潜めてゐる。眼に馴染みきって消えたのか単に鈍くなったのかは判別できない。
ところがお決まりの視力検査をやってみたら,前ほど成績が良ろしくない。右も左も,ちょっと矯正が甘い・をかしい感じだ。担当の姉ちゃんも気にして補正レンズを取っ替へ引っ替へ,これとこれとどっちが良いですかなんて訊いてくる。まづいぢゃねーか。

どうも右の方が酷いみたいだ。ひょっとして紛失事件の時に傷でも這入ったか。調べてみませうとマニキュアの指で抓んで姉ちゃんが持って行った。ややあって戻ってくると,「左右を間違ってらっしゃいますね」ありゃ。
「外す時いっぺんにやらないで,右・左の順番を決めておくと間違へませんよ」ちゃんとさうしとったんやー。「嵌めてみてどうも見え方がをかしかったら間違ってますから」御尤も,でもそんなん判らへん。

誠に不細工な事件が続いた。左右を入れ替へて再検査をしたらば,異状無しである。何だかなあ。いやはや,面目無い面目無い。


暗転。


国電大森駅にたうとう自動改札機が登場した。数年来山手線の一部駅(あんまり乗降客の多くなささうな所)を皮切りに順次自動化を進めてゐた国電が遂に大森に魔の手を伸ばしてきたのだ。
2・3週前から改札口の工事をやってをり,単に改装するだけかと思ってゐたら予告無しのこの仕打ちである。迷惑な話だ。

自動改札ってのは何だよなー,乗客には何も良いコト無いんだよなー。多少ながれが速くなるのかもしれないがそんなの改札員が増えれば済む事だ。キセル防止に人員削減に見映えの良さに自己満足に,ぜんぶ国電(僕はまだジェーアールなんて口にしたくない)の都合だもんね。いちいち定期券を引っ張り出すのは煩はしいんだよ。そりゃ国電の都合だけで機械化しても良いけどよ,そんなら「人との触れ合いを大切にします」ふうのコピイなんか掲げるなよな。自動化たち上げ当初にあの惹句を見た時には余りの裏腹さにひっくり返ったぜ。おまーらから触れ合ひを断ち切っとるんやんけ。

いま大森駅では自動改札機の説明案内をエンドレス_テイプで垂れ流してをり,酷く囂しい。そのうち止めてくれるんだらうな。
でもおっさんが,何だい面倒臭いなぁと言ひながら嬉しさうな顔をしてゐたので,この機械化は成功である。とほほ。自動改札用の定期入れ買ふかなあ。

不一

1991年10月1日


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written by nii.n