神奈川月記9107

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冠省
地球には何万種もの生物が住まってをる。大別すれば動物と植物,脊椎動物と無脊椎動物・被子植物に裸子植物,細分すれば,あー,詳しくは図鑑を見てくれ。
門・綱・目・科・属・種と今は系統分類が主流である。系統とか進化とか言ふと後から出てきた者ほど高級なやうに採られ勝ちであるが,勿論ぜーんぜん関係は無い。生物の種の別とは,ワシはかう云ふ遣り方が良いと思ふぞと言ふ各各の見解の相違である。換言すれば思想の違ひである。いま人間がはびこってゐるからと言って人類が進化の最終形態あるいは最終形態に最も近い段階にあると考へるのは傲慢であり誤謬であり不遜である。犬猫お猿は固より鳥・草・ゾウリムシ・バクテリア・ウイルスに至るまで,みな良かれと思ってやってゐるのだ。思想なくしてかやうに種種雑多な生物が溢れ返るものか。

定形進化説は間違ひ,用不用説も間違ひ,突然変異説も間違ひ。例へばキリンは突然変異で首の伸びたのが固定したのではなく,首を伸ばさうとした結果として首が伸びたのである。また高い所の葉っぱを食べたくて首を伸ばしたのではなく,まづ首を伸ばしてみたらどうかしらんと考へて首を伸ばしてみたら高い所にも葉っぱがあったのである。
突然変異種は概して生殖能力を持たないからたまたま環境に適した個体が現はれても次代へ続かない。第一1体や2体の優良種が出たところで大勢には何ら影響しないものだ。やはり種の全員が一斉に体システムの変更を志して初めて進化は行なはれるのである。このままで充分だと考へてゐる連中に進化は生じ得ない。

自然発生した生物とは別に,人間が作り出した生命体もある。言ふまでも無く機械がそれである。人間の進化の一部として生み出されたせゐか未だ思想は持ってゐないやうだが,意思は明らかに有してゐる。単一用途だけに強力なものだ。しばしば使用者の意思を飲み込んでしまひしかして自身ではコントロウルはできなくて使用者もろとも破滅する者も多い。銃器・自動車・TVゲイムなどは特に意思の強い連中である。

思想の違ひは主に形態の差となって現はれる。猫・馬・鮫などは誠にすばらしいデザインで,どんなもんぢゃいと自慢の声が聞こえてきさうだ。
当然機械にもデザインはあるが,これまた当然ながら何万年まっても変化はしない。製作者の与へたデザインが製作者の思想を越えやう筈も無く,その代はり意思を隠蔽する或るいは強調するデザインを採る事も可能である。
徹底的に意思の体現化を目標とすると無駄をそぎ落とした形になって,面白みは欠けてくる。それでも機能美と云ふ言葉があって兵器などの形容によく遣はれ,なるほど戦闘機や戦車には見事なデザインの物がある。しかしあれとても人が乗り込んで操る道具だからまだ装飾性の這入り込む余地があるし,むしろ積極的にデザインしないと士気に関はる。
同じ兵器でもミサイルほどの単一使途に至れば外殻は単なるケイスであれば良いのだが,余りに幾何学的なシルエットとなって美しいとか恰好良いとかの範疇から外れてしまふ。どうしようも無く禍禍しさが滲み出るばかりだ。

80年のケルン_モータショウにスズキが奇妙なバイクを出展した。斬新にして鮮烈・流麗にして妖艶なそのデザインには皆びっくり仰天,何や何やーと云ふので大騒ぎになった(はー,長い振りだった)。
このバイクはドイツの工業デザイナ・ハンス_ムートの手になるイメイジ_スケッチから起こされたプロトタイプである。日本刀がモチーフに採られ,その名もずはりカタナと云ふ。今でこそコンセプト_カーとして乗れもしないバイクが参考出品されたりもするけれど,当時の二輪モータショウはまだ実用オンリの発売予告発表会に過ぎない。
今にも走り出しさうなスタイリングに挙ってやんやの喝采を寄せといたら,実はスズキは本気だった。何とそっくりそのまま市販してしまったのである。随分みんな驚いた。

1100cc・空冷並列4気筒の巨大なエンジンを抱え,大きく頬を張り,銀色に塗装された姿は動物で言ふと鮫に似てゐる。カウルをカリ・ガソリンタンクを亀頭に見立てればまるっきりちんちんだ。2トーン_シートの質感も頗る上等だし,角型・単眼のヘッドライトも2本リアサスも効いてゐる。極めて高次元でヴァランスし,恐ろしく魅惑に富んだスタイルなのである。

当初は欧米向けの輸出専用車だったが余りに恰好良いので逆輸入が大はやり,スズキも750cc版を出す事にした(当時も今も日本ではオウヴァ750ccを販売できない)。
さて蓋を開けてみたら待ち焦がれてゐた日本のファンは皆こけた。憧れのカウル_スクリーンは外され(当時日本ではカウルが認可されてゐなかった)レイシィなクリップオン_ハンドルは間抜けなアップ_ハンドルに替へられ(当時日本ではセパレイト_ハンドルが認可されてゐなかった),カタナの急所は狙ひ撃ちにスポイルされてをり,これぢゃ耕耘機だ。
カタナのオウナは買ってからガソリンを入れるより先にクリップオンに交換した。明明白白な違法改造なので警察は取り締まりに躍起となり,カタナと見ると停車させて切符を切った。これを日本史実に準へて「カタナ狩り」と呼ぶ(これ本当よ)。

やがてスクリーンが付きマークIIでハンドルは若干みぢかくなった。が,旋回性能向上の為フロント_ホイールが小さくなり,視覚的にヴァランスが悪い。
タイプIIIからはどう云ふつもりかムートの意匠を捨ててしまって日本人デザイナが担当してゐる。似せてはゐるもののリトラクタブル_ライトなんぞを載せたりして色も白,こんな物はカタナではない。名前を継いだだけ憎い。
そしてマイナ_チェインジのIV型が最終版となり87年にカタナは消えたのである。

通常カタナと云ふと83年頃のマークIIを指すが,本物はやっぱり1100カタナである。カタナの人気はむしろ生産完了後に沸騰し,極上品は中古市場で200万円(新車時のほぼ3倍)などと云ふ破格値で取り引きされた例もある。年式の新しいほど安い前代未聞のモデルなのだ。
カタナのスタイリングはオリジナル段階で完成されてをり,些かの変更も許さない,モデル_チェインジの度にファンを失望させた事が如実に証明してゐるではないか。
カタナは名実共にスズキの最高傑作である。もちろん限界性能で最新のバイクに敵ふ筈も無いが,あのデザインならエンジンがどんなに時代後れになったとしても充分お釣りが来る。正に伝家の宝刀だ。
昨年1000台限定で復刻版1100カタナを出したところ,120万円と云ふ売価にも関はらず即完売になってしまった。そして更に今春250ccのリーズナブル_クラスで量産を再開した。何と云ふ事だ。何と云ふ事だ。伝家の宝刀は抜くと見せて抜かないところに価値があると云ふのに,スズキはずっぱり抜いてしまったのである。次は400ccモデルだらうと噂が囂しい。僕は今,血が騒いでゐる。


**(特に断はらない限り*****本社の事と思って戴きたい)には文化部が17・体育部が17あるさうだ。その中にバレーボールやサッカーが這入ってゐるのかどうかは知らないが,茶道部やスキー部はよく部員勧誘のポスタが掲示板にあり存在は確定的である。しかし僕の周りにそんな部員は見た事が無い。
それらのクラブを統括するのに事務局が設けられてをり,それがどう云ふ訳か年に1回噺家を招いて落語会を催してゐる。誠に好企画,もちろん無料である。

前前から興味津津で行って見たいものだと思ってゐたのだけれど,未だに果たしてゐない。と言ふのも会場が****の本社屋と遠いのと,呼ばれる噺家が三遊亭のセコなのばかりだったからだ。いつか円歌が来ると聞いた時にはかなり食指が動いたが,結局断念してゐる。
今回の会は9月の定例とは別にイレギュラで設けられたものだ。場所は**ビルである。**とは**に於ける**の**の拠点を表はす略称なのだが,本当は***ビルが正しくてかの自動車メイカの持ち物である。**は7階から上を借りてゐるだけなのに**ビルとはちとづうづうしい。
**は僕の仕事場(**)から歩いて5分足らずの至近地にあって,これ以上無いと云ふやうな至便地である。そして演者は三遊亭楽太郎だ。いくら場所が良くても料金が安くても演者が滓なら時間の損と云ふ事がある。その点楽太郎ならまづ不足は無い。只・**・楽太郎と三拍子そろった。見に行かうっと。

**の最上17階は社員食堂の一角が会場である。ビルが新しいだけにきれいな食堂で,内装も割と金が掛かってゐさうだ。夜景もなかなか映える。
テーブルを幾つか並べた上に毛氈を敷き,分厚い紫の座布団を載せて高座を作る。舞台は貧相でも後ろの金屏風は6葉の立派な物だった。ライトは多分ヴィディオ撮影用の白熱球が4基,PAは──この会場なら不要だらうに──ボーズである。****使へ。
客席は社員食堂にしてはちょっぴり豪華なプラ椅子を並べてホール落語ふうになってゐる。ざっと数へて150と云ふところか。
僕は開演15分前に着いたのだけれど,先客は2割も満たしてゐなかった。まづいぢゃねーか。前から7列目中央のベスト_ポジションに陣取り,この入りでは思ひ切り手を抜かれるかもしれんなあと案じつつ待ってゐると驚いた事にするすると埋まり始め,間も無くほぼ満席の状態になった。い,意外だ。ハネて帰る時に見たら立ち見も結構あった。本当に意外だ。
高座との落差は1mかそこらで客席の方は椅子を単に並べただけだから,前に誰か座ったらもうアウトだ。視野の8割が後頭部のどアップになる。これがまた爺いが多くてむやみに座高が高いんだ。多少オフセンタになっても噺家の手元が見える方を採らないとライヴの効果半減である。でか頭の隙間を縫って視界を確保するんでづりづり擦れて行ったらたうとう端っこまで来ちまった。悔しいが仕方が無い。

定刻に始まり,しかし5分ほど文化部長の挨拶が付く。とっとと引っ込め。
楽太郎の独演のやうに書いたが弟子がふたりばかり先に上がる。回覧にはちゃんと三遊亭楽太郎一門の出演と謳ってあったからアンフェアではない。初手は竜楽で『青菜』をやった。続いて道楽の『大安売』(これ,途中まで)。
竜楽が入門六年目・道楽(僕と同い歳)は9年目の,共に二ツ目である。はっきり言って下手糞だがかう云ふ生の場では,うんうん精進しいやと大らかで暖かい気持ちを以て聞ける。笑ひ所もある。『笑っていいとも!』なんかに顕著な白痴笑ひも,やっぱりちょっと(ちょっとだけね)割り引いてやらねばならない。終はって座布団とメクリを返すのも自分でやってゐた。微笑ましいね,どうも。

中入り抜きで楽太郎の登場だ。さすがに下座は無く,出囃がテイプである。楽太郎自身さう巧者でもない。うまくならないなぁといつも思ふのだがそのうち化けるやうな気がして僕は好意的に見てゐる。当夜は『西行』と云ふ珍しい話を演じた。

いったい落語の会では当日だれがどの噺をやると云ふやうな事は予告されないのが普通である。これは寄席の現場を考へてみれば得心が行く。
掛け持ちをして後から楽屋入りするケイスだと,噺家はまづその日のネタ帳を調べる。泥棒ネタは出てるな,丁稚噺は出てるな,与太郎も出てるな,んぢゃ若旦那の噺にしようかしらんと1日の興業としてのヴァリエイションを付けねばならない。更にその場でネタを決めて上がっても,例へば『景清』(身障者ネタ)を掛けようとして場内を見たら客に盲人が居たてな場合,もうその噺はできない。坊さんを前に宗教ネタは振れない。
つまり後から高座に上がる者(真打の中でも大トリを取れるだけの人)ほどネタを多く持ってゐないと面目を保てない事になる。予め演目を発表する方が却って危険なのだ。何が言ひたいかと言ふに,要するに僕が噺を聞いてそのタイトルをたやすく此処に書けると云ふ精通ぶりを自慢したかった。

『西行』は20分程度の噺であるにも関はらず,楽太郎は40分やった。ストーリは切り詰めるのは簡単でも引き伸ばすのは難しい。その分マクラや脱線が長い訳である。『**落語寄席』(殆ど二重形容と云ふ気がする)なので当然**ネタが折り込まれるのだけれど,これにはあんまり感心しなかった。

ビートたけしの登場以来客を莫迦にして笑ひを取るのが主流になってしまひ,楽太郎も手軽にこの手を遣ふ。
一番ひどいのは売れない漫才師の地方巡業で耳にする奴だ。NHKラジオの『上方演芸会』や『真打ち競演』は僕の重要な録音ソースなのだが,お目当ての落語の前に漫才や漫談がある。巨人阪神・いとしこいしのやうなトップクラスは滅多に出ず──それは落語で米朝・小さんクラスが滅多に出ないのと同じだけど──さりとてダウンタウン・浅草キッドのやうな新進気鋭も出ず,20年30年選手の,それはそれは面白くなーい人達が面白くなーいネタをやる。
会場は大抵ナントカ県ナントカ郡ナントカ町ナントカ体育館てな所(一説には受信料の払ひの悪い所へNHKの権威を振り回しに行くのだと云ふ)が多くて高高数百の爺婆を相手にして,何も無いとか電車が来ないとか若い者が居ないとか非常に聞き苦しい事を選んで喋ってをり,明らかに地方差別だ。差別用語が直接露出しなければ平気で放送するNHKの本質が垣間見られる。
これが理解し難い事に爺婆に非常に受けるのである。それを喜ぶ客もいかんが,噺家の基本はやはりヨイショである。先代の金馬並みに卑下しなくとも構はんけれど,もっと気を遣ふべきだ。ある日突然総すかんを喰らふ事になりかねぬ。

『若竹』に客が全く這入らなかったなんて話はむちゃくちゃに面白かったのだ。そっちの線で行って貰ひたい。

**落語寄席
91年7月12日(金) ***ビル17階
18:15 開演
18:20 『青菜』 三遊亭竜楽
18:40 『大安売』 三遊亭道楽
19:00 『西行』 三遊亭楽太郎
19:40 閉演

タイム_テイブルを書いておく。
予定時刻を10分こしてゐる。
トウタルでなかなか良かった。金の事を言ふのは厭らしいが,1500円くらゐの木戸銭なら大満足であらう。それを只で見たのだから当夜は3000円の価値があった,この計算をかしいかな。
やっぱり生は良いねと云ふのが,ありきたりだが正直な感想である。次回は9月の予定だ,場所は御茶ノ水に移るのだけれど極力いって見たいと思ってゐる。

不一

1991年7月19日


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当時も今も日本ではオウヴァ750ccを販売できない
 今はできる。(0.2/20記)

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written by nii.n