神奈川月記9105

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冠省
コンタクト計画の続報である。これをオペレイションCと名付ける。
コンタクトレンズは医療器具なので,購入に当たっては専門医の診断書が必要とされてゐる。眼科なんて数年前の自律神経失調騒ぎの折りに徹底検査の一環として掛かったきりだ。何ともなくてそれから無縁坂だったが,かうなると行かないでは済まされない。尤も億劫ではあっても嫌ひではない。今年から月に1日は休める程度に年休が増えた,ちゃうど良ろしい。

当然ながら懇意なお医者様は無く,電話帳で近所を探索する。
**にある西友の別館に良ささうなのがあった。華やかな売り場の一郭にテナントとして営業してゐるのかと思ったら,実際にはその別館だけちょっと離れた所に建ってをりさうしてグッズはひとつも置かれず,何と言ふか,さながら,病院船のやうだった。入口は狭く小さく,皮膚科もあったりして,んんんんんんと云ふ雰囲気だったけれど今さら他を捜すのも業腹である。ためらひは捨てた振りをして,息を止めて這入った。
コンタクト用の処方箋は全ての眼科医が発行してくれるのではないさうだ。僕の行った眼科**クリニックもさうだった。来意を告げると,検眼だけは行なってその筋への紹介状を書いてくれると言ふ。近視は相当すすんでゐるしこのごろ目玉がずいぶん濁ってきた。ちょっと思惑から外れたもののこの検査が徒労に終はる事はあるまい。
かなり突っ込んだ試験が為されて結果は異状無しだった。眼底まで覗いて変異が無ければ脳味噌の具合もまづ大丈夫である。ハードレンズになさいとのお診立てを頂戴したが,果たしてソフトレンズに適した眼とかハードレンズに向く眼とかがあるのだらうか。

コンタクトにハードとソフトとがあるのは広く知られた事実である。普通ハードは機械でソフトはプログラムと解されてゐるが──普通かなあ──コンタクトの場合はストレイトに「固い・柔らかい」の別と考へて差し支へない。
ハードとソフトとどちらが優れてゐるのか。それはソフトレンズに決まってゐる。
双方ともプラスティック製なのは変はりないが,親水材を用ゐて涙を取り込むとぐずぐずになるやうに作られたのがソフトレンズである。ハードが蓋をかぱっと被せる物なら,ソフトはぺたっと貼り付けるイメイジになる。眼球と完全に一体化するからずれないし異物感も無い。
また含水率の高さは酸素透過性の高さと同義であり,従って連続装用時間を長く取れる。レンズの酸素透過性が問題になるのは,瞳が人体で唯一血管を持たない組織だからである。角膜の代謝は全て涙を介して行なはれる。所所に穴の開いた鉄仮面より薄いスポンジのマスクの方が呼吸は楽だ。ソフトレンズは比較的自由に涙を流通するのである。
反面あつかひはデリケイトを極める。含水率が4割を超えるので毎日使用後に完全な塩抜きをする必要があり,ちょっとでもサボるとレンズ内で涙滴中の蛋白質や脂肪が固まって簡単に白濁する。さうまでしても寿命はたかだか2年である。そのくせ値段はハードの倍くらゐする。レンズと瞳の間にごみなんかが挟まってもなまじ装着感が良くて痛まないものだから,角膜をざくざくにするまで気が付かない。付け焼き刃の努力では如何ともしがたい,生来のまめな性分を以てして初めてソフトの主となれるのである。

賢者は己を知る。言はれなくともハードにしようと思ってゐた。後で**先生がソフト嫌ひで有名な女医さんだと判ったのは,偶然であって必然ではない。

紹介を受けた*****横浜コンタクトに出向いたのは8日後である。こちらはエレヴェイタが8機もあるやうな小綺麗なビルに収まってゐた。コンタクトの専門クリニックとかで,厳密に言ふと横浜**ビル眼科と*****横浜コンタクトとの合体店舗である。前述の通り処方箋は戴いてゐないので,もう一度検眼はしなければならない。
この頃の視力検査はCの字がどっちを向いてるか答へるのが主体でスピーディなのは結構だが,中には訳の解らんのもあって返答に困る。時計の文字盤のやうな放射線を見せといて,何時方向の線が濃く見えるかと尋ねられても,そんなんどれって決められない。あれは何を調べる検査なのかねえ。

さてコンタクトレンズを作るつもりで来店したのには違ひ無いけれどまだ僕が何とも言はない内に,やっぱりハードが良ろしいでせう,普通の酸素透過レンズで構ひませんね等と話を勝手に進められたのは面白くない。あなたの目玉が健康である事は判りましたが如何がなさいますかくらゐは訊いてもらひたかった。
試しに入れてくれた度無しコンタクトが堪らん程ごろごろちくちくする。とても目を開けてゐられない,程ではないにせよ,この不快感は相当なものである。果たしてこんな物に慣れたりできるものだらうか。不安の黒い翰が張り出してきた。

5月の連休が明けて(10連休だった)レンズはできた。ただ受け取って帰るのではなくて,ひと通り説明を聞いてから脱着の練習をする。これが大変だった。
右の人差し指にレンズを載せといて両の中指で上下の眼蓋をおっ広げ黒目にそっと被せるのが装着の作法である。僕は怖れなのでどうしても直前で瞬きをしてしまひ,睫でレンズを弾き飛ばす。瞬きを摺り抜けてレンズを放り込むと白目に着陸する。とても痛い。むろん白目から黒目にずらすテクニックもあるにはあるのだが,レンズの縁で角膜をスライスしそうで及び腰になり黒目の周りを1周させる。とても痛い。100万回トライしてやうやう白くなりゆく山際,黒目に落ち着いてもごろごろちくちくびりびりして瞬きを1秒に2回する合ひ間にしか外界を見る事ができない。とても痛い。外す時は目を自力で見開いて目尻を引っ張り,そのまま瞬きをする。それで上下どちらかの眼蓋がレンズの縁に引っ掛かって,ぺりっと剥がれる筈なのだ。これが200万回やっても埓が明かない。いったん引っ掛かりはしてもがくっと外れてただの瞬きになってしまふ。とても痛い。ソフトの場合はもっと凄くて,黒目を指で抓みレンズをふたつ折りにするやうにもぎ取るのださうだ。ぐおおおお。

1回の脱着で身体中の血液が目玉に集まり,これがちんちんならディック_ミネも短小を恥ぢようと云ふ充血具合なのだった。
クリニックの兄ちゃんは,慣れるまでは皆さん苦労なさるんですよと慰めてくれた。しかしながらどうも,不器用ですからのレヴェルではないやうな気がする。根本的に相性が悪いのではないか。そして恐ろしい推論ではあるけれども,オペレイションCは予め失敗を約束されてゐたのではないだらうか。

**クリニックが誂へたのは『HOYAのHARD/OP(ピンキー)』で「瞳フレッシュ,思いやりと酸素がかようハードコンタクト」なる惹句が付く。名の通りレンズには薄くピンクの色が載ってをり,と言って世の中が桃色に見えると云ふ訳ではない。直径は9mm,重さの方は測定限界以下である。
代金は,覚悟の上ではあれどそれにしても高いね,単価が2万2000円もする。双眸で4万4000円。体積比・重量比でこれほど高価な商品が外にあるものかしら。それにメンテ用の各種ケミカルが必要だからプラス6000円と云ふ事になる。

ハードの手入れとしては毎日の洗浄があるだけだ。コンパウンド入りの洗浄液(ピュアクリーナー)を2滴たらして掌と指先とで磨き,水道水で濯いだあと保存液(ピュアソーク)に漬けておくのである。どちらも成分は不明である。
ピュアソーク(糞をひっくり返したのではない)はただの生理食塩水かと思ったら,もっと粘性のあるシリコーンか水飴みたいなゾルだった。実際にはこれだけでは足りなくて,更に堆積有機物を溶解する除去剤(ハードケア)を用ゐて金を遣へと書いてある。

初日は僅か3時間,以降毎日1時間づつ使用時間を延長していく。1日分の涙の定量を徐徐に上げる為である。10日から2週間で終日(16時間)装用に持ちこみ,1日やすんだら2・3歩さがった所から積み上げ直すのが基本ルールらしい。
連休の前に入手してあれば難無くコンタクトに移行できたものを,今となっては時間が取れない。脱着も覚束無いまま仕事場へ着けては行けず勢ひ練習は帰宅後の数時間に限られるのだけれども,あいにく忙しくて家に戻るのは毎晩23時過ぎだ。着脱がへたくそで痛い思ひをするのも手伝って,最初の週は殆ど裸の儘で過ごてしまった。

練習を怠り当たりも付かない内に言ふのも何だが,コンタクトと眼鏡とではやはり大きな違ひがある。
まづ顔が軽い。僕の眼鏡は35gと軽量級ではあるけれど,あると無しでは35gもの差が付いてしまふのだ。また視野に眼鏡のフレイムとその外側の非矯正ぼやけ景色が這入らないから実効可視領域(サーヴィスエリア)が拡大される。印刷物の活字が心持ち大きく見える。
翻って街灯やヘッドライト等の光源が滲んで映り──涙のせゐ?──夜景が楽しくない。それに物体の輪郭が何だかはっきりしない。視力検査では1.2もの数値を叩きだすのだが,もう少しシャープに見えても良いやうな気はする。正常な裸眼視力をふた昔も前に失ってをり比較する術を持たないのが残念至極である。
もうひとつ気になるのは,コンタクトを外して眼鏡を掛けたとき真っ直ぐ歩けないほど頭がふらつく事だ。視覚情報がかなり異なってゐるのぢゃないか。脳がまごついてゐる感じなのである。

顔と云ふのは半分は他人の物であり自分の都合だけで髭を蓄へたり落としたり髪型を変へたりしてはいけない,急に人相が変はると人が困惑すると百鬼園先生から教はった。僕の丸眼鏡は登録商標(トレイドマーク)あつかひなんださうで,僕の真似と思はれるのが癪で角眼鏡にしましたと云ふ話も聞いた事がある。幸ひ似合ふと言ってもらへるし僕もいきなり爆弾魔面を晒したくはない。
それにちょっと実験したい事がある。現用コガタナ眼鏡に酷似したダテ眼鏡を掛けて素知らぬふうを装ひ,いつまで気付かれずにゐられるか試してみたいのである。もし全然だーれも気付いてくれなかったら,淋しいけど自分でばらす。

買ってきたダテ眼鏡は如何にもダテ眼鏡であって,レンズ部分も単なるプラ板だ。コガタナ眼鏡の超高屈折マルチコート仕様とは月に朱盆・提灯に雁高,ぺかぺか反射して真っ白になる。こりゃ見られた瞬間にばれてしまふなあ。えい,ままよ,先の土曜日休出(休日出勤の略ね)した折りにやってみたら,豈図らんや別段なんとも言はれなかった。はーん,さう云ふもんかね。

これからの季節そとは眩しくて堪らない。是非サングラスを掛けたい。僕はことサングラスとなると何でも似合ってしまふから形はどうでも良いのだが,偏光フィルタだけが分離してをりかぽんと嵌めるタイプの物が何事に依らず無駄が無くって好都合である。大森の西友にこの手合ひがあるにはあるが糞高い上に山本寛斎デザインでちょっといやらしい。
その代はり1000円ので面白いのがあった。例に漏れず丸眼鏡である。素通しとサングラスとの二重構成なのは同じなのだが,両者はひとつの蝶番で結合されてゐる。左右独立でそれぞれを上方45度に向かって開けば素通しの眼鏡,被せればサングラスになる訳だ。色は濃いグレイで目配りは見えない。
レンズ径46mmの真円型・35g,遺憾ながら軟質樹脂の鼻当てが付いてゐる。蔓が若干みぢかくて耳の後ろがしっくり来ない。サングラスを素通しレンズに対して直角に上げると──225度まで開く──重量ヴァランスが狂ひ,えらく重く感じられる。遮光率も立派なものだし色調も乱れが少ない。安物にしては上出来の部類なのだが,やはり本物の欲しいところだ。まぁゆっくり捜さう。ただ素通しの方は,今ひとつのダテ眼鏡もさうなんだけど,透明度がまるでなってなくかなり鬱陶しい。度無しでもちゃんとしたガラスを入れなきゃ駄目だなあ。

それにつけても高い銭を出して面倒臭い思ひをして目の玉を痒くしといて,結局眼鏡は掛けてゐる。全く以て莫迦莫迦しい。現状ではオペレイションCは失敗であると断ぜざるを得ない。もう買ってしまったこのコンタクトは使ひ熟しに努めるが,将来度が合はなくなったりした時またコンタクトを作るかどうかは甚だ疑はしい。今でもすぽぽんぽんと無くしたなれば,追加購入はまづ無いね。

不一

1991年5月19日


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無縁坂
 グレープつうかさだまさしの曲名。

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やうやう白くなりゆく山際
 清少納言『枕草子』の一節。

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不器用ですから
 高倉健の定番フレイズ。のように言われているが聞いたことない。

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written by nii.n