東京月記9006

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冠省
ひっこしをしたしと思へども,ひっこしは余りに難し。

出身地を問はれれば広島市と答へる事にしてあるが──正直に言ふ時はね──実のところ僕の産まれたのは広島県最西端の大竹市である。お袋が僕をひり出しにお里帰りしたのだ,病院で取り上げられたのだと思ふけど。遺憾ながら此の時の様子は丸で憶えてゐない。

気が付いたら五日市と云ふ土地に居た。
東京の其れではない。イツカ市に非ずイツカイチ町であって,広島市と大竹市に挟まれ厳島を抱へる佐伯郡に属する。親父の勤め先だった****(定年でリタイア)の社宅が其処にあったのだ。後年広島市が政令指定都市になりたくて周辺市町村の合併に狂奔した際も頑として恭順を拒むと云った気骨ある土地柄を持つ。多分まだ町制の儘だらう。
この手の合併は吸収される側にはデメリットしか無く,適当な財源があるなら独立してゐる方が良いに決まってゐる。
当時すでにベッドタウンだったが空き地は結構あって遊び場には不自由しなかった。社宅も結構ひろく,と言っても餓鬼のスケールだから当てにはならぬ。

初めて空気に触れた時とか初めて目が開いた時とか初めて立ち上がった時とか初めて性交した時とか,人生はじめて面白塾の劇的なシーンはいろいろあるのに憶えてゐるのはよっつ目の例だけだ。何故かは知ってるけど書かない。
一番古い記憶を辿ってみると,僕の場合はどう云ふ訳か洗濯機がぼんやり浮かんでくる。四半世紀も前の代物であってもちろん脱水槽もお絞りロウルも無い,むしろ全自動洗濯機みたいな奴。仰角の付いたパースのイメイジを持ってゐるから一応本物と認識してゐるのだけれども,2歳頃の筈の此の記憶には色が着いてゐない。ひょっとしたら写真か何か後で見た映像を──洗濯機の写真なんか撮らねえか──実体験と勘違ひしてゐるのかもしれない。
よく考へたらまともに育てられて口唇期や肛門期の記憶がある筈も無く,僕は其れほど不幸な生い立ちではない。

年齢と連動してはっきり憶えてゐるのでは幼稚園の入園試験の模様が最古になる。逆算してたぶん4歳と3箇月のとき。
先生が2cm角くらゐの賽ころを4・5個重ねて置いて同じやうにしてみろと云ふのを,僕は配色から角度から目の数からコピイしようとしてたいへん難渋した。実は単に積んでしまへば良い事(手先の運動能力テスト)だったのに,空間概念と色覚と1桁数字の理解とを試されてゐると早合点したのである。なかなか捗らなかったから,精薄と思はれたんぢゃないかしらん。

其処はルンビニ幼稚園と云ふ余りに奇怪な名前の施設だったので小学校で出身校を訊かれるのが厭だった。恐らく釈迦の産まれたルンビニー園(アショカ王の石柱のあるとこ)から採られたものだが,そんなハイブロウな名前が餓鬼に解る訳が無い。
家のお宗旨は確か浄土真宗南無阿弥陀仏だけれどつい此の間まで仏壇も無かったくらゐで,意図的にルンビニーへ通はされたのではない。それに当時ぼくは日曜学校にも通ってゐてテンニマシマスワレラノチチヨか何か言ってたぞ。
就学前に此の二大宗教を押さへてゐた事もあって僕は慈悲深く敬虔なのである。それにしても出家や洗礼を免れたのは幸ひだった。

僕が小学校に上がるタイミングで親父が家を建て,現在の実家のある広島市に転居した。以降6・3・3・1の13年を此処で暮らす。この間まぁ無難な子供だった。
よく小学1年生からやり直したいと言ふ莫迦が居るが,例へ今の知識を持った儘としても僕は真っ平だ。大卒程度で小学校なんて退屈で気が狂ふ。せっかく此処まで来たのに後戻りして溜まるか。でも就職した時からならやり直しても良いなー。

ありゃ,半生記になりさうだ。先を急がう。

高校2年くらゐから家が嫌ひになり始め,いはゆる反抗期には両親を徹底無視と云ふ態度でゐた。酷い仕打ちではあってもかう云ふのは順番だから親は常に損な役を引き受けねばならない。
僕も今は到来物の角砂糖のやうに丸くなり,許してあげてゐる。不遜な言ひ方だがかうより外に言ひやうが無い。

**大学にぎりちょんで潜り込めた時には嬉しかったね,やっとひとり暮らしができる。学生を相手にしたバストイレ共同のアパートに3年,それから同じ建物内で部屋を替はって2年,誠に楽しい嬉しいいやらしい時間を貪った。
就職に際して新卒で通るのは一般的に24歳までである。1浪してゐても1留できると小賢しい計算をして**********に取り憑いたのが4年前だ。

入社して2箇月半は研修で松戸の寮入り。(何と)兄弟会社の*******自社寮を間借りしての初の寮生活しかも6畳間ふたり詰めである。同室の甘木は良い奴だったので辛くはなかったが,僕が選んだ同居人ではない。
研修が終はったらすぐに出るつもりだったのに1年間も居続けたのは一重に金が無かったせゐだ。敷金ふたつ・礼金ふたつ・不動産屋の仲介料ひとつ・入居した月の分と,賃貸住宅の契約時には通常家賃半年分相当の現金が要る。月額6万とすれば36万円,引っ越しをプロに任せるなら締めて40万円はどうでも必要となる。
全く金が敵の世の中だ,早く敵に巡り合ひたい。
春になって次の新入社員と一所になるのは何としても避けたい,少少無理は覚悟で退寮した。実際住宅補助金の支給が始まるまでボーナス補填をしてやっとこさ口に糊してゐたのである。

いま巣くってゐる*****ハイツには,もう3年と1箇月になる。*****とは名ばかりの終日アフタ_ザ_サンセット_ハイツだ。
年間最良の入射角を以てしても直射日光の当たるのは窓から3cm以内であり,畳が傷まないで済むほか蝙蝠や萌やしの栽培に適してゐる。サルマタケが自生しないのは,入居した年の夏に貧弱ながらエアコンを入れて乾燥に努めたからだらう。
都内のバストイレ付きアパートとして破格の店賃なのは此の陽当たりの悪さ故である,去年の契約更新の際に大家が白状しをった。そのとき1000円上がって4万8000円(管理費込み)になったのだが,この値は***号室だけで別室は5万以上だと。校舎裏のサークル塔の写真部の暗室みたいだな。

何故に引っ越しをしたいのかは何度もくどくどと記したので割愛する,と思ったがやっぱり簡単に書かう。

  1. 単車に乗りたい
  2. FMを聴きたい
  3. 仕事場を近くしたい
  4. 何もかも気分を変へたい

決定的ないし致命的な不満があるのではないのが判る。
それでももう部屋を替はりたい。親元を離れてから同じ部屋に住み続けたのは*****ハイツが一番長いのだ。実の所これが隠れたしかし最も強い動機なのかもしれない。

RCサクセションの名曲に『よそ者』と云ふのがあって此れを清志郎に唄はれた時,あっと衝かれて悔しい思ひをした。

おれたちよそ者
どこに行ったって
だからさ,そんなに親切にしてくれなくても良いのに
いつの日どこかに
落ち着くことができる
そんな夢を見ながら今夜ここで踊るだけでもう良いのに

つまりはさう云ふ事なのだ。広島に育ったが山口で人が変はり,実家に帰ると何とは無く居心地が悪い。東京では勿論よそ者でもはや山口には行く所が無い。職場でも街中でも奇妙な疎外感を抱き部屋にひとりで居たってやっぱり仮の宿を意識してゐる。僕がへらへらふらふらしてゐるのも腰が据わってゐないに相違ない。郷里の無いのを嘆いて見せる東京人は多いが,田舎者にだって気持ちに古里を喪失した人間は少なくないのである。

*****ハイツはアパマン館で先約がキャンセルされたのをすかさず攫った。
地元の不動産屋を回るべきだとよく言はれるのだけれど,掌握物件の数と照会の簡便さと恐らくトラブル_シュート_ノウハウの豊富さとを思って今回もアパマン中心で行く。
条件は,

  1. **から1時間以内で
  2. 駅に近く
  3. 単車を置け
  4. 遮音の良いマンションタイプの
  5. できれば2階の角部屋
  6. 陽当たりは程程で構はない

バス・トイレ付きは屋根・床付きと同義である。店賃は7万円まで出しても良い。

大手町に勤務地が移る可能性も加味すると,北は王子,南は鶴見あたりが狙ひ目になる。
3月17日に王子,4月7日には鶴見と大井町に検分に行ってはみたものの余りに高かったり(7万3000円)汚かったりで踏ん切りが付かない。かなり迷った物件もあったけれど,迷ふと云ふ事は何かしら気に入らない所があるのだらう。急ぐのは良いが焦ってはいかん。
捜し回った日が随分とんでゐるのは足を傷めたり(情け無い)お天気が悪かったり仕事が忙しかったりしたせゐである。
何処かに必ず6万円台のマンションがある筈だ,人は其れを幸せと呼ぶ。

山のあなたの空遠く,幸ひ住むと人の言ふ
ゴウルデン_ウイークは取り立てて行楽もせず暇と言へば暇だったので──9連休だった──部屋捜しに何日か割く事にする。東京は人が減るし遊ぶ奴は居ても捜す奴は無い。ただアパマンも休みではないかとの危惧はある。

5月2日に渋谷のアパマン館で良ささうなのを選び余程ひどくなければ決めてしまふ覚悟で見に行くと,案外の出物だった。
これを呑まなければもう転宅の機会は訪れないと我を読み,たうとう決めた決めたんだ。
新しい住所は,〒***・神奈川県横浜市********丁目***番地************号室。
てな訳で僕はハマッ子になった。都落ちと嗤ふ勿れ,僕にとって東京に住まふ事のメリットは無きに等しい。仕事場に近い方が難有いのよ。

高が引っ越しで28年前から話を起こしちゃ仕様が無いね。紙数が盡きた。以下,次号。

不一

1990年6月1日


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written by nii. n