東京月記9004

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冠省
とほほほ,油断大敵,1年数箇月かかって書いた東京月記を0.0001秒で失ひ,己の間抜けさ加減に驚き呆れ果てた。これは何かの予徴か。でも気を取り直して書く。

へまをこいたのは3月のおしまひで,東京月記4月号も半分くらゐ上げた所だった。別に月一と決めたつもりはないけれど,つらつら綴って此のB5版紙4・5枚(200字詰めの原稿用紙換算で20数枚分)を埋める頃には大体ひと月たってゐる。いつしか身に付いた僕の文作ペイスなのかもしれない。定形郵便物としても程良い重量に収まる。
喪失分の捜索を甘木にも頼んだら慮外の保管状況であり,ざくざくと20通も出て来た。ナニ捨てるのを不精してゐただけサてな軽口は此の際たたかない。何と東京月記の第1号(PEN24で書かれた最終号)まで発掘されたのだが,つまり其れだけ古い地層を探ったのであって其れなら1枚目のフロッピイに残ってゐる。肝心の88年初冬以降のは半分も見付けられなかった。ちっ。

90年4月号は当然誰にも発送してゐないので例へ全ての東京月記を回収できたとしても復元は不可能である。惜しいが此ればっかりはどうしようもない。引き続き探査をお願ひ申し上げる。


僕も長年ボケとツッコミについては研鑽を積んできてをり解ってくれさうな人には実践も厭はないが,うまく嵌らないで滑る事が多い。僕の通った後は毎日気付かれなかったギャグの死体で累累たるもんだ。関東の連中はどうしてかうお笑ひに鈍いんだらうと大阪の奴と手を取り合って泣いてゐる。

以前東京進出は必須の課題であらうと書いた──その号も消えて無くなった。ぐっすん──ダウンタウンはどうやら此れを果たし,人気も定着した様子である。まづは良かった良かった。僕が楽しみに観るもはや数少ないTV番組の座も『ガキの使いやあらへんで』(日テレ)でしっかりキープしてゐる。ただ他のは,例へば『夢で逢えたら』(フジ)は野沢直子が目障りなので観ないがね。

ダウンタウンのキイマンは向かって左側の松本であり,彼は僕がやりたいやうなボケをかなりの確率で体現してくれる。ネタも全て松本が作ってゐるらしい。ツッコミは右の浜田の担当でよく松本を把握してをり,過不足無く見事な仕事をする。アドリブにも素早く追随できるから松本にとっては掛け替への無い相方だらう。誠に羨ましい。
優れたツッコミに恵まれぬが故に笑ひを取らうとするなら──無理して取るな──勢ひ僕がツッコミに回らざるを得ず──それは其れでいーんだが──しかし此れまた空振りするんだな。僕はボケが好きなのである,上岡龍太郎でなく(上岡だって本当はボケたいのだ)松本人志になりたい。

お笑ひと云ふ点では大阪の素人の方が東京の並のプロよりも屡おもしろい。これは明らかにさうだ。上岡の言ふやうに文化の成熟度が段違ひなせゐもあるが──確かに千年から歴史が長い──大阪弁が話芸に向いてゐるのに加へて吉本興業その他の教育が行き届いてゐるからであらう。
東京は客が悪過ぎる。古くはMANZAIブームを暴走させ今『笑っていいとも!』なんかを見に行って屁にも至らないギャグ(と呼びたくもないが)に笑ふ糞莫迦腐れまんこ共を何とかして貰ひたい。勘の良い連中がこっそり楽しんでゐるのをちょっとでも嗅ぎ付けると,あっと言ふ間に押し掛けて来てだーっと丸坊主にしやんのよ。
一時期ダウンタウンと共に将来を嘱望されたB21スペシャルやウッチャンナンチャンは早くも息切れを来たした。本人達は気を付けてゐたつもりでもやはり売れたい,歓声や嬌声を得ようとレヴェルを落とし慢心し畢竟つぶされてしまふのだ。B21は衰退の一途,ウンナンのやってる事はちっとも笑へない。浜田・松本に拮抗し得るお笑ひは東京に居ないのか。

ダウンタウンは紛れも無く漫才コンビ(吉本の漫才教室第1期生)なので,これに絞って関東勢を見渡して見ると,んー,何とツービートにまで遡らなくてはならない。さう言へば前のブームの時も春風亭小朝を引っ張り出してたくらゐで,非吉本は弾数がぐっと少なかった。

ビートたけしは文句無く天才である。たけしの台頭でお笑ひ引いてはTVの観せ方は昔を忘れるほど様変はりしてしまひ,破壊され盡くしたと云ふ感すらある。
「うんこ」「禿げ」「ブス」「でぶ」を放送禁止用語化から護りお笑ひタレント(滓が多いけど)の地位を格段に向上させ文化人の欺瞞性を暴露したのも彼の功績だ。罪があるとすれば返す刀でせっかく「お約束」を以て収まってゐたドラマを皆殺しにしてしまった事くらゐか。

尤もツービートは余り好きではなかった。僕がたけしを認めたのはピンで始めた『オールナイトニッポン』の第1回(81年元日25時。生放送が売りの番組にも関はらず録音だった。何を言ひ出すか判らないのでディレクタがビビったらしい)を偶然聞いてからだ。
これでラジオのDJも革命的に変はった。たけしは聴取者に向かって喋るのではなくスタジオに同席した高田文夫をのみ相手にしそして高田は積極的に口を挟みながらもやたら受け捲ると云ふパタンを発明したのである。聴取者はたいてい若造だから此の言はば大人の無駄話に加はりたくて仕方が無い,自然投稿にも熱が這入る。
実においしい方法であって皆がすかさず真似をした。今ではすっかり此のスタイルが主流となってゐる。
たけしのフォロワーは数限り無く出てしかも盟主がフライデー事件で謹慎してゐる間は千載一遇のチャンスだったのに,誰も天下を取り得なかった。さんまと邦子が消耗し盡くされただけなのが惜しい。

さて此処で逸材と云ふ者が飛び出て来た。未だ無名と言って良いけれども唯一ダウンタウンに比肩し得る漫才コンビ(関西圏を入れても)に育つポテンシャルは充分にあると思ふ。浅草キッドである。
たけし軍団の下のセピアの下の若い衆なので殆どごみ以下の扱はれやうなのだが,一応たけしが師匠でありツービートの正当な後継者と呼べない事はない。
水道橋博士と玉袋筋太郎とが構成員で──『スーパージョッキー』の『軍団クイズ』で毎週のやうに賽ころに這入るふたりと言った方が解り易いか──向かって右の小っちゃいのが水道橋だ。ダウンタウンとは逆にツッコミの彼が主にネタを書いてゐる。

浅草キッドはNHK教育および放送大学を除いて在京TV局には全て出演経験がある。ダンカン(もと立川談志の弟子)の話では皆しくじったらしい。
僕は不幸にしてテレ朝の『ザ・テレビ演芸』で例の『激突笑いのデスマッチ!』に挑戦者として上がったのと(相手は忘れた),NHK総合のイレギュラな演芸番組でツマ的に添へられてゐたのと(これは録画した)を観たきりだ。
せっかくたけしのコネで出られた『デスマッチ』では何故か漫才でなくコントをやり其れで惨敗を喫したのだけれど,NHKの方は『本音寿司』と云ふネタを握って大変よい出来だった。会場の爺婆の受けが今一だったのは止むを得ないとしてあの舞台をしてしくじったとは。
実は此のとき事もあらうに楽屋で小火を出したさうで,恐らく二度とNHKからお呼びは掛からないだらう。

漫才をやってゐない『スーパージョッキー』は別としてレギュラでは『オールナイトニッポン』の,セピアの下の連中が替はる替はる漫才や漫談を競ふ『軍団パンクラチオン』が此の所おほいに耳を引く。
ラジオでしかも深夜と云ふ条件を得て放送禁止ネタが多いのだが,だから面白いと云ふのでなく話芸としてテンポ良くヴァランス良く,持ち時間が3分足らずでは物足らない。僕が彼等を買ってゐるのも此れを聞いてゐるからである。
さう言へば『オールナイト』ではその昔(6・7年前)売れる前の鶴太郎が『色物広場』と云ふコーナを与へられて(この間にたけしが休憩する)極めて下らん事を喋り,たけしや高田・そのまんま東にまで散散にいぢめられてゐた時期があった。『パンクラチオン』は浅草キッドのパートに限りあれとは雲泥の差だ。ぜひ当たってもっとTVに出られるやうになって貰ひたい。


辛気臭い話を書く。
僕と同期に入社して翌年辞めてしまった男が居る。松戸月記に甘木のひとりとして何度か登場したかもしれない。以降やはり甘木と呼ばう。
背丈は僕より少し低いくらゐだが体躯は熊だった。四角い顔に大きな声でおよそ神経質な印象は誰も受けないのだけれど微妙にずれた言動は見受けられ,あいつは変だと言ふので86年度入社の三奇人に数へられてゐた(俺も這入ってたよ,この野郎)。僕は大学のとき人文学部や美術部に知人が多かったから仮性気違ひや擬似変態には免疫も寛容も幾分か持ち合はせがある。またわざわざあの頃の連中と比べなくとも甘木は取り立てて異常ではない。あんなのを奇人と呼んでゐたら,幾ら最終回と知って感極まったとは言へ雑踏でいきなり「ノリディアアオオゥ」と喚き立てる花鳥はどうなる。
皆に疎んじられてゐるのは承知で僕は当たり前に付き合ってゐた。まともに口を利いてゐたのは僕だけではなかったか。しかし研修後配属が渋谷と大手町とに分かれたうへ1年で僕が退寮してしまひ,会ふのは週に3分以下になった。
まさか其のせゐとも思へない,任される仕事との相性が悪く重度のノイローゼに嵌ったらしい。ずっと後になって僕は知ったのだけれども,5月の連休に郷里(福岡)に帰ったきり出て来なくなったさうだ。人事の部長だか課長だかが迎へに行ったりしたやうだが,まぁ,そのまま休職期間も遣ひ果たして除籍となった。円満退職とは言へない。
妙に気になったので休職中に復帰する意思があるのか手紙を遣ったところ大変喜んで返信を寄越した。その後は甘木から手紙を貰ふと僕が東京月記を送ると云ふ恰好で何度か遣り取りがある。最近の手紙は昨年の10月に貰った物で,彼女ができてホテルにばかり行ってをり金が無いと云ふふざけた内容であった。
気の滅入る事件が相次ぎ(僕が)腐ってゐた所へ,また大変な手紙が来た。甘木の御母堂からだ。本人を置いて母親から来る封書など,死亡通知かまたは失踪したのだが心当たりが無いかと消息を尋ねる内容に決まってゐる。手に取った時は,ありゃあいつ死にやがったかなと軽い気持ちだったのだが,開けてみたら,前者だった。
人ってのは死ぬんだなあ。僕は幸せな奴で,30年近く息をしてゐながら知り合ひが死んだなんて事は今まで一度も無かった。行方不明になったのは何人かあっても鬼籍に這入った者は無い。だから葬式も知らない。
甘木の歿したのは3月30日,母上から手紙を戴いたのが4月11日だ。死因は記されてをらず,行間を読むにどうも自殺ではないか。メモに僕に対する謝辞があったさうで,かうなるとますます重苦しい気分になる。もちろん僕が人をひとり救へるとは毫末ほども思はない,それでももう少し何とかできなかったのかなと云ふ念だけは残ってゐる。
産まれて初めてお悔やみ状を認めた。弔問状は通知を受けて直ちに香典と一所に送るべき物だが,数日経つまで書けなかった。紋切りの文章をやっと連ねて非礼を詫びた。香典は付けなかった。以来僕の気持ちは晴れてゐない。

不一

1990年4月28日


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written by nii. n