東京月記8912

冠省
中学時代ボールペン習字に挑んだので，僕の肉筆は其の前後で革命的に変はってゐる。
講師は日ペンの美子ちゃんでなくてＪＢＳだった。いきなり漢字から這入り部首別に練習していくカリキュラムだったが，直に飽きてペンを折った。昔からやり掛けては放り出す性分だったのだ。だから僕は硬筆７級の腕前である。

ただ毛の生えた時分に字を矯正しようとしたのは早計だったかもしれない。消化不良を起こした儘まぁ悪筆ではないにしても新たな癖が炙り出され，今も綺麗な字を書けないで──むしろ一時期より退行して──ゐる。創作ノウトなんかに走り書きする文章は全て近道抜け道の一筆書き，これが僕の字体のエスだらう。
とは言へ行書の基本形を垣間見られたのは収穫だった。テキストは未だ実家にある筈だ。もう１回やってみっかな。

筆記体が後戻りした最大の原因はワープロの導入にある。詞集を機械文字で清書したかった事と英文タイプの独習でキイボードを征服した事とが契機となり，個人ユーザとしては比較的はやい時期に手を付けた。

教育実習や自動二輪免許取得の際のどたばたを打った憶えがあるから初代ピコワードを買ったのは84年の冬か，ブラザー製の，あれは正にエポック_メイキングな製品であった。最廉価のワープロが20万を切れずにゐた頃に８万8000円である。単漢字変換で16ピン・外部メモリ無し・横書きのみで印刷タイミングも１行40文字が最大と云ふ不自由さだったが当時は超絶ハイＣＰ機だったのだ。僕も充分満足してゐた。
それから１年程してキヤノンのＰＥＮ24が登場，大きなスペイスバーと縦書き可能なのが魅力で交換した。一括変換・24ピンに進歩して，やはり７・８万だったと思ふ。松戸の寮で僕を慰めるのに大活躍した逸品だがむしろ英文タイプとしての資質に優れ，現存の文書もポール_サイモンなんかの詞を書き留めたのばかりだ。ピコで書いた和文が僕の詞集にけっこう生き残ってゐるのと対照的である。

ＰＥＮ24の人気は僅か１年半で，いよいよα10にスイッチした。窮屈な寮を後にして完全なひとり暮しを無欠にする為には高性能なワープロが不可欠である。同じくキヤノンである事に意味は無く，入念なカタログ審査の結果選択された物だ。ポイントは32ピン・3.5in.ＦＤ・大編集画面と云ったところ。それ迄に書き連ねてきた広島月記・山口月記・松戸月記をもう一度読み返したいと思ふ事が時にあるが，α10を入れるまで外部記憶は不可能だった｡必要にして充分な内部容量･実質無限大の外部記憶を得て校正も推敲も自由自在､これでこそワードプロセッサと言へる｡あぁこんな奴が10年前からあればとしみじみ思った｡
87年４月以降の文書は鬼のやうに殆ど全部とってある｡しかし今よび出してみても､浮ついた文章ばかりであんまり面白くない｡

ワープロに必要な条件とは何か。ＦＤ保存や編集機能は言はずもがなだから省略，欲しい属性だけを列挙すると，

独立10キイのあること
プリンタ分割のできるラップトップであること
バックライト付きカラー液晶画面であること
ＯＳは本体ＲＯＭに格納されてゐる事（システムＦＤレス）
図形の描けること

等等。
形状からすれば日立のＢＰ－１とか松下の一部機種（型番わすれた）とかが理想に近いのだけれど，日立機は罫線の処理が余りにへぼだし僕はパナソニックをどうも好きになれない。仕事でワードパルに触はるのでキャノワードとどうしても比べてしまふが，日立機はまだまだめちゃ甘い。例へばロウマ字入力にすると撥音を打つのにＮキイを必ず２度たたかねばならず──「金玉」と変換するには'KINNTAMA'と打鍵する──それは許し難い手間なのだ。仮名の長音記号をハイフンで代用してゐるのも甚だ気に入らぬ。プリンタも白痴ではないかと疑ふほど遅い。但し半角の漢字を打てるのと10キイが外付けなのは文句無く素晴らしい，キヤノンも真似してくれ。
文豪やオアシスは，遅れてゐさうだなあ。リコー機は実は日立製，シェア第１位のルポは良いかもしれない。書院は近頃きかない，大丈夫か。ピコワードを作ったブラザーはどうした。

僕に限って言へばα10で作成したＦＤが溜まってをり，

ＦＤの互換性があること
印字品位や編集機能の劣らないこと

の方が優先となる。僕はもうキャノワードのαシリーズから逃れる事はできないのだ。

長長と引っ張ってこられてもうお察しの事と思ふが，ワープロを交換した。1.2.3.はあっさり諦め，僕の新しい鉛筆はキャノワードα５ＳＵＰＥＲである。α５Ｓは「てにをは64アウトラッイーン」とＴＶで盛んにやってゐるあれだ。買ふ決心をしたのは熟慮の末でなく衝動買ひに近い。カタログで仕様を確認しても行けさうなので踏み切った。

例に依って主要諸元を並べてみる（括弧内はα10）。まづスクリーンが10in.モノクロＣＲＴ・50桁×20行（単色液晶・50桁×16行）になり電源スウィッチとＦＤドライヴァが前付き（横付き）に変はった。内蔵辞書は約20万語（約11万語），文字種約7400（約7100），64ピンヘッドで14ポ・12ポ・10.5ポ・７ポに英字２種のフォントを持ち（36ピン・12ポ・10.5ポ・英字１種），重量は12kg（８kg），14万8000円（15万8000円）である。
因みに此の字は10.5ポで48ピン，ぢっと見ないとα10の其れと判別できない。キイボウドは共通仕様なのでまごつかずに済む。ブラウン管と真っ黒な本体色（灰色）のせゐで見た目が丸っ切り違ふ。全高も奥行きも少しく増えた。

α10に不満を抱いてゐたからこそ交換した訳だが，それは本質的な欠陥の故ではない。第１は照明の映り込みが激しくて画面の見辛いこと，第２はシフトキイが左側にしか無くて欧文入力の効率の悪いこと，第３に図形の描けないこと。
液晶スクリーンにはバックライトが絶対必要だ。シフトキイの件は欧文に対するメイカの姿勢の問題，図形機能は当時のパーソナルワープロでは無い物ねだりだった。α５がこれらの瑕をクリアしてゐなければ買ひはしなかった。
当然自発光のＣＲＴ＋防眩フィルタは予想以上に映り込みに効く。但し表示文字が小さくなったせゐかＣＲＴの性質か眼が非常に疲れる。白地に黒抜きなのと其の逆と選択できるが，どちらが眼に優しいのかよく判らない。今はデフォルトの白抜きを採ってゐる。黒地なら画面は殆ど消えてゐる訳だからこちらの方が電磁波の放射も少なくて済むやうな気がする。

α10の編集能力は既に上限に達してゐるのではないかと思ってゐたのだけれど，何てこったいオリーヴ，α５Ｓは此れを軽やかに一蹴，中学生と大学生ほどの格差がある。てにをはに先行する名詞を判定して活用語を決定する程度の事をＡＩと呼んで良いものかはともかく，変換効率と言ひ操作性と言ひ拡張機能と言ひα10の細やかな不備を一掃してしまった。感動的な迄の向上だ。外字の登録数は60から50に落ちたものの僕が作成しなければならなかった文字がしっかりサポウトされてゐるので遜色無い。しかも作成要領も進歩してゐる。α10ではオプションだったグラフ機能を搭載，カーソルの動きやスクロウルも速い。これで価格は１万円ダウンなのだ。ワープロの陳腐化の早さは未だ衰へを知らない。ＣＤプレイヤより激しいのではないか。

衝動買ひして正解だったα５Ｓだが難点が無いではない。まぁ承知の上で買ったのだけれど，ＦＤの互換性は文書にしか確保されてゐないのである。従って僕が２年半に渡ってα10にぶち込んだユーザ辞書・外字・頻度学習は全部パーになった。取り分け歴史的仮名遣ひの喪失が痛い。今もせっせと活用を教へながら打ち込んでゐる。正直いってしんどい。
ワープロを購ふのもさすがに最後だらう。東京月記もいつまで書けるものか。
ピコワードから数へて４代目だ。１年・１年半・２年半と使用期間も順当に伸びてきた。もし次があるとすればα５Ｓの寿命が盡きた時，即ちブラウン管か印字ヘッドかプラテン_モウタか何かいかれた時だ。α10の最後の弱点・図形機能（円を描けない）がクリアされたのである。もう僕に何の不満も無い。

ユーザ辞書がパーになったと思ったら，さうではなかった。付属の拡張ＦＤを使ふとα10から引っ張ってこられるのだった。めでたしめでたし。だけど調べてみたら僕が登録しておいた単語の半分近くを，自分で知ってやがんのよ。驚いちゃったな。結局は歴史的仮名遣ひと固有名詞しかお呼びでない。不要な登録を消すのに時間が掛かった。
拡張ＦＤに就いては勿論マニュアルに載ってゐるのだが，α10の４倍以上の分量があってとても一朝一夕には読みきれない。単語登録の複写だって偶然みつけたのだ。仕方の無い事とは言へ初めてワープロに触はる人ならマニュアルを見ただけで投げ出したくなるだらう。僕とてピコからステップアップしてきたからこそいきなり叩けるし勘も働くのだ。お負けに附いてゐる初心者用の練習ＦＤが無用の長物になるくらゐにはなってゐる。ただ文豪シリーズがやってゐる教習ヴィディオは客寄せの釣り餌に過ぎない。あんな物，マニュアルよりアクセスが不便ではないか。悪辣な遣り方だと思ふ。

ＮＨＫは本当に汚い。衛星放送で『帰ってきたウルトラマン』を始めたので，また搦め手から攻めて衛星放送を普及させる腹かとうんざりしてゐたら，新マンの後番組が『ウルトラＱ』と判った。
多くは『セブン』をウルトラシリーズ最高傑作とするのだけれど，僕は『Ｑ』だと考へてゐる。一介の新聞記者が連続して怪獣に遭遇するのは不自然だと言ふので科学特捜隊やらウルトラ警備隊やらが創設されたらしいが，日本だけが襲はれたり東京の真真中に自衛隊より強力な火器を持つ基地が建設されたりは不自然でないと言ふのか。どうせ御都合主義を脱する事は不可能なのだ，化け物どうしが闘ふのより人間が何とかするドラマの方を僕は観たいぞ。

『Ｑ』だけなら未だしも同時に『落語名作選』とかで１時間の特番（５日間）もスタートする。しかも志ん生師の『巌流島』が含まれてゐる。ぐおおお，『Ｑ』ならヴィディオソフトが販売されてゐるが志ん生さんの映像は此れっ切りだ。万難を排して録画しなければならぬ。
余程ＢＳチューナを入れようかと思ったけれども御案内の通り此の＊＊＊＊＊ハイツではパラボラの設置場所が無い。室内アンテナで行けるかも知れないが，確証も無い事に10万円も出せないし賭けに外れたら十重二十重の損だ。またしても甘木の厚意にすがる事にする。
衛星放送の番組表も当たり前のやうにＴＶ情報誌に載ってゐる。高画質・高音質を謳ってはゐるものの，よく考へたらソースは地上波と同じ物だ。東京タワーから僅か数kmを隔てるだけの地上波と往復７万kmを飛んで来る衛星波（マイクロ波に変換するのと検波して元に戻すのと，双方で複雑怪奇なコンヴァータを経由しなければならない）と，どちらの鮮度が高いか。将来的に衛星放送に移行するのは間違ひ無いにしても現状ではＣＡＴＶを引くのと変はらない。否，地上波と番組が多くダブるからＣＡＴＶ以下である。そんな物でありながらたまの特番で視聴者を釣らうとする，その下衆な根性が厭だ。

今年ももうおしまひ。１２３４５６７８９10と数へるなら90年は80年代の最後の年だが，さう気難しく考へなくとも良いだらう。高校卒業のとき誰かの記念ノウトに，90年代が僕等の時代だと書きつけた事がある。いま思ひ出した。来年も（は）良い事がありますやうに。

不一

1989年12月８日

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半角の漢字
- JISでもUnicodeでもない独自コードセットだからこのようなことができる。

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何てこったいオリーヴ
- 説明不要と思うが実に合衆国的アニメ『ポパイ』主人公の定番台詞。

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東京月記8912

written by nii. n