東京月記8907

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冠省
大変弱った事になった。レノン眼鏡が壊れてしまった。
レノン眼鏡を買ったのは,あれは確か教育実習に行く年の未だ寒い頃だったからもう5年以上も前の事である。ダイエー**支店のテナントだったメガネのタナカで全く偶然に見付けてすかさず購入し,爾来ずっと僕の顔の一部となってきた。一度塗装をやり直して貰ったがまた随分はげちょろけになってきて,そろそろ塗り直さなきゃなあ,レンズも傷だらけだし度を上げなきゃなあと思ってゐた矢先なのだ。

トレシー(極めて優秀)でレンズを拭いてゐたら突然がくっと抵抗が無くなった。あれっと言ったがもう遅い。ブリッジ右眼側の付け根がぶらぶらしてゐる。手でこきこきやる陰痴気のスプン曲げと同じ状態,金属疲労である。
わしら疲れたけんもう別れるんよね誰の仲裁も受けんけんねと息捲いてゐられては,アロンアルフアセメダイン・ボンド・エポキシ・半田・いづれが執り成しても徒労に終はる。銀蝋なら或るいはうまく行くかもしれないが,溶接部分がパキッと外れたのならともかく素材自体が捩じ切れた場合には眼鏡屋も修理を受け付けない。お手上げである。え〜ん。
"John Lennon/bag one"とロゴの這入った正式な──本当に小野洋子が認可した物かどうかは不明だが──ブランド品である。誠に優れたデザインで愛着も深い。寿命と言って良からうが其れにしても惜しい。

首の皮一枚で繋がってはゐるものの脱落するのは時間の問題,未練は振り捨てて代替品を探さねばならぬ。コンタクトは嫌ひだし素を晒すと僕の顔は左翼系の過激派になってしまふのでどうしても眼鏡を作りたい。
ワンポイント_リリーフにはコガタナ操縦用だったのを使ふ。こいつは調光レンズ(たぶん硝化銀の這入った奴)だが既に焼き付きを起こしてをり最弱でも色が載ってゐていやらしい。元来がスペア的態度で決めたのでデザインの近い物を選んだが似て非なるとは此の事,並べると品格の差が歴然とする。それより困るのは重さだ。レノン眼鏡はフレイム自体が細く軽くまたレンズ径も小さくて更に高屈折レンズだったので負荷は極めて低かった。コガタナ用は普通レンズでやや大振り,度も1度きつい。1日掛けてゐて閉口した。

新しい眼鏡の条件。

  1. 鼻当ての無いこと
  2. 軽いこと

これだけである。

鼻当ての無い快適さはレノン眼鏡で初めて体験し,以来必須項目となった。ずるずると滑り落ちて鼻孔道を圧迫する鼻当ては誠に憎むべき存在である。元来凹凸の激しい面には3点支持が最も安定するのだ。しかしブリッジと左右の蔓で支へる方式では顔の造りにシビアな要求がある。鼻骨に段差があり頬が薄くなければならず,顔でぶには不向き。加へてフレイムのデザインも何故か丸型ばかりなので──デザイナの怠慢だ──ますますユーザは限定される。
軽さに就いては要するにレンズが薄く小さくあれば良い。

レノン眼鏡の異状に気付いたのが土曜日で日曜日はコガタナ眼鏡で過ごし月曜にはどうせ社用で渋谷に行くので近場で決める。眼鏡ドラッグの渋谷店で良いや。眼鏡スーパーと混同し勝ちだが凶悪な目付きをした桃太郎がキャラクタの方。レノン眼鏡があればベスト,けれども此れは絶望的である。どうしても気に入らなければコガタナ眼鏡のレンズを換装してメインに据ゑやう。
案の定ろくな物はありませんな。そも鼻当ての無いフレイムが皆無である。それでも陳列された中にはチタン_フレイムの軽さに素晴らしい物があった。あれでレノン眼鏡を作れば文句無しなのに。

なまじ次善の策を用意したので他の店を覗く気も起きない。コガタナ眼鏡の昇格で行く。従って1.はクリア,残るは2.だ。
軽さを追求するならプラスティック_レンズに決まりだけれど,プラスティックでは屈折率が上がらないので見掛け上の厚みが増える。みっともないし周辺部の像の歪みが堪へ難い。高屈折ガラスを採り,それで幾らか重くなっても仕様が無いだらう。
この店では通常・中屈折・高屈折・超高屈折と4段階あり,当然超高屈折である。値段は通常の3倍くらゐするが目玉の事である,糸目は付けねーぜ。

裸眼視力はとっくに0.1を割ってゐる。余り度を上げると手元が却って怪しくなるから近距離重視,矯正率は10倍程度を想定し0.8から0.9に調整して貰った。来年12月に迫った自動車免許の更新も一応にらんでゐる。
レンズはSFX1と云ふわざとらしい型番だ。右が7.25ジオプトリ,左は7.00ジオプトリで,文句無く強度近視用。加工料・税込み1万8020円は高いか,並の眼鏡ならフレイム込みでお釣りが来る。トレシー1枚とバットマンみたいなハードケイス付き。

でき上がりまで4日かかる。コガタナ眼鏡を預けてしまへば後が無い。レノン眼鏡を騙し騙し金曜日まで持たせないと仕事にならぬ。仕事にはならなくても良いが飯を喰ふにも支障がある。ちゃんと見えないと喰ひ物はまづくなるのだ。一触即発な為にレンズを拭く事も儘ならずこめかみと鼻の筋肉で締め付けるようにしてゐたがだんだん蔓の間隔が緩くなり,こりゃ駄目だと観念した途端にぽろりと脱落した。月曜の夜である。明日からどうすんだよ。

僕は小学2年の時から眼鏡を掛けてをり,既に20年のキャリアがある。最近は見掛けなくなった──コンタクトなのかな──おぞましい眼鏡小僧だったのだ。ななつやっつで矯正が必要となると先天的な障害があったのかな,でも20歳になるまで殆ど度は進まなかったんだぜ。
普通は20歳を過ぎると眼球が固まって近視は進まなくなるものだが僕の場合は逆である,0.2くらゐから0.08にゲットダウン,弩級の近眼になってしまった。

20年間に幾つ眼鏡を取り換へたかはっきりしないがまぁ10前後ぢゃないか。
レノン眼鏡の前に掛けてゐたのは銀縁やや茄子型の誠にいやらしい奴である。どうしてこんな物を作ってしまったのか判らない,すぐ嫌になってお蔵入り,若気の至りでは済まされない失策であった。
それでもうんこの付いたパンツをもう一度穿かねばならない時もある。確か捨ててなかったよなーと最早レノとンに別れた眼鏡をガムテイプで顔に張り付けて押し入れの最深度から発掘してくると,何とフォーカスがずばり合ひ全ての輪郭がシャープに極まりグラデイションもディテイルも最高である。諸君,世の中の仕組みとは此れだ。無駄に存在する物など何ひとつ無い,この眼鏡は6年後を標的として放たれた投資だったのである。

とは言へ機能が万全であってもルックスが悪ければ愛用品たり得ない。こいつが手元に無ければ万事休すと云ふ展開だったのは事実だけれど,なるべくなら掛けたくないのもまた事実。強烈に重く呆れるほど厚い。余りにレンズが厚い為に3箇所ハマグリが這入ってゐる。また蔓が短くて終端が耳の裏に刺さり,たいへん痛い。鼻の孔が潰れる。10分の着用でほとほと参った。字を書く時とVDTに向かふ時・飯を喰ふとき以外は外してゐたら,爆弾魔みたいだと意外にはっきり言はれた。そんなこと知ってらい。歩くのに不都合は無いがもし斎藤由貴と擦れ違って其れと気付かなかったらどうしよう。

火水木とスペアのスペア眼鏡で過ごし金曜の朝はフレックスにして渋谷までコガタナ眼鏡を取りに行った。厚さと重さはちょっと覚悟してゐたのだけれども何てえ事はない。望遠レンジでは今一だが(さうしてある)建物の中は隅隅まで鮮明に結像する。足下手元がちときついのは止むを得ないだらう。予想以上の出来である。

レノン眼鏡 ワンポイント コガタナ眼鏡
BAG ONE u-Son317 AD-VANCE 189
重量(g) 26 44 36
レンズ径(mm) 47 54 49
レンズ厚(mm) 3.5 6.9 4.0
フレイム色
デザイン ×
性能
掛け心地 ×

さて,みっつの眼鏡の比較をしてみる。
コガタナ眼鏡はより真円に近いカーヴでレンズもやや上に上がってゐる。全体にとぼけた感じが強まって,いつもふざけてゐるやうに見えなくもない。コントで使ふ眼鏡と言へば近い。
レノン眼鏡を失ったのは返す返すも惜しいが,いま採り得る最善の処置は果たしたと思ふ。

コンタクトが嫌ひとは言っても付けた事は実は一度も無い。触はった事も無いな。見た事はある。毎日煮沸して保存液に漬けるなんて考へただけでもぞっとする。そんな面倒臭い作業を続けられるとは到底おもへない。コンタクトには容易に黴が生えて眼球を傷付けるさうだしコンタクトが角膜を掴んで変形させるてな話も聞いたぞ。それに僕は眼(ちんちんぢゃないよ)をぐりぐり擦るのが好きなので危険である。
まぁ眼鏡で矯正しきれないほど近眼が進んだ場合か,短くとも1週間は連続で装着できる──勿論つけっ放しで眠れる──ソフトレンズが出て来ないと採用する気にならないだらう。あれ,目玉の裏側へ潜ったりしないのかね。


7月の頭には東京に居るだらうと不吉な予言をして帰った件の甘木,果たして再見。詳しい事は余り訊かなかったのだが,ブリヂストンは結局やめて日本語学校の講師をしてゐるらしい。さすがはブリヂストンである,危ない所で後顧の憂ひを断った。

日本語の教師と云ふのは免許は無いさうで,取り敢へず誰が成らうと違法ではない。僕等が情報処理の試験を受けなくてもSEでございと言ってゐるのと同じか。生徒は多くが所謂ジャパ行きさんであり或るいは中国から来た謎の留学生である。「〜のやうに」を遣ふ直喩の短文を作らせた所が「ト小平はヒトラーのやうに独裁的だ」だの「天安門は地獄のやうに凄惨だ」だのが続出してしまひ収拾が着かなくなったさうだ。して奴はそんな留学生のマンションに居候をしてゐるのである,呆れっちゃふね全く。どうせ近近また遊びに来るから其の時もっと細かく聞いておく。


先般うまれて初めて金縛りに掛かり,夜が明けてしまへば面白い現象だったのでまたならんかいなぁと楽しみにしてゐたらもう一度きた。

7・8人(仕事仲間らしい)でハイキングに来てゐると見事な竹山があり,氷河期みたいな曇天でありながら葉を透かして地を照らす陽は強烈に眩しい。セメントで固めた急坂がずっと奥へ続いてゐる。皆で登って行くとやがて土が顔を出し,竹の生えるのを遠慮したやうな広場がぽかっと開いている。きつい傾斜が続いてはゐるが何故か急に鬼ごっこが始まり,だーっと走り回ってゐると突然ずぼっと左足が嵌った。あっと思ってももう遅い。地面を完全に踏み抜いてゐる。誰も何とも言はないし何の印があったのでもないがはっきりと狸の墓だと解ったのである。
此処で暗転。
夜中に魘されて目が覚めると全身が全く動かない。仰向けの儘ほぼ気を付けの姿勢で固まってゐる。おぉ此れは金縛りではないか2回目だなと前回との繋がりを確かめて寝返りを打たうとしたが身体は鉛よりも重い。恐怖がゆっくりと充満してくる。指先がぴくりとでもすれば呪縛から解かれる筈だ,まづ眼を開けるんだ。ぎしぎし軋ませながら眼蓋を持ち上げ首を曲げると間違ひ無く僕の部屋に寝てゐる。所が窓は異様に大きく上半分は月明かりで,下半分は雪明かりで青白い。しかも鈴虫が静かに鳴いてゐる。影も形も見えないが,明らかに巨大な狸が近付きつつある。復讐に来たのだ。待て,と言ふ為に今度こそばりばりと音を立てて身体を起こした。激痛で息が詰まる。しかし動いた。
再び暗転。

気が付いたら目覚まし時計が鳴ってゐる。日常世界である。でもかう云ふのはいはゆる金縛りとは違ふのかもしれないなあ。


僕はきちんと都民税を払ってゐるから(年額2万8500円)都議会選挙の投票通知も来る。面倒臭いので捨て置いたら何と社会党の圧勝ださうで,まづいなぁと思ふ。次の参院選もきっと此の相似形になる。相変はらずマスコミの煽る通りの展開だ,いいかげん失望しちゃふね。衆院選ならともかく都議員クラスでは何の実力も無いし参議院に至っては百害あって一利あり,投票する気にもならぬ。だいいち参議院に立つ奴なんか全く信用できない。何だいミニ政党てなぁ,心根は寄生虫ではないか。参議院が役に立った事など一度も無いぞ。直ちに廃止するべきだ。即効の財縮になる。無くすと恰好が付かない? それでも30人も居れば沢山だらう。

各党ともTVスポットをばんばん打つは郵便受けに連日ビラを突っ込んで行くはで,実に異様な感じがする。前から不思議に思ってゐたのだけれど,どうして共産党だけ仲間外れなのかしらん。野党連合でどうのかうの云ふ時も必ず「共産党を除く」になってるね。言ってる事は一番まともに聞こえるのに。政治が理想を追求して行く物なら,日本共産党は恐らく正しい。戦前の生活より戦後の其れのが遥かに良いのは決まってゐるが,無知で強力な大衆を作って何やら怪しい物を守らせると云ふ方針は一貫してゐる。好い加減にしなさいと其のうち凄い突っ込みが這入って,ちゃんちゃんとなるぞ。

不一

1989年7月吉日


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written by nii. n