東京月記8902

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冠省
付けも付けたりサン***ハイツなる名を持つ此のアパルトマンに越して来たのは2年前,昭和も末期の事でした。狭い6畳間にふたりが起居する寮生活に倦んだあたいは屁の出る思ひで貯めた銭こを,海辺の棒倒しで先行を取られた如くに半分なくしたのでございます。

契約更改が4月の半ばで,もう時間が無い。全国的な慣習なのかは定かでないが,継続して住まふ場合には契約更新料の名目でひと月分余計に家賃を払はねばならぬ。建物賃貸契約書に拠れば店子からの解約は通達後40日を経過しないと発効しないので,最終的な締切日は2月の末日だ。

何故あたいは引越しをしたいのか,引越しするとどんな良い事があるのか,その辺を例に依って洗ってみよう。
引越しを行なふ場合の長所または理由,

  1. 気分一新
  2. FMが綺麗に這入る(かもしれない)
  3. AVの音を大きくできる(かもしれない)
  4. 陽の当たる明るい広い部屋になる(かもしれない)
  5. 仕事場により近くなる(かもしれない)
  6. 単車を置ける(かもしれない)

次いで引越しをしなかった場合の長所,

  1. 金が掛からない(引越し費用は試算で約40万円)
  2. 面倒臭くない(部屋探しや荷物の梱包・大掃除はうんざり)
  3. 年休を遣はなくて済む

一見して判る通り,こりゃ引越さない方が無難ですな。
ポイントは2.・5.・6.,特に2.なんだけど,入居してみなければ判らん因子だ。止め止め,引越しすんの止めた。ライフワークのヒットパレイド作りが中断しっ放しなのは辛いが,再開すればすぐに追ひ付ける。


手塚治虫大先生がお亡くなりになった。ぐっすん。60歳では余りに早い。この人が居なかったら日本の漫画は何十年遅れてゐた事だらう。量質ともに最高峰の人だっただけに極めて惜しい。僕が初めて買った漫画本も手塚先生の「どろろ」だった。18年くらゐ前で,1冊250円だったな。とっても悲しい。御冥福をお祈りしよう。


引越しを取り止めたので相対的に金が余った。無理に遣ふ事も無いのだが,何か買ひたい。実は借金して転宅費用を捻出するつもりだった程でさう余裕も無いから(そんなら預金しろ)数万円で幸せになる。

ファミコンを買はうと思ふ。何ですってー,今更ファミコンもないでせう。だって欲しくなったんだもん。
ファミコンもパソコンもCDもLDもVHSも要するに僕にとって面白さうなソフトが無いから手を出さなかっただけの話である。ハードに見合ふだけのソフトが出現しなければ徒の屑以下だ。
僕はオセロに関しては世界ランカー(世界一決定戦準優勝者)であり,ここ十数年負け知らずである(こないだ甘木に3隅やって勝ち,4隅やって分けたぜ)。オセロはもう此れ以上つよくならないので其の母体たる囲碁を憶えたい。

昨年あったNHKの囲碁教室は退屈の余り中途で挫折してしまった。周りでやってゐる人はと言ふと煙たい上司ばかりで,教はるのはどうも厭だ。職場のVDTの裏画面にも幾つかTVゲイムが移植してあって勤務中でも暇な時には遊んでゐるが,囲碁はメニュに無い。本を片手にひとりでやるのも詰まらんのでファミコンのソフトを相手にしようと考へた次第である。
RPGやシューティングはじゃあ臭いからやる気がしない。「攻略本」が無いと解けないやうなゲイムを面白がるほど暇ではない。欲しいソフトは囲碁とオセロとゴルフかな。
甘木に依ると間も無く16bit仕様のスーパ_ファミコンが発売されるのだけれど,ソフトが出るかどうか。一時期盛り上がったディスクシステムも尻すぼみで,現状めぼしいソフトも無いらしい。

ファミコンには数数の欠点があって其れは主に容量の小ささに起因するのだが,もっと重大な難点がある。それは今になってハードを買ふのがちと恥づかしいと云ふ事だ。


ちゃんとLPの,と断はらなければレコードとはCDの事を差すやうになってしまった。LPと云ってもCDの方が余程LP(LongPlay)であり従来盤はAD(AnalogDisc)と呼ぶのがふさはしいんだけど,今度はCD(CompactDisc)と対にならない。元元はADに比べて小さいからCDなんであって,ADが廃れれば由来も解らなくなる。どれをどう称してもちぐはぐですな。

CDはもうちょっとましなフォーマットにできた筈なのだが,設定時オウディオ業界には後2・3年待ってゐられる程の余裕は無かった,不況でね。当時実現可能な規格で見切り発車したと云ふのが実状だらう。
取り扱ひが簡単・ノイズレス・ディジタルだからプレイヤに因る音質差も無く非接触の為に永久に新品と同じ音が出ると云ふ鳴り物入りのデビュだったが,現在それは全部みな否定されてゐる。ノイズや大周期のワウフラはあった方が楽曲を芳醇にするしマスタテイプに初めから這入ってゐる。ディジタル回路がラジエイションをばら撒いて外の機器の音を悪くする。片手で楽に持てるから扱ひは楽でも,それはジャケットやライナノウトが小さく見窄らしくなったのと引き換へである。音質も未だに──但し最高峰を比べて──ADに分がある。
記録面をレイザ光が嘗めるだけだからなるほど耐久性は半永久かなと思はせたけれども,実は大変な問題が隠れてゐたのだった。驚いちゃったな,CDは錆びるさうである。

CD盤を蛍光灯なんぞに透かすと,ぽつぽつと光が透過して穴が開いてゐるやうに見える(物が多い)。最近のは減ったやうだが,以前は盛大に見受けられた。自転車や単車のクロムメッキと同じでどうしてもピンホールの発生は避けられない。其処から腐蝕が進んで穴が広がると,やがてドロップアウト補正も効かなくなって読み取り不能になる。
傷・埃・指紋は当然錆の取っ掛かりになるので大敵,CD盤は絶対に濡らしてはならない。湿式クリーナも危険である。腐蝕を防ぐ為には酸素を遮断するしかないが非現実的だ。
LP盤は30年放って置いても30年前と変はらぬ音が出てくるけれどもCDはどうか。初期のCD盤でかうした問題が顕在化してゐる以上,CD盤の寿命は10年足らずと云ふ事になる。残酷な話だと思ふ。

腐蝕しない金属と言へば金だ。金蒸着のCDは音が良いと好評のやうだけれど,高音質である理由に読み取りエラ率の低さが大きいのだらう(これしか無いか)。金蒸着と言ふと如何にも高価に付きそうだが,金は限り無く薄く延ばせるので1枚辺りの原料コストはアルミとどっこいどっこいになるらしい。
しかし製法が難しい。アルミ盤はアルミニウムを蒸発させた中にポリベイスを突っ込むと勝手にアルミの膜を張ってでき上がるが,金はイオン化しないから蒸着させると云ふよりもむしろベイスに叩き付けるイメイジになる。これをやれる工場は未だ少ない。
因みに金蒸着盤は元来コンピュータROM用に開発された物である。ドロップアウトに対する許容度が違ふんだな。LDもCDと同じ事なのだが,金蒸着のLDは登場してゐない。時間の問題か。

何度も言ってゐる事だがね,CDってのはさう持たないと思ふよ。否,右のCD盤1枚の寿命の話だけではなくて,メディアとしてもね。今はソフト会社が静観してゐるから屁のやうなDATだけれど,今年中にハードが10万円を切るとして普及が始まればあっさりCDを追ひ落とす可能性もある。同等のスペックなのにDATは録再なのだ。嘗てのADとカセットの関係とは違ふ。
またLP盤をレイザの反射で(非接触!)読み取るプレイヤも発売された。きっと莫迦高いだらうが,とっても興味がある。

最終兵器はもちろん録再ディジタルLDであって,これはいつ出るか全く予想も付かない。抜け駆け・フライングありとなったら経営不振なオウディオ_メイカが数年中にも苦し紛れに実用化してしまふかもしれないのである。来年の事は誰にも判らない。


左の掌にほくろを見付けた。直径1mm,中指の真下・頭脳線のすぐ上である。ごみでも付いたのかと爪でむしらうとしたらさうではなかった。指で押したのでは何ともないが机なんかに手を突くとピリッとする。そも手の平にはメラニンが乏しい物であって──黒人だって手の平は真白である──こんな所にほくろのできるのはをかしい。
2週間近く放っておいたがどうも気持ち悪いので医者に行った。言ふ迄もなく皮膚癌に進展する恐れがあるからである。
**ビルは4階フロアの半分くらゐが医療センタになってをり,仕切りパネルで細かく分けた各部屋に眼科・歯科・内科(ふたつ)・外科皮膚科・放射線科(遮蔽は完璧なんだろな)等が這入ってゐる。内科には何度も通ったが外は初めて。

外科皮膚科の診断を仰ぐと果たして一瞥するなり「手の平・足の裏のほくろは取った方が良いです」だと。余程やばい物らしい。日を改めて局所麻酔の上でと思ったら,すぐ横の寝台に寝ろと言ふ。あらま。手のひら直撃!の麻酔を掛け特別に照明も点けず徒の天井の蛍光灯の下でたらったりったらったら〜んと(まさか唄ひやしないが)ちょいちょいと切り出してしまった。施術中の様子は見られなかった。
麻酔のお陰で無痛だったけど──その注射が一番痛かった──メスが骨にこりこり当たるのは感じた。きゅーすぱきゅーすぱと縫って(これぢゃ『犬の目』だな)結んでおしまひ。しかし摘出した組織をホルマリンに漬けてたぞ。畜生,標本にしやがった。これが初期皮膚癌の原細胞ですと資料にするに違ひ無い。
手術後は未だ糸が這入った儘だが絞り縫ひのせゐか極めて小さく,拍子抜けした程だ。術後もガーゼを軽く当てただけで,バンドエイドを3枚くれ,傷を濡らすなとだけ言はれた。やはり水濡れは厳禁である。
内服薬は消炎剤が2種類と,型番は明記してあるが薬の辞典に載ってなかったのと完全に不明な散剤が各1種であった。後2者は制癌剤ぢゃないだろな。

素人が針で突いたり線香で焼いたりするのは元より玄人がむやみに除去しても其の刺戟で発癌するケイスが少なからずあるのだが,取っても取らなくともリスクが同じなら取った方が良いだらう。胃潰瘍が必ずしも胃癌になるのではないやうに,ほくろが皮膚癌の走狗とは限らない(でなきゃ僕はとっくに死んでゐる,全身ほくろだらけだからな。こないだ数へたら4096個あった)。
しかして癌は多分に神経症の要素があり,妙なほくろを気にしてゐると本当に悪質化する(と思ふ)。目にしない方が──手の平なんてこんな自分の目に付く所は無いですな──安らぐのである。諸君も手の平・足の裏を一度検分して御覧なさい。色素の沈着があったら弄らないでお医者に診て貰ったが良ろしい。

僕の宿痾はだいたい呼吸器系から発してゐるので死神も其のつてでやって来るだらうと思ってゐたら,新顔が登場してきた。こりゃ参ったね。皮膚癌が肺に転移するのが王道か。脳に回ったら厭だな。
さう言へば今月はやたらに詞が書けた。どれも傑作でしかも新境地を開拓してゐる。既に転移して器質変化を起こしてゐるのかしらん。

不一

1989年2月吉日


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written by nii. n