東京月記8708

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毎年の事なのに懲りないね。帰省ラッシュで大変な渋滞ださうだ。僕はGWに催された兄貴の結婚式にも欠席したくらゐで,この糞暑いのに帰る気なんか全然無かった。2日や3日の休みで広島まで往復してたら疲れて仕様が無いよ,てのが本音。

ここ一両日の東京は,まー空いてた。交通量は平日の2割だったらしい。普段の日曜日よりも少ない。単純計算にして9600万人が地方出身者ってえ事になる。

3代続けば江戸っ子なんだと知人が言っとったが,さうすると江戸っ子を名乗りたくば遅くとも明治末期には直系の爺いが東京(それも山手環線内東半球に。かの怪人二十面相が跋扈してゐたのは本郷辺りだ)に巣喰ってをらねばならぬ。

しかして例へば百間先生の子孫を江戸っ子とは言ひ難い。明治維新で薩長が乗り込んだとき東京に住んでゐた人達が最後の江戸っ子であらう,当たり前か。

僕は高校くらゐから意識的に広島弁を嫌って(一人称の「わし」を追ひ出すのに苦労した)話したし生意気な口調で喋る事もあって,よく東京人に間違はれた。もともと広島は軍都であって伝統的に中央直結なんだけど,なに,僕のは江戸落語の影響なのサ。広島弁なんかもう全然出んのんぢゃ


リクルートの季節ですな。**********の本部が**ビルにあるのかしら,学生が(ひと目で判る)ちょろちょろしてらあ。*****は理系学生の人気投票で堂堂*位に喰ひ込んでをった(去年*位だったんですけど)。******は強力だが,実は金を身内でぐるぐる遣ひ回してゐるだけである。自給自足,と言ふより金を外に出したくないのであらう。超伝導ぢゃあるまいし身内で何でも片付けてたって金は目減りするに決まってゐるが,それを補給するのが主に*****の製品だ。従って***に人気が無いと僕まで困る。

しかし東京の局所的な地価が急騰しただけで三菱地所(**ビルのオーナ)かなんかの順位が上がるってのは何だな,近視眼だね。それで良いんだけどね。いま比較的就職し易いのは証券会社と保険会社だらう。給料も良いがどっちも人海戦術の為の営業要員である。 僕はノルマなんて絶対に厭で営業なんて絶対に厭で,等と言った所で這入ってみなければ判らん。気に入らねえ事を会社が言ひ出したらすぐに退職するつもりでゐやう。

本当に強い企業は自分は巨大化せずに子会社や孫会社をやたらと作って分散増殖してゐる。狙ひ目は大企業の系列会社だ。自動車産業に引っ付いたゴム工業とかバイテクなんか良いね。既に花形産業か。よく考へたら僕の職種はシステム_エンジニア(今はプログラマ)なんぞと云ふカタカナ職業ではないか。あら,恰好良い。でもSEったって誰にも判んないもんなあ。

今の労働環境は恐らく上上のものなので──毎日のやうに遅刻してお茶を飲みに行って女の子とお喋りをして仕事と言へばパズルのやうなプログラムで最新最高速のコンピュータを操って──あんまり辞める気は無い。かう云ふ場に配属されたのは相当な僥倖だと思ふ。


身体の調子が悪いなあ。この夏は曾て無く疲れた。僕のお仕事はデスクワークに終始するので筋肉疲労を起こしはしないが,会社勤め自体が生体エネルギーの方を消耗すると見える。ガソリンの消費よりエンジン_オイルの劣化が酷いとでも言ふか。その晩眠ったからと言って恢復できる性質の疲れではない。

上に書いたやうなルースな職場で此れだから,銀行だの商事だのに這入ってゐたらとっくに御陀仏であったらう。僕とて外の業界の実態を知る由も無く五井物産や大手商事から邪推をすれば,到底僕に勤まりっこないね。

何だか胸が重苦しいんだよね。心臓をいつも誰かにやんわり握られてゐるやうな,厭な感じが付き纏ふ。先の月曜日の午後にはとうとう早退しちまった。

早退した怠勤分は其の内どがちゃがにするから良いとして,問題なのはやっぱり身体だ。辛くて仕様が無い時に限って集中豪雨,****が徐行運転なんかしやがる。御蔭で帰るのに1時間以上掛かった。こりゃ参ったね。夜が更けるにつれて俄然苦しくなって来た。自己診断では自然気胸なんだけれど,これは否定しよう。

自然気胸と云ふのは高2の冬から約1年間僕を拘束した病気だ。凡そ1箇月単位で入退院を繰り返したから高3の出席日数は本当は足りなかったんぢゃないかと思ふ。**先生がどがぢゃがにしてくれたのだらう。あの日日は僕のぐうたらをすっかり開発した。その後の僕に大きく影響してゐる。

気胸と云ふのは肺臓に穴が開いて胸腔内に吸気が漏れ溜まる疾病である。要するに肺のパンクだ,ヘヴィメタではない。水も溜まるが此れは組織液であって雨水ではない。大抵はピンホウルなんだけど,胸腔を負圧にするのが呼吸の吸なのだから容易に確実に空気は漏れる。進行すると溜まった空気が肺や心臓を圧迫するので大変苦しい。潰れた紙風船のやうに肺が萎縮する。息を吸い切れない感じがして(実際にさうだ),酸欠の為に腰から下が痺れる。横になるより起き上がってゐる方がまだしも呼吸が楽で,息苦しくって眠る事ができない。これは何より絶望感を抱かせ,此れがずっと続く物なら自殺したくもなる。

自然気胸患者の男女比は5対1,罹るのは若くて痩せっぽちで背の高い非スポーツマンである。諸に俺の事ぢゃねえか。患ふ原因はよく判ってゐない。切っ掛けの方は様様で,急に激しく運動した(当たり前か)・天候不順で気圧が急変した(う〜ん成程)・骨格の成長に内蔵の其れが追い付かなかった(これかなあ)等がある。まぁTVを観てゐてはっと息を呑んだらなった・うんこしてて息んだらなったと云ふ例もある程で,罹るべくして罹ると言ふのが一番近い。僕の場合直接的には当時の校内マラソン大会の練習がいけなかったのだらうけれど,その前に修学旅行で富士の六合目まで登ったのが遠因ぢゃないかと云ふ気がしてゐる。

治療法は確立してをり,症例も多いから難病でも奇病でもない。普通は入院してひと月ほど安静にしてゐれば穴は塞がり空気も水も体内で吸収されて自然に治ってしまふ。患者も医者もなーんもする事が無い。それで僕も数週間を無駄に過ごした。しかして放っといても治らなかった根性無しには吸気を施す。脇腹に畳針みたいなの(当然管状になってゐる)をぶっ込んで注射器で空気を抜くのだ。この辺の描写は「海と毒薬」か何かにあったと思ふ,あれは結核に因る気胸だったかしらん。

単発の吸気でも治らなかったひねくれ者にはポンプを繋いで延延抜きっ放しにする。しかし針を刺された時は痛かった。これはもう激烈極まる物だ。脇腹に打つ麻酔の針がもう十二分に痛いのに,体側を反らせて(あばらの隙間を広げる為)肋間筋が緊張した所へ極太の針を胸腔まで貫通させる。よく肺臓を傷付けないものだ。うははは,かう書いただけで横腹がちりちりして来た。

とにかく間違ひ無く最大最高の痛みである。これに勝る痛みを感ずる事は二度と無いだらう。あってたまるか。手術よりもこっちだ。この痛みを和らげるには麻酔を多目に打って貰ふしかないが,大量の麻酔は体内で薬効成分を分解するのに時間を食ひ其の間ずっと疼痛が続く。一長一短,ではなくて其れでも疼痛の方がましである。そのくらゐ痛い。

所が此の激痛と数週間が結果的には無駄になったんだな。結局手術をする羽目になった。僕は入院当初からオペまで行かないと治らない気がしてゐたのでむしろほっとした。笑気ガスに依る全身麻酔である。でも脊椎にも何か打ったな。全麻は貧血で気を失ふのに似てゐるがまう少し気持ちが悪くて寝覚めは爽かである。五月下旬に左肺を,十一月の半ばに右側を手術して貰った。左が完治して退院した後に改めて右をやったのだがね。順送りで良かった。両肺同時に起こってゐれば此れはまう窒息して命を落とす。

自然気胸は非常に物理的な疾病なので手術して穴を塞いでしまへば再発は無い。自然治癒だと再発率は結構高くて3割から4割に達する。俯せにしといて背筋を電気メスで裂き肋骨を一本切り落として肺臓を引き摺り出し生理食塩水に漬けて泡の噴いた所を潰して鑢を掛け胸腔に戻して肋骨を食っ付け傷を縫い合はせると云ふ手術だが,まるきり自転車のパンク修理ではないか。鑢を掛けるのは胸腔に癒着するのを防ぐ為ださうだ。

かなりの大手術だが輸血はしなかったらしく,エイズ_キャリアになり損ねた。手術の所要時間を測らうとオペ室に行く直前にワッチを計測モードにしついでにラジカセでエアチェックまで始める程の余裕を見せたおいらだが,麻酔から覚めた時にはすっかり忘れてゐてどちらにもモディファイを掛けたのでどちらもスポイルされた。

すっかり元通り,と言ひたいが未だに凄い傷跡を背負ってゐる。術後は僅か2週間で退院できた。恢復力は若いのと爺いとでは何週間も違ふと云ふ事だ。

とにかく自然気胸ぢゃないだらう(やっと本題に帰ったな)。でもよく考へたら肺は発病前の状態に戻っただけで,他の部位に穴が開かないとも限らない。ともあれレントゲンを見ないと何とも言へない。

近所に**省**局の付属病院があるのできゅうきゅう言ひながら行ってみたら,**医師会の紹介状が無いと一般人は診てやらないと断られた。てめえ此の野郎,そんなら電話帳に載せるな。頭に来たが酸素を余計に喰ふので怒りを燃焼させられない。タクシに乗って内科と外科と両方あるやうな大き目の病院へ連れてってくれろと言ふと,都立駒込病院へ送られた。

どう云ふもんかね。歯医者ぢゃあるまいに予約制だと言ふ。飛び込みは急患だけらしい。来院者の数がそんなに多いのか。多さうだね,驚いた。

息が苦しい,自然気胸の経験者だと訴へると,急患扱ひにして入れてくれた。大変長い時間待つ間にも自己診断を繰り返したが,どうも気胸臭い。家には一応入院セットを作って用意してある。こりゃ参ったね。

でも此処に入院すると云ふ気がしないんだな。この,気がする・気がしないと云ふ感じを僕は大切にしてゐる。これだけは当たるのだ。レントゲンを見て医者曰く「気胸は起こしてないねえ」
「はあ,さうですね(僕も胸部レントゲンはちったあ読める)」
「何処も悪くないよ」
「あ,いや。心臓の辺りが苦しいんですけど」
「気にし過ぎぢゃないの」
「いやぁ朝電車なんかで気持ち悪くなる事があるんですが」
「まぁ血圧がちょっと低いからね,それは仕方無いね」
「何処も悪くありませんか」
「何ともないね」
「そこを何とか」
「まぁ元気にやんなさい」

う〜ん,現実には不快感があるけれど医者にあんたは元気だと言はれては仕様が無い,すごすご帰った。余りの展開だったので次の日も休んぢまった。診療費は何と440円,タクシの初乗り運賃より安い。駒込病院の診察券はキャッシュカード_タイプ,磁気塗装部分にカルテ検索用の情報が盛ってあると思はれる。恒久使用ださうだ。

体調を崩した要因は何か。この探究が肝心だ。ここ20年ばかし僕は偏食を続けてゐるので今さら病根とはならぬ。エアコンだらうね。身体がだるいだるい。覿面にメロメロになった。思はず頭に卵の殻を被ったくらゐだ。それはカリメロでショ。


前に記したローマ字表記の件だが,僕の中で折り合ひが付いたので書く。

彼はアメリカへ行った。心配するな。
Kare ha America he itta. Sinpai suruna.
論より証拠。気違ひに刃物。
Ron yori syôko. Kitigahi ni hamono.
ファミコンでゴルフをしたのはオークボだ。
Fami-com de golf wo sitanoha Ôkubo da.
  1. ヘボン式を廃し日本式とする。
  2. 発音に拠らず語に従ふ。但し長音の表記には母音字の上に^を付ける。
  3. 外来語は原則として母語の綴りを採る。

例を枠内に挙げやう。

語に従ふので歴史的仮名遣ひの文章でも仮名を忠実に変換表記する。仮名だけで書いた文章でもさうだけれど,どうせ僕等は漢字仮名交じり文をちらと頭に思ひ描かなけければ読めやしない。ついでながらヘボンを止めたのは本多勝一先生の影響とは違ふ。

不一

1987年8月吉日

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広島弁なんかもう全然出んのんぢゃ。
島田"B&B"洋七往年のギャグをアレンジ。洋七のは「大阪弁なんかもうぜんぜん出まへんわ」。
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今の労働環境は恐らく上上のもの
しあわせだったなあ。(02.8/10記)
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五井物産や大手商事
たぶん聖日出夫『なぜか笑介』・コンタロウ『いっしょけんめいハジメくん』の架空過労企業名。
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どがちゃが
故意にうやむやにすること。落語『味噌蔵』で主人の留守にこっそり豪勢な宴を張って費用の捻出元を心配された番頭が曰く「筆の先でどがちゃがとがちゃが」。
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written by nii. n