神奈川月記9012

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冠省
もう金も貰った事だし,書いてしまへ
この9月の終はりから10月半ばに掛けてアルバイトをしてゐた。もちろん会社関係には内緒のヒ・ミ・ツ(はぁと)。
バイトと云ふのは某月某日都内某所で行なはれた会合の議事録を,録音テイプから原稿に起こすものだ。音源は「****フォーラム」と名付けられた会合の,年4回ていど催される内の第1回である。知り合ひの甘木がそのフォーラムの頭目の秘書のやうな事をしてをり,本来なら彼女の仕事なのだけれど面倒がって外注に出さうとした,それへ僕が一枚かんだのである。

フォーラムの性格を聞くに大変アカデミックな匂ひがして僕の好みだ。しかも僕の部屋にはワープロはあるはラジカセはあるは,また誂へたやうにファクシミリまである。俺がやらねば誰がやると云ふ気分になった。
一番やる気にさせたのは,へへ,バイト代なんだけど,草稿の上がりに20時間かかるとして*万円,うーん,やるやる。おいらやるよ。

「****フォーラム」は産・学・官の勉強会と云ふ事になってゐる。主幹はこの為の委員会であり肝煎りは何と**省****局,金を出すのは協賛企業だあな。
委員長はなかなか高名で著書も多いKH先生すはなち甘木のボス。委員には有名さうな所で***・****・****(先生のダチださうだ)・****なんてのが居り,協賛企業に至っては──大丈夫かなー,こんなこと書いて──**ー*・***ー***・*屋・**堂・**・***銀・**・****・****・**・****と大企業が目白押しである。どうでも良いけどこんな所に金を遣ってやんのな。何か引っ掛かるものがあるね。

夕刻から2時間半くらゐの間にひとりが1時間弱話題提供者として何やかや専攻分野に絡めて喋り,残り時間を自由討論に充てる。食事も出る。発言は自由だが何らかの結論なり成果なりを導かうとするものではなく,今日の話は面白かったネと云ふ程度らしい。だからやってもやらなくても同じなんだけど,それを言っちゃあおしまひだ。
会場は***の立派な会館であってこの数時間に*万円を費やしたらしい。うむー。
当夜の出席者は協賛企業から1名づつに委員が8名・**省からわらわらと11名と,都合30余人。企業人は概ね部長・専務クラスの人が,官吏は課長クラスの人が出張る。尤も話題提供者を含めて発言したのは12人ばかしで,他の人達は只飯くって帰っただけである。誠においしいフォーラムと言はねばならぬ。
****氏の欠席だったのが残念至極だけれども彼は例の*博の不始末で倥偬な毎日だったのだ。

スピーカは建築家のKSさん(僕は知らない)で,「都市と住まいの変遷」なるテーマを掲げオウヴァヘッドを30枚つかっての熱弁であった。お話自体は割りと面白い,現実味は薄いやうな気がするけど。
要約すると,最上層が緑化公園と居住区で内部に道路・運河・公共施設を持つ人工土地を建造する「***」構想と云ふのがあって,これが20年前からずっと研究されてゐる,構造物は全て統一規格のジョイントとメンバで組み立てられ,解体・再利用が可能だから資源のストックにもなり都市計画の拡張と修正が容易であると。
これで日本も安泰だ,てな論調だったが埋立地にプレハブを建てるのと大差無いよなあ。

さて実際のバイト作業だが,思ったよりはずっときつかった。折り悪しく本業のソフト屋の方も本番稼働目前のシステムをふたつ抱へててんてこ舞ひ,僕の担当した部分はボロを出さなかったからまだ良かったが,トラブッてゐたら納期(どっちのや)が1週間おくれたらう。
カセットで120分のまるまる1本と90分のが四半分ほどのノウカット版である。ラジカセで聞き取って素早くポーズ・打鍵・変換・聞き取りてなロウテイションを繰り返す。しかしながら一度にディクテできる量は2文節か3文節,時間にして2秒かそこらだから,もう気の遠くなるやうな道のりであった。
第1稿から余りカットする訳にも行かず,また御承知の通り話し言葉とはそのまま書き出したなら文章としては破綻してしまふものである。辻褄を合はせるのに久久に頭を遣った。

いくら聞き取りをこなしてもちっともテイプが進まない。生きながらにして無間地獄に落ちたかと思った。
ただでさへ気の狂はんばかりの行程なのに,ゆ・許せん,このキャノワードα5SのOSにバグがあったのだ。何段落も打ち込んだ後の変換確定作業中にキイボードロックを起こして完全に沈黙すると云ふ,血も涙も無い所業を何度も食らった。かうなると電源を一旦落として再立ち上げするしかエスケイプの術は無く,従って前回格納した所から全てやり直しと云ふ事になる。これでは丸切り賽の河原ではないか。

一重つんでは父の為,二重つんでは母の為,三重つんでは西を向き,樒ほどなる手を合はせ,郷里兄弟我が為と,あぁいたはしや幼子は,泣く泣く石を運ぶなり。

素稿の編集に要する時間は発言に要したそれの10倍と見て,これはだいたい当たってゐた。量で言ふとA4紙にまづまづ詰め込んで23枚半,実に4万5000字である。僕の卒論の倍ぢゃねえか。

第1版が上がった所でフォーラムの事務局(つまり甘木の職場)にファクシミリで送信する。そこで採ったコピイを発言者に郵送して朱を入れて貰ったのを──各人の立場上不穏当な言質を無き物にする都合もある──またファクシミリで受け取って校正するのである。これを3回やって清書したのを一応納品とした。報酬と必要経費(インクリボン2本とA4普通紙50枚・B4感熱ロウル紙1巻。正味の消費量は無論ぐっと少ない)を戴いて完了である。
もう二度とやりたくない,と言ふのは嘘でやっても良い。しかし次からは速記者を会場に入れるさうだ。あ,決して僕の仕事が先方に嵌らなかったからではない(と思ひたい)。

仕事に掛かる前に甘木から歴史的仮名遣ひの使用とギャグの挿入は固く禁じられた。禁じられた遊びですな(かう云ふ事を書くなと言ふのだ)。わざわざ断はらなくたって僕とてそれほど非常識ではない。
ただ用字用例・文章作法については,草稿の段階では僕のルールに従った。漢字もなるべく減らすやう注意されはしたのだけれど──KH先生は漢字が嫌ひなのだ。名詞は漢字・動詞は平仮名で著す方針らしい──2版・3版の段階で改めれば済む事だと思ってばんばん遣った。結果的にかなりの修正が発生して,要らん事したかなとちょっぴり反省しないでもなかったね,ワープロのコマンド一発で直せる範囲ではあるけれど。

私を殺して記述に徹する長文を書いたのは久し振りである,いやいや産まれて初めてである。ガキの頃の作文の宿題は元より大学の卒論でも就職してからの社内論文でも自分の署名が這入ってゐた。仮名遣ひや用字の制限は課せられても文体は自由である。
今回は話し言葉を,若干体裁を整へて引き写すだけなので文体も何も無い。僕ぢゃない文章を組み立てる作業は新鮮で,僕である文章へのフィードバックも少なからずもたらされた。何より漢字が減ってゐるのである。変はってない? 減ってるのよ,意識的に減らしてるんだから。

僕の文章作法を纏めてみようか。

  1. 原則として漢字仮名混じり文を用ゐる。
  2. 原則として歴史的仮名遣ひを用ゐる。
  3. 原則として名詞・動詞・形容詞・副詞は漢字で書く。
  4. 原則として漢字は新字体を用ゐる。
  5. 送り仮名は多めに送る。
  6. 原則として外来語は片仮名表記とし,母語の発音に近付けて記述する。
  7. 句点を打ち過ぎない(句点の少ない文章を良しとする)。
  8. ローマ字表記は日本式とする。
  9. 記号の類はあくまで補助として用ゐ,使用を限定する。

記号については,まぁ上に掲げた以外にも遣った事がある物もあるけれども,今後は遣ふつもりは無い。なほ一般に見受けられる「々」(読み方さへ解らん)は断固排除してゐる。いま書いたのが悔しいくらゐだ。

この形式のフォーラムはあと3回あり,議事録がみな揃ふと出版の可能性がある。一体だれが買ふと云ふのでせうか。Special thanksに僕の名が載るのぢゃないが,楽しみにしてゐる。

不一

1990年12月1日


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written by nii. n