神奈川月記9011

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冠省
僕の就職先は**********だが仕事先は*****である。***の社屋は****にあるのだが作業場は**である。**には**の別館がふたつあるのだが通勤先は一号館の方である。****別館・通称*1である。今ひとつは****第二別館で,当然これは*2である。現在*2の隣に豪奢な*3を建設中である。

**に住まふ人もあれば**に勤める人もあり,駅はターミナルでもないのに乗客の乗降が結構はげしい。よく考へたら此処は近所に貝塚の出たりした土地であって縄文時代から住宅地兼就労地だったのだ。
*1の4面にはレンタルヴィディオ屋(でもこないだ潰れた)やファミリーマートや児童公園や公団住宅があり,*2へ行く途中には西友がある。*2までの数百mはサラリーマンとガキとOLと主婦とミニパトとが入り乱れ,恰かもバベルの塔の建設現場のやうだ(どう云ふ譬へだ)。

*2にはホスト_コンピュータと漢字プリンタ(ワープロやパソコンのそれを想像しても駄目だよ)が置いてあり仕事の都合で週に何回か出向くのだけれど,単に昼飯を喰ひに行く事も多い。市井の食堂は混むし遠いしヴァリエイションを付けるのが大変だしで滅多に利用せず,*2の社員食堂へ行くかお稲荷さんでも買って喰ふか抜いて済ますかしてしまふ。

*1にも社員食堂があるにはあるが,これは実に全く信じられないくらゐまづい。君が今までに金を払った飯の内で最もまづかった物よりも更にきっとまづいだらう。季節・天候に関はらず毎日コンスタントにまづいのである。この段落の文章に誇張法は遣ってゐない。カツ丼の衣が苦いなどと云ふ事があるか。豚の喰ひ残しを集めてきたのではないかと思ふくらゐだ。
余りにまづいのでコックがわざとまづくしてゐるのではないかと初めは疑った。しかし何年経ってもまづい物はまづい。**の社員に何らかの遺恨があるとて人間の憎悪がこれほど長く深く強く続くとは到底かんがへられず,従って復讐ではないのだ。
とならば*1のコックが良かれと思っての味付けと云ふ事になり,これまた人間業ではない。さうは言っても仮にもプロの板前が十全に腕を奮っての結果がこれなら板さんと僕との見解の相違に外ならぬと云ふ事になり,文句を付ける筋合ひではなくなってしまふ。古来客商売には,嫌なら喰ふなと云ふ奥の手があるのだ。

よく食べ物を残すせゐか僕は気難しいグルメなのではないかと思はれる事がある。勿論さうではない。何しろ赤白ロゼの区別も付かないし浅蜊と蜆の見分けもできないのだ。更に僕は合成甘味料も化学調味料も香料も着色料も防腐剤も結着剤も認めてをり,剩へ莨を吸ふ。雄山や士郎のタイプの対極にあって,そもガキの頃からの偏食王である。
食通と云ふからには全ての料理を恐れずに口に入れられなければならない。僕が今までに食した最右翼は寒雀である。野良猫の方がよっぽどグルメだ。

尤も確かに食べ物には大変きびしい。厳しいとは言ってもうまい物が好きでまづい物は嫌ひだと,ただそれだけである。
*1の食堂に見切りを付けたのは,余りに衝撃的だったので手帳に控へたくらゐで,90年6月21日のピラフが決定的であった。正しく筆舌に盡くし難い味であり,これは絶対に人間の領域に無い。辛過ぎるとか味が薄いとか云ふ段階ではなく,腹っ塞げに我慢して飲み込むのもおぞましい,単に澱粉と油の混合体と云ふ物質であったのだ。もっと驚いた事にこれを残さず食べてしまった人が複数あって,此処において僕は全面的に見解の相違を認め,以後*1の食堂と交渉を断ってゐるのである。

**関係の社員食堂で僕が知ってゐるのは先述の*1・*2・*C(本社屋。****の頭文字から)と,外に**ビルもある。
だいたい定食が2種に麺類が2種・小鉢が2種でそれぞれ280円・190円・80円てえ所だが,僕は本社員ではないからこの値段では喰へない。ヴィジタ料金でほぼ倍額になる,こりゃ高いよね。もう100円足せば町の定食屋のまともな物を食べられる。*2のランチだって社員食堂のレヴェルに過ぎないのだ。

ところで**の社員食堂では割り箸を使ってゐたのを,順次ダプレン箸に替へていくと言ふ。ダプレンって何だ。何の事はない,合成樹脂のプラ箸だった。ははん,こりゃ例のエコロジイ対応だな。社員食堂なんかでかう云ふポーズをしておくと,対外的に良い恰好ができる。こんな事を喜ぶ莫迦は多いからね。
**にしては素早い変はり身だが,逆に**ともあらう者がつまらん素振りをするもんだと,ちょっと悲しい。しかもダプレン箸は定食用だけで,麺類には従来通り割り箸を付けるさうだ。滑るからだと。あらあら。

**関係の社員食堂が割り箸を止めると直径何十cmだかの木が年間何百本か助かる計算になるさうで,そりゃ使った割り箸を括ったらそんな体積になるんだらうけれど,別に割り箸の為に木を切って割り箸しか採らない訳ぢゃないでせうが。そんな事をしてゐたらかうも安い値段で割り箸を供給できる訳は無い。間伐材や廃材を利用して零細業者が必死に生産するからこそだ。割り箸業者をいぢめてはいけない。割り箸を採らなかったらその廃材は燃えるごみと化し重油を使って焼却処分されるだけである。ダプレン箸を洗った廃水が海に流れ込むし収納棚だって作らなくちゃならない。大切な資源を無駄遣ひして大好きな地球が汚れちゃふよ。
一所にするとそれぞれから怒られさうだが,どうも昨今のエコロジストと反原発論者と鯨を守らうとする皆さんとは同じ匂ひがして仕様が無い。有体に言へば胡散臭い。僕は脱原発には賛成だが反原発には反対であり,鯨が絶滅するのも止む無しと思ってゐる。

そんな話をしたかったのではない。
先日*2の食堂で豚の角煮が出てうまいうまいと噛み締めたら右下の奥歯が痛い痛い。家に帰って見てみたら第一大臼歯と第二大臼歯の間の歯茎から血がぢくぢくと滲み出てゐる滲み出てゐる。爪楊枝を突っ込んでほじくったら出るは出るは。当の角煮から添へ物の菠薐草・前夜のラーメンと餃子・前日のさんまと大根おろし,幾らでも発掘される発掘される。歯の横っ腹が完全に侵食されてゐた侵食されてゐた。左上の中切歯と側切歯の間にも舌で触はると何か挟まってゐる感じがして──気のせゐだった──精密ドライヴァを突っ込みがしがしやったらカキッと音がして虫喰ひ葉状に欠けた欠けた。
ぼろぼろである。

うむーこの痛み堪へ難し,さて御使者の口上は,屋敷を出る折り聞かずに参ったと云ふ訳で,歯医者へ行く決心をした。
最近の歯科治療と云ふと就職直前の事でありそれは昔の詰め物が脱落したのを入れ直して貰ふ為で,その前は右下の親知らずが凶暴に伸びたのを抜いて貰ふため,虫歯が痛くて歯を削るなんてのは中学以来じつに15年振りだ。屈辱の治療である。でも詰め直しの時に,だいぶん来てますねぇなんて言はれてたから観念しよう。それに前歯が透いてゐる。周知のやうに透きっ歯はこの上無く間抜けに見えるのだ。

仕事中に抜け出す方が便利なので大森のお医者にする。同僚に教はった歯科医院は普通のマンションの2階にひっそりとあった。お医者様は日本人ではないさうである。果たして「アイヤー,コリハ酷イアルネ。ポコペン。良イ歯ガ全然無イアル」「先生,無いんですかあるんですか」,まさかそんな事は言はない。
この先生の訛では大陸の人なのか半島の人なのか判らないのだけれど──和名を遣っておいでだ──治療に際しては四千年の秘術ではなく東大歯学科の技術が用ゐられる。
初日はレントゲンの撮影だけ,それから削って型を取るのとメタルを詰めるのとで2日のセットを右下・左下・右上・前上・左上について5セット延べ10日間の日程である。治療日の間隔が1週間以上あるから優に2箇月は掛かるだらう。

此処2本・此処3本とかお医者様が看護婦に告げるのを素早く数へたら12本あった。僕の親知らずは下の2本しか生えてこず──上顎には根も無い──前述の通り1本ぬいたので歯は全部で29本しかない。殆ど半分だめになってゐたのだ。
今は2セット終はった所で,下の歯列はピカピカに輝いてゐる。右3本・左2本が徹底的に削られ,一番安い合金(健保の効く範囲で直してチョーダイと頼んである)に覆はれたのだ。もちろん痛みは無く角煮が挟まる事も無い。
しかし強烈無比に染みる。神経がメタルに触れてゐて,熱いもの冷たい物が当たった瞬間メタルが温度を伝導し,かくも神経を刺戟するのだらうか。肉まんやアイスクリームはとても噛めない。
これは治療に失敗したのではないかと思って恐る恐る申し述べると,看護婦の姉ちゃん(僕よりずっと年若だけど。要らん事だが歯科の看護婦子って何処でも若いよね,看護学校を出たばかりみたいな。可愛い可愛い)が言ふには放っとけばそのうち染みなくなってくる。本当かなあ。

僕がガキのころ歯医者は痛い代表だったけれども,今は麻酔を必ず掛けるのでコントみたいにギャーと叫んで逃げ出す人は無くなった,昔だって居なかったか。
前は抜歯だって本当にヤットコでゴギンとやってゐたやうな憶えがある。あ,単に僕が子供だったから麻酔しなかっただけで当時も大人には無痛治療してたのかな。でもレントゲンを撮るやうになったのは最近だよね。

小学生時分には毎朝一所懸命みがいたが虫歯は絶えなかった。健康診断の度に歯医者に行かされて痛い思ひをする。それでやけになり──本当は面倒臭くなったのだ──中学の半ばで磨くのを止めたらぴたり虫歯の発生と進行が止まった。うーん。

あんまり磨かないと歯糞でざらつくから週に何度かと云ふ事で,お風呂に這入って1回置きに洗ひ場で磨くと云ふシステムを編み出した。天才である。胸元を汚す心配も無いし早起きしなくて良いし冬に冷たい水に触はらなくて済む。
現在もこのシステムを原則的に採ってゐるのだけれど,内風呂でシャワーでお手軽なものだから入浴の機会が増え,附随して歯磨きも頻度が増え,結果的に虫歯が増えたのであらう。何事に依らず中途半端は身を滅ぼす。

歯磨き粉は専ら結晶塩の這入った物(今はサンスターの『SALTカプセル』)を使ふ。薬用で高いのだが,しょっぱくて──デンタライオンなんかよりは──おいしい。歯ブラシは『リーチ』の固めである。電動歯ブラシには非常に興味があって使ってみたいと思ひはしてもブラシがせこいしパーツの補給に難がある。どうして普通の歯ブラシを取り付けられるやうにしないのかね,さうすりゃもっと売れるのに。

残った1本の親知らずには,素人目に虫歯の黒い徴がばっちり載っかってゐる。左下のセットの時これには手が下されなかった。お医者の陰謀か深慮か。
次にかう云ふシリーズがあるとすれば10年は後の筈である。もう入れ歯かもね。

下前歯の裏に頑固に張り付いてゐた莨のヤニを取ってくれたよ。それが一番うれしかったね。

不一

1990年11月4日


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written by nii. n