天武天皇 てんむてんのう 生年未詳〜天武十五(686) 諱:大海人皇子 略伝

父は舒明天皇、母は斉明天皇と伝わる。中大兄皇子(天智天皇)・間人皇女の同母弟。大津皇子大伯皇女草壁皇子高市皇子長皇子弓削皇子舎人皇子・新田部皇子・穂積皇子紀皇女・忍壁皇子・礒城皇子・泊瀬部皇女・多紀皇女・但馬皇女ほかの父。
天智天皇の皇太弟として改新政治に参与。天智七年(668)五月、蒲生野の狩猟に従駕する。額田王の歌に答えた(万葉集巻一)のはこの時か。天智十年(671)十月、病に臥していた天皇より後事を託されるが固辞し、剃髪して吉野に入った。やがて天智天皇は崩ずるが、翌年、身の危険を悟り、兵を起して東国へ逃れた(壬申の乱)。高市皇子・大伴吹負などの活躍により大友皇子らの率いる近江朝廷軍を破り、倭京を平定。天武二年(673)二月、飛鳥浄御原に即位した。同十年(681)二月、律令を改め、法式改定を命ず(飛鳥浄御原令)。また八色の姓・冠位四十八階を制定するなど、天皇を中心とした集権国家体制の確立に努め、律令官人制や公地公民制の整備を推進した。同十五年九月九日、崩御。以後皇后が政務をとった(持統天皇)。陵墓は檜隈大内陵(奈良県高市郡明日香村)。仏教の振興や国史編纂にも意を注ぐなど、その業績は多方面にわたった。
万葉集に四首の歌を残す(「或本歌」を加えれば五首)。

皇太子の答へたまふ御歌

紫のにほへる(いも)を憎くあらば人妻ゆゑに(あれ)恋ひめやも(万1-21)

【通釈】紫草のように美しさをふりまく妹よ、あなたが憎いわけなどあろうか。憎かったならば、人妻と知りながら、これほど恋い焦がれたりするものか。

【補記】天智七年(668)五月五日、天智天皇が大海人皇子以下王侯諸臣を従えて近江の蒲生野に薬狩を催した時、額田王の「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」に答えた歌。万葉集では相聞の部に入れず雑歌としていることからも、恋の贈答ではなく、宴席での戯れ歌であることは明らか。

天皇御製歌

吉野(よしの)の 耳我(みみが)の嶺に 時なくぞ 雪は降りける ()無くぞ 雨は降りける その雪の 時なきがごと その雨の ()なきがごと (くま)もおちず 思ひつつぞ()し その山道を (万1-25)

【通釈】吉野の耳我の(みね)に、絶え間もなく雪は降っていた。休む間もなく雨は降っていた。その雪が絶え間もないように、その雨が休む間もないように、曲がり角ごとに物思いをしながら来たのだ、その山道を。

【語釈】◇耳我の嶺 原文「耳我嶺」。吉野の山という以外不詳。◇時なくぞ 時の区別なく。始終。◇隈もおちず 曲がり角も一つ残さず。◇思ひつつぞ来し 原文「念乍叙来」。「思ひつつぞ来る」と訓む説もある。天智十年(671)、身に危険の迫ったことを悟って吉野へ逃れた時のことを回想しているものと思われる。

天皇、吉野の宮に(いでま)す時の御製歌

()き人の良しとよく見て()しと言ひし吉野よく見よ良き人よく見(万1-27)

紀には「八年己卯(つちのとう)の五月、庚辰(かのえたつ)(つきたち)甲申(かのえさる)に吉野宮に(いでま)す」といふ。

【通釈】昔の立派な人が、素晴らしい所だとよく見て、喜ばしいと言った、この吉野をよく見よ。今の善良な人であるお前たちも、この聖地をよくよく見よ。

【補記】原文は「淑人乃 良跡吉見而 好常言師 芳野吉見與 良人四來三」と、「よき」「よし」に注意深く漢字を振り分けている。初句の「淑き人」が古人であるのに対し、結句の「良き人」は同時代の人を指すのであろう。結句の「よく見」の「見」はおそらく命令形。「よ」を付けずに命令の意をあらわす古形であろう。

【主な派生歌】
かたらばや吉野よくみてかへりこむ人にもけふの花の夕を(三条西実隆)
よしの山雪か雲かのけぢめをもよく見てきませよき人よ君(加藤美樹)
よき人のよしといひつる吉野山よく見て行きてよしとかたらむ(本居宣長)
よき人をよしとよく見し夕べより吉野の花の面影にたつ(*香川景樹)
淑き人のよく見と言ひし芳野山よく見て行かな淑き人のため(鹿持雅澄)
淑き人のよしとよく見て住みよしと云ひし吉野に住めるよき人(平賀元義)

天皇、藤原夫人に賜ふ御歌一首

我が里に大雪降れり大原の古りにし里に降らまくは後(万2-103)

【通釈】我が里に大雪が降り積もっている。お前の住む大原の古ぼけた里に降るのは、ずっと後のことだろうよ。

【補記】「我が里」は天武天皇の宮があった明日香浄御原。「大原」は藤原夫人(五百重娘)の実家のある土地で、今の明日香村小原。夫人の返歌は「我が岡のおかみに言ひて降らしめし雪のくだけしそこに散りけむ」。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年03月11日