長皇子 ながのみこ 生年未詳〜和銅八(715) 略伝

天武天皇の第七皇子。『皇胤紹運録』によれば母は大江皇女(天智天皇の皇女)。弓削皇子の同母兄。子に栗栖王・長田王・智努王・邑知王・智努女王・広瀬女王らがいる。
持統七年(693)、浄広弐。大宝二年(702)十月、持統太上天皇の東国行幸の際、藤原京に留まり、隠(名張)に廬する「妹」を詠んだ歌を作る。慶雲元年(704)正月、封を二百戸加増される。この時二品、天武皇子で序列はトップであった。慶雲三年九月から十月、文武天皇の難波行幸に従駕し、歌を詠む。和銅七年(714)正月、舎人・新田部・志貴諸親王と共に封二百戸を増す。この時も序列トップ。翌和銅八年六月四日、薨ず。一品とあるが、叙品の記事は見えない。享年は四十代か五十歳前後と推定されている。
万葉集には上記のほか、巻一巻末「長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌」、巻二の「長皇子、皇弟に与ふる歌」がある。

二年壬寅(みづのえとら)、太上天皇、参河国に(いでま)す時の歌
長皇子の御歌

宵に逢ひて(あした)(おも)無み(なばり)にか()長き妹が廬りせりけむ(万1-60)

【通釈】宵に共寝をして、翌朝恥ずかしくて会わせる顔がなく、隠(なば)ると言う――その名張で、旅に出て久しい妻は仮の宿をとったことだろうか。

【補記】大宝二年(702)十月から十一月にかけての持統太上天皇の三河行幸に際しての作。飛鳥の都に留まった長皇子が旅先の妻を思いやって詠んだ歌。隠(なばり)は三重県名張市。畿内の東限で、ここを越えると伊賀国。

慶雲三年丙午(ひのえうま)、難波宮に幸す時
長皇子の御歌

霰うつ安良礼(あられ)松原住吉(すみのえ)弟日娘子(おとひをとめ)と見れど飽かぬかも(万1-65)

【通釈】霰が打ちつける安良礼松原は、住吉の弟日娘子と同じく、いくら見ても見飽きることがない程すばらしい。

【補記】慶雲三年(706)晩秋九月から初冬十月にかけて、文武天皇の難波行幸に従っての作。志貴皇子の名歌「葦辺行く鴨の羽がひに…」と並んで出ている。「安良礼松原」は住吉の海岸か。「弟日娘子」は遊行女婦(うかれめ)と思われる。土地と人を同時に讃美している。

大行天皇、難波の宮に幸す時の歌
長皇子の御歌

我妹子(わぎもこ)を早見浜風大和なる我まつ椿吹かざるなゆめ(万1-73)

【通釈】我が妻を早く見たいと思う――その名も早見の浜を吹く風よ、大和で私を待っている松や椿の所まで吹いて行ってくれ。決して忘れずに。

【補記】文武三年(699)か慶雲三年(706)の難波行幸の折の作。「我妹子を」は「早見」(所在未詳。住吉付近か)の枕詞。「我まつ椿」は故郷の大和で待つ妻を暗喩。「吹かざるな」は二重否定で強い命令をあらわす。「吹かずにいるな」、即ち「必ず吹いてくれ」ということ。

長皇子、志貴皇子と佐紀宮に倶に宴する歌

秋さらば今も見るごと妻恋ひに鹿()鳴かむ山ぞ高野原の上(万1-84)

【通釈】毎年秋になったら、今も我らが見ているように、妻を恋うて雄鹿が鳴く山であるよ、この高野原の上は。

【補記】平城遷都後、長皇子が従兄弟の志貴皇子を佐紀の自邸に招いて宴をした時の歌。佐紀は平城京の北。高野原は佐紀の北の丘陵。「今も見るごと」の見る対象を山田孝雄は「その状をかたどれる物」とし(萬葉集講義)、これを踏まえて伊藤博氏は「秋の野に鹿の鳴くさまを描いた絵ではないかと思う」と言い、邸内に飾られた屏風絵などを眺めての歌かと推測している(萬葉集釋注)。

長皇子、皇弟に与ふる御歌一首

丹生(にふ)の川瀬は渡らずてゆくゆくと恋痛(こひた)し我が()いで通ひ()(万2-130)

【通釈】丹生の川の瀬は渡らずに、まっすぐどんどんと通って来てください。恋しさに心痛む我が弟君よ。

【補記】「皇弟」は弓削皇子を指すと思われる。一首には何らかの寓喩が籠められているかと思われるが、よく分からない。


最終更新日:平成15年08月23日