舎人皇子 とねりのみこ 天武五〜天平七(676-735) 略伝

天武天皇の皇子(第六皇子か)。母は天智天皇の皇女新田部皇女。子に三原王・三島王・船王・池田王・守部王・大炊王(淳仁天皇)などがいる。
持統九年(695)正月、浄広弐。大宝四年(704)正月、長親王らと共に増封される。この時二品。和銅七年(714)正月、さらに封200戸を増す。養老二年(718)正月、一品に昇叙。同三年十月、元正天皇より新田部親王と共に皇太子首皇子の補佐を命ぜられる。また内舎人・大舎人・衛士を増員される。同四年五月、『日本書紀』を奏上。同年八月、右大臣不比等薨去に伴い知太政官事に任ぜられる。神亀元年(724)首皇子即位(聖武天皇)に際し、封500戸を加えられる。天平元年(729)二月、長屋王窮問使。同年八月、安宿媛立后の勅を宣伝。天平五年(733)十二月、橘三千代に従一位を追贈する役を負う。同七年十一月、天然痘の蔓延する平城京で60歳の生涯を閉じ、太政大臣を贈位される。長命を得たと言えるただ一人の天武皇子であり、また最後に生き残った天武皇子でもあった。天平宝字三年(759)、子の大炊王が即位するに及び、崇道尽敬皇帝と追号される。万葉集には三首入集。

舎人皇子の御歌一首

ますらをや片恋せむと嘆けども(しこ)のますらをなほ恋ひにけり(万2-117)

【通釈】立派な男子たる者が片思いなどしようかと嘆くけれども、みっともないこの大丈夫めはそれでもやはり恋しく思うのだったよ。

【語釈】◇ますらを 立派な男、一人前の男子。原文は初句では「大夫」、第四句では「益卜雄」。◇醜 罵り言葉。

【補記】舎人娘子の「奉和歌」は「歎きつつますらをのこの恋ふれこそ我が結ふ髪のひちてぬれけれ」。

【他出】古今和歌六帖、袖中抄、古来風躰抄

(みことのり)にこたへ奉れる歌

あしひきの山に行きけむ山人の心も知らず山人や誰(万20-4294)

【通釈】(そもそも山にお住まいのはずの)仙女様であられる陛下が、山へ行かれたとかおっしゃるのは、お心がわかりません。陛下のおっしゃる「山人」とは誰のことでしょう。(つまり、「山村」の村人のことなのですね。)

【補記】元正太上天皇が山村に行幸した時の詠、
 あしひきの山行きしかば山人の我に得しめし山つとそこれ
に和した歌。
第三句にいう「山人」とは、深山に住む絶世の美女としての仙女(神仙)を意味する。上皇の御所を仙洞―藐姑射(はこや)の山―というので、戯れに上皇を仙女に擬えたのである。


更新日:平成16年02月13日
最終更新日:平成22年02月05日