正親町実明女 おおぎまちさねあきらのむすめ 生没年未詳

権大納言実明の娘(第七女または八女)。公蔭・宣光門院(花園院后)の妹。尊卑分脈に見える「花園院女房対御方」または「宣光門院廊御方」(いずれも母は公貫四女)かと言う。光厳院の寵愛を受けるか(岩佐美代子『京極派歌人の研究』)。
後期京極派歌人。康永元年(1342)の両度の持明院殿歌合、同二年の院六首歌合、同年五十四番詩歌合など京極派の歌合に出詠し、貞和百首・延文百首に詠進。風雅集初出(十五首)。勅撰入集は計十七首。

百首歌たてまつりし時、春歌

風になびく柳のかげもそことなく霞みふけゆく春の夜の月(風雅123)

【通釈】風に靡く柳の姿もはっきりそこと見分けられず、おぼろに霞みつつ更けて行く春の夜の月よ。

【補記】貞和百首。柳に朧月を配し、春夜の情趣を豊かに、滞りなく歌い込めた。「霞みふけゆく」の一句が巧み。

百首歌奉りし時

つつじ咲く片山かげの春の暮それとはなしにとまるながめを(風雅289)

【通釈】晩春の夕暮、ひっそりと躑躅が咲く片山の陰――どこがどうと言うのではないが、なにか心惹かれ、目を留めずにはいられない眺めだことよ。

【補記】「片山」は半端な山。例えば片側が崩れて崖になっている丘など。見逃してしまいそうな小景に、暮春の情趣を発見している。「暮」は季節と一日と両方に掛けて言う。貞和百首。

【参考歌】藤原信実「夫木和歌抄」
山陰にこころばかりは春の色のつつじのけたみ花咲きにけり

百首歌たてまつりし時

水鶏(くひな)なく森ひとむらは木暗(こぐら)くて月にはれたる野べのをちかた(風雅378)

【通釈】水鶏の鳴き声がする一叢の森は葉が繁って暗く、いっぽう野辺の遠くは月光があたって明るく見渡せる。

【補記】貞和百首の夏歌。暗い近景と明るい遠景の対比。水鶏(くいな)の鳴き声が森の近さを印象づけるアクセントになっている。水鶏はツル目の鳥。数種あるうち、戸を叩くように鳴くと歌われたのは緋水鶏である。

【参考歌】伏見院「御集」
ひとむらの梢も消ゆる雨のうちにすゑは雲なる野べのをちかた
  光厳院(年代不明の歌合)
かやり火のけぶり一すぢ見ゆるしも月にはれたる里のをちかた

月前露を

うちそよぎ竹の葉のぼる露ならで月ふくる夜のまた音もなし(風雅601)

【通釈】風にそよぐ竹の葉をのぼってゆく露――そのさやさやと鳴る葉擦れのほか、更けてゆく月夜に聞こえる音とてもない。

【補記】秋歌。「竹の葉のぼる露」とは、風によって撓った竹の葉を伝って、夜露がのぼってゆくように見える様を言う(参考歌参照)。

【参考歌】藤原為家「為家集」
雨おもき籬の竹のをれかへりくだればのぼる露の白玉

百首歌たてまつりし時

空たかくすみとほる月はかげさえて芝生にしろき霜の明け方(風雅767)

【通釈】空高く澄みわたって輝く月――その光は冴えきって、芝生に降りた霜を白々と照らし出している明け方。

【補記】貞和百首。冬歌。天と地の照応。

【参考歌】
冬ふかみさびしき色は猶そひぬかり田の面の霜の明け方(崇光院[新拾遺])

別恋の心を

我ならぬ人もやしのぶかへるさの夜ぶかき道にあへる()ぐるま(風雅1127)

【通釈】私以外の誰かも、忍んで人に逢っているのだろうか。帰りの暗い夜道に出くわした小車よ。

【補記】人目を忍ぶ逢瀬の帰り道、自分に似た境遇の人を発見。しかし人でなく「小車」に目をつけたところが感興を呼ぶ。

【参考歌】伏見院「御集」
誰ならむやさしの人の帰るさや暁ふかきを車の音

恋命を

憂きがうへのなほもなさけのうちにこそ君に命をすてて聞かれめ(風雅1309)

【通釈】つれないとは言ってもまだ少しは情けのあるうちに恋い死にして、あなたのために命を捨てたのだと聞き知ってほしい。

【補記】「恋にかけた命」という主題。「思いの丈を知ってほしい」との気持でいっそ恋い死にを選ぶ、といった趣向の歌は少なくないが、これほど切実な情感が籠った作は珍しい。

百首歌たてまつりし時

山里はさびしとばかり言ひすてて心とどめて見る人やなき(風雅1770)

【通釈】訪ねてくれる人と言ったら、「山里は淋しい」とだけ言い捨てて帰ってしまう。心を留めて眺め深い情趣をわかってくれる人はいないものだろうか。

【補記】貞和百首。隠遁生活の孤独感を詠む。


最終更新日:平成15年04月14日