野中川原満 のなかのかわらのまろ 生没年未詳

伝不詳。大化五年(649)、造媛(みやつこひめ)の死を悲しむ中大兄皇子に挽歌を奉り、褒賞を賜わった。なお野中氏は河内居住の氏族で、丹比郡野中郷を本拠とする。この地は百済系渡来氏族の船氏の本貫地であり、一帯は渡来氏族の集住地であることから、野中氏も渡来系である可能性が高いという(『日本古代氏族人名辞典』)。

以下は、日本書紀に載る、中大兄皇子に献った造媛挽歌二首である。

 

山川(やまがは)鴛鴦(をし)二つ居て(たぐ)ひよく偶へる妹を(たれ)()にけむ

【通釈】山中の川に、オシドリが二羽並んで泳いでいるように、仲良く私と寄り添っていた造媛(みやつこひめ)を、誰が連れ去ってしまったのか。

 

本毎に花は咲けども何とかも(うつく)(いも)がまた咲き出来(でこ)

【通釈】草木を眺めれば、ひと株ごとに花は咲いているのに、どうしていとしい妻は二度と咲いて来ないのか。

【派生歌】
時々の花は咲けども何すれそ母とふ花の咲き出来ずけむ(丈部真麻呂[万葉])

【補記】日本書紀巻第二十五。孝徳天皇の大化五年、蘇我日向(ひむか)は異母兄の倉山田大臣(蘇我倉山田石川麻呂)を陥れようと、皇太子中大兄に告げた「石川麻呂は、皇太子が海辺へ行かれた時を狙っております。ずっと以前から謀反の心がありました」。皇太子はこれを信じた。
報告を受けた天皇は、大伴狛(こま)らを倉山田大臣のもとに遣って訊問させた。大臣は「お返事は、天皇にじかに申し上げましょう」と言った。天皇は再び使者を遣って謀反の件を審問したが、大臣は前と同じように答えるだけであった。ついに天皇は軍隊を派遣して大臣の私宅を包囲しようとした。大臣は二人の子を連れて茅渟(ちぬ)の道から大和国境へ向かった。大和には長男興志(こごし)がいて、父の一行を迎え、山田寺にかくまった。
翌日、大臣は興志に向かって言った「おまえは自分の命が惜しいか」。興志は「惜しくありません」と答えた。大臣は山田寺の僧や興志を前にして言った「人の臣たる者、どうして主君に逆らうことを謀ろうか。この寺も、もとはと言えば天皇のおん為に造ったもの。私はいま無実の咎を受けて殺されようとしているが、忠君の思いを胸に黄泉の国に赴きたいと思う。寺に来た理由は、最後の時を安らかに迎えたかったからだ」。言い終わると、仏殿の戸を開き、仰いで誓いを立てて言った「願わくは、生々世々、君を怨まじ」。誓い終わって、自ら首を縄で締めて死んだ。八人の妻子が後を追った。
将軍大伴狛らは、大臣の死の報告を受け、兵を引き返した。翌日になっても、大臣の妻子や従者の中には自ら死を選ぶ者があとを絶たなかった。この日、蘇我日向らは軍を率いて大臣の家を囲み、二田鹽(ふたつたのしお)という者に命じて大臣の首を斬らせた。鹽は大刀で大臣の首を刺して振りかざし、叫びながら切り刻んだ。大臣に連座して斬殺された者は十四人、絞殺された者は九人、流された者は十五人にのぼった。
のち、使者を派遣して大臣の資財を没収させたところ、貴重な書物の上には「皇太子の書」と記され、高価な宝物の上には「皇太子の物」と記されていた。使者は還ってこのことを報告した。皇太子は大臣の心を知って後悔し、悲しみ嘆いた。やがて日向(ひむか)を筑紫の大宰帥に任命したが、世の人はこれを「隠流(しのびながし)か」と噂した。
皇太子の妃、蘇我造媛(みやつこひめ)は大臣の息女であった。父が鹽に斬られたと聞き、悲しみ悶え嘆いた。鹽の名を聞くことをひどく憎んだので、媛に近侍する者たちは、塩という言葉を口にすることを忌み、代りに堅鹽(きたし)と呼んだ。造媛は傷心のためついに命を失った。皇太子はこれを聞いて甚だしく哀しんだ。この時野中川原満(のなかのかわらのまろ)という者が皇太子に献った歌が、上の二首である。皇太子は長嘆息してこの歌を讃め、「よきかな、かなしきかな」と言った。琴を満に授け、歌わせた。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成21年04月15日