平兼盛 たいらのかねもり 生年未詳〜正暦元年(990)

光孝天皇の五代孫。筑前守篤行の子。『袋草紙』には『江記』からの引用として赤染衛門の実父であるとの説を載せる。もと兼盛王と名のったようであるが、天暦四年(950)、平姓を賜わる。
越前権守・山城介・大監物などを経て、従五位上駿河守にいたる。天徳四年(960)の内裏歌合など、多くの歌合に出詠。また永観三年(985)二月、円融院紫野御幸における歌会では和歌序を執筆。屏風歌も多い。後撰集に二首入集したのを始め(ただし兼盛の作であることを疑う説もある)、勅撰入集計九十首(金葉集三奏本は除く)。拾遺集・後拾遺集では主要歌人の一人。三十六歌仙。家集『兼盛集』がある。
『大和物語』五十六〜五十八、八十六段などに登場し、同書によれば後撰集の978・1172番歌は兼盛の作になる。

  7首  2首  3首  3首  6首  3首 計24首

麗景殿の女御の哥合に

見わたせば比良の高嶺に雪きえて若菜つむべく野はなりにけり(続後撰34)

【通釈】見わたせば、比良の峰々に積もっていた雪はもう消えて、若菜を摘めるほどに野はなっていたのだ。

【語釈】◇比良(ひら)の高嶺(たかね) 近江国の歌枕。琵琶湖西岸、比叡山の北に連なる山々で、主峰は標高1214メートルの武奈ヶ岳(ぶながたけ)。冬の間は冷たい山風が湖面に吹き下ろす。◇野 比良山の麓の野。

【補記】山と野を一望して春の到来を祝福する。麗景殿女御歌合は天暦十年(956)、麗景殿荘子方で催された歌合。

【他出】和漢朗詠集、新撰朗詠集、万代集、歌枕名寄

【主な派生歌】
雪きえて若菜つむ野をこめてしも霞のいかで春を見すらん(藤原定家)

題しらず

けふよりは荻の焼け原かきわけて若菜つみにと誰をさそはむ(後撰3)

【通釈】春になった今日からは、野焼きした荻の枯草を掻き分けて、若菜を採みに行こうと誰を誘おうか。

【補記】後撰集の作者表記は「兼盛王」。『大和物語』八十六段によれば、兼盛が大納言藤原顕忠(898〜965)に命ぜられて詠んだ歌。春の野遊びを思ってはずむ心を詠む。

【他出】大和物語、和歌童蒙抄、袋草紙、後六々撰、袖中抄、定家八代抄

【主な派生歌】
はるばると荻の焼け原かき分けて道のゆくてに蕨をぞ折る(藤原家隆)
武蔵野の荻の焼け原かき分けて遠かた人の霞みゆくらむ(〃)
いざ今日は荻の焼け原かき分けて手折りてを来む春のさわらび(賀茂真淵)

冷泉院御屏風の絵に、梅の花ある家にまらうど来たる所

わが宿の梅の立ち枝や見えつらむ思ひのほかに君が来ませる(拾遺15)

【通釈】我が家の高く伸びた梅の枝が見えたのだろうか。思いもかけず、あなたが来てくれた。

【語釈】◇梅の立ち枝(え) 空に向かって伸びた梅の枝。「たち」には「花の香りがたつ」意が掛かる。

【補記】冷泉院(天皇在位967〜969年)の御所の屏風絵。

【他出】拾遺抄、三十人撰、三十六人撰、新撰朗詠集、梁塵秘抄

【主な派生歌】
軒ちかき梅の立ち枝やしるからむ思ひの外に来鳴く鶯(宮内卿)
たが里の梅の立ち枝をすぎつらむ思ひのほかににほふ春風(*西園寺実氏[続古今])
山里も月の夜ごろは心せむ思ひのほかに人もとひけり(飛鳥井雅有)
月のかたの思ひの外ににほひしや梅の立ち枝の春のさよ風(三条西実隆)
梅の花おもひの外にさく宿は人待ちかまへするほどぞなき(木下長嘯子)
朝霞たち枝もみえぬ垣ねより思ひの外に匂ふ梅が香(後水尾院)

河原院にてはるかに山桜をみてよめる

道とほみ行きては見ねど桜花心をやりて今日はかへりぬ(後拾遺97)

【通釈】道が遠いので、実際行っては見ないけれども、山桜の花よ、心だけは行かせて、今日は帰って来たよ。

【語釈】◇河原院 左大臣源融の旧宅で、当時は寺となり、安法法師が住んでいた。京六条、鴨川畔。◇心をやりて 体は行かなかったが、心だけは行かせて。

【補記】当時歌人たちの溜まり場となっていた河原院で、遠くの山の桜を見て詠んだという歌。『恵慶法師集』にこの日の詳しい記事が見え、暮春三月二十一日、兼盛のほか、清原元輔大中臣能宣源兼澄らが集まって歌を詠み合ったと知れる。

【他出】兼盛集、恵慶法師集(第二句「行きては見ねば」)。

【参考歌】凡河内躬恒「躬恒集」
山たかみ雲居にみゆる桜花こころのゆきてをらぬ日ぞなき

清慎公、月輪寺の花見侍りける時、よみ侍りける

山桜あくまで色を見つるかな花散るべくも風ふかぬ世に(続古今104)

【通釈】山桜の美しさを心ゆくまで堪能できました。花が散りそうには見えない、風のない穏やかな世にあって。

【語釈】◇清慎公 藤原実頼◇月輪寺 月林寺とも。京都市左京区に一乗寺月輪寺町・修学院月輪寺町の名が残る。『日本紀略』によれば実頼は左大臣であった康保四年(967)二月二十八日、月林寺で花見を催している。◇風ふかぬ世に 太平の世を暗示し、大臣であった実頼の権勢を誉め讃える。

【補記】『兼盛集』の詞書も「小野宮の大臣の桜の花御覧しにおはしましたりしに」とある。実頼はこの花見に多くの歌人を引き連れたらしく、同じ時の作と思われるものに、次の歌々がある。
 たがためかあすは残さむ山桜こぼれてにほへけふの形見に(清原元輔[新古])
 山風にちらで待ちけり桜花けふぞこぼれてにほふべらなる(藤原高遠)
 花の色をあかでやけふはかへりなむ人だのめなる風にまかせて(藤原為光)
 山桜ちよの春々けふよりは色さきまされ君がみにこば(大中臣能宣)
 ほころぶる霞のまよりちる花は山たかみふる雪かとぞみる(〃)

【他出】兼盛集、三十人撰、三十六人撰、和漢朗詠集、深窓秘抄、麗花集

【主な派生歌】
春風は花散るべくもふかぬ日におのれうつろふ山桜かな(藤原雅経[続千載])
心ある軒ばの風の匂ひかな花散るべくも吹かぬものから(嘉陽門院越前)

円融院御時、三尺御屏風に、花の木のもとに人々あつまりゐたる所

世の中にうれしき物は思ふどち花見てすぐす心なりけり(拾遺1047)

【通釈】この現世にあって嬉しいことと言ったら、何よりも、気の合う同士が花を眺めて過ごす時の心持でしたよ。

【補記】円融天皇に献じた屏風歌。

【先蹤歌】元良親王「元良親王集」
世の中にうれしきものは鳥部山かくるる人を見つるなりけり

【主な派生歌】
世にあれば今年の春の花も見つうれしきものは命なりけり(本居宣長)

屏風、旅人花見る所をよめる

花見ると家路におそくかへるかな待ちどき過ぐと妹やいふらむ(後拾遺109)

【通釈】花見をするというので、家に遅く帰ることだよ。待ち時間が過ぎたと、妻は責めるだろうか。

【語釈】◇待ちどき過ぐと 家で帰りを待つ時刻が過ぎたと。◇妹(いも) 妻・恋人など、親しい女性に対する呼称。

天暦御時歌合に

み山出でて夜はにや来つる時鳥暁かけて声のきこゆる(拾遺101)

【通釈】山を出て、夜中にやって来たのだろうか、時鳥は。暁にかけて、その声が聞える。

【補記】天徳四年三月の内裏歌合、十三番右持。題は「郭公」。

【他出】天徳内裏歌合、三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、古来風躰抄、新撰朗詠集、定家八代抄

【主な派生歌】
あふひ草かりねののべに時鳥暁かけてたれをとふらむ(藤原定家)
都へとなにいそぐらむほととぎす暁かけて山ぢいづなり(藤原秀能)
笹竹のよはにや来つる閨ちかき朝けの窓に鶯のなく(西園寺実兼[風雅])
月も今み山いづらし時鳥ふけゆく空に声のきこゆる(後花園天皇[新続古今])
杜鵑あかつきかけて鳴く声を片みみに聞く枕つらしな(桜井基佐)

九条右大臣家の賀の屏風に

あやしくも鹿のたちどの見えぬかなをぐらの山に我や来ぬらむ(拾遺128)

【通釈】不思議なことに、鹿の居場所が見えないことだ。小暗いという名の小倉山に私は来たのだろうか。

【語釈】◇をぐらの山 京都嵐山、大堰川北岸の小倉山。鹿の名所とされた。「小暗い」意を掛ける。

【補記】天暦十一年(957)四月二十二日、藤原師輔五十賀屏風歌。夏の葉が鬱蒼と繁り、木下闇が濃くなったゆえ、鹿の居場所を探しあぐねる狩の場面を詠んだ。藤原俊成は『古来風躰抄』でこの歌を「これほどの秀句はこひねがふべし」と絶賛している。

【参考歌】紀貫之「拾遺集」
五月山木の下闇にともす火は鹿のたちどのしるべなりけり

【主な派生歌】
をぐら山鹿のたちどの見ゆるかな峰の紅葉やちりまさるらむ(藤原高遠)
小倉山鹿のたちどのしるべだにたえてかげみぬ五月雨の空(藤原家隆)

駿河へまかりけるとき、せたの橋といふ所にやどりてはべりけるに、駒ひきの馬ひきわたしけるをききて

望月の駒ひきわたす音すなり瀬田の長道橋もとどろに(麗花集)

【通釈】望月の駒を牽いて渡す蹄の音が聞えてくる。瀬田の長道は、橋も轟くほどに。

【語釈】◇望月の駒 信濃国望月の御牧から献上された馬。◇ひきわたす 馬を牽いて橋を渡す。毎年秋八月、東国から献上された馬を逢坂の関で迎る行事「駒迎へ」に向かうところである。◇瀬田の長道 琵琶湖から流れ出る瀬田川を渡る道。長大な橋が架かっていた。「瀬田」は「勢多」とも書く。

【補記】『麗花集』は一条天皇代に編纂されたと推定される、撰者未詳の私撰集。同じ頃、藤原公任も『三十六人撰』『深窓秘抄』『九品和歌』などの秀歌選に採って高く評価した歌であるが、勅撰集にはついに採られなかった。

月の(あか)き夜、紅葉の散るを見てよめる

荒れはてて月もとまらぬ我が宿に秋の木の葉を風ぞふきける(詞花136)

【通釈】荒れ果てて、月も留まってくれない我が家には、ただ秋風が吹きすさび、散らした紅葉で屋根を葺くのだった。

【補記】「とまらぬ」に「留まらぬ」「泊らぬ」を掛け、「ふきける」に「吹きける」「葺きける」を掛けている。

暮の秋、重之が消息(せうそこ)して侍りける返り事に

暮れてゆく秋の形見におくものは我が元結の霜にぞありける(拾遺214)

【通釈】暮れて去る秋が形見に残して行ったものは、私の元結についた霜――いや白髪であったよ。

【語釈】◇元結(もとゆひ) 髻(もとどり)を結い束ねる緒。◇霜 白髪を喩える。

【補記】拾遺集秋巻末。友人であった源重之の便りに答えた歌。この歌も『古来風躰抄』に引かれ「これこそあはれによめる歌に侍るめれ」と称されている。

【他出】三十人撰、三十六人撰、深窓秘抄、金玉集、和漢朗詠集、俊成三十六人歌合、古来風躰抄、時代不同歌合

【主な派生歌】
今年みる我が元結の初霜にみそぢあまりの秋ぞふけぬる(九条良経[新後拾遺])
春を待つ袖にはいつか濃紫わが元結の霜ぞふりぬる(藤原雅経)
ふりにけりわが元結のそのかみに見ざりし色の秋の初霜(源兼康[続古今])
夜々はわが元結の霜ならでむすびもおかぬ契りをぞ待つ(二条為定)
ながめつつ更けゆく月の影なれや我が元結の秋のよの霜(宗良親王)

入道摂政の家の屏風に

見わたせば松の葉しろき吉野山いく世つもれる雪にかあるらむ(拾遺250)

【通釈】見わたせば、松の葉までも白い吉野山よ。どれほど長い年月消えずに積もっている雪なのだろうか。

【補記】藤原兼家邸の屏風絵に添えた歌。「松の葉」「いく世つもれる」に長寿祝賀の意を籠める。

【他出】兼盛集、拾遺抄、三十人撰、和漢朗詠集、三十六人撰、五代集歌枕、定家八代抄、歌枕名寄

【主な派生歌】
白雲のかかる高嶺になるほどは幾世つもれる塵にかあるらむ(肥後[堀河百首])
芳野山松の葉しろき雪のうへに落ちてさやけき有明の月(藤原家隆)
置きそめていくよつもれる匂ひともいさしら菊の花のした露(藤原定家)
若菜つむ都の野べも松の雪いく世つもれる年とかはしる(慈円)
芳野山今年も雪のふる郷に松の葉しろき春の曙(藤原良経[新後拾遺])
かすめども芳野の雪の猶さえて松の葉しろきふるさとの春(後鳥羽院)
みよし野の松の葉しろき山のはにかかりもやらぬうす霞かな(〃)
都人契りしものをはつ雪に松の葉しろき夕暮の雨(藤原基家)

冬、山寺に心地わづらひてありけるに、とぶらひにこむといひたりける人待つほとに雪の松にかかりたりけるを

山がくれ消えせぬ雪のかなしきは君松の葉にかかるなりけり(兼盛集)

【通釈】山の陰にあって消えない雪のうちでも悲しいのは、松の葉にかかった雪です――そんな風に、いつまでもあなたを待って寂しい山にいる私の境遇を思いやって下さい。

【補記】『兼盛集』の詞書からすると必ずしも恋歌に取る必要はない。ところが後撰集巻十四恋六には作者名不明記で次のように載っている。
   心ざし侍る女、宮仕へし侍りければ、逢ふこと難くて
   侍りけるに、雪のふるにつかはしける
 わが恋し君があたりをはなれねばふる白雪もそらにきゆらむ
   返し
 山がくれきえせぬ雪のわびしきは君まつのはにかかりてぞふる

斎院の御屏風に、十二月つごもりの夜

かぞふればわが身につもる年月を送り迎ふとなにいそぐらむ(拾遺261)

【通釈】数えれば、またひと月、また一年と、我が身に積もる年月なのに、それを送り迎えると言って、人は何をこう急いでいるのだろうか。

【補記】大晦日の夜を主題とした斎院の屏風に添えた歌。斎院は誰を指すか不詳。

【他出】兼盛集、前十五番歌合、三十人撰、三十六人撰、金玉集、深窓秘抄、和漢朗詠集、定家八代抄

【主な派生歌】
人はみな送り迎ふといそぐよをしめのうちにてあかしつるかな(藤原忠良[玉葉])
くるかたもかへる所もなき春を送りむかふと何おもふらむ(正徹)

天暦御時歌合

忍ぶれど色にいでにけりわが恋は物や思ふと人のとふまで(拾遺622)

【通釈】知られまいと秘め隠していたが、顔色に出てしまったのだなあ、私の恋心は。思い悩んでいるのかと、人から尋ねられるまでに。

【語釈】◇色にいでにけり 「色」は視覚的に認識可能なもの。ここでは顔色・表情などの意。◇物や思ふと 心配ごと・悩みごとでもあるのかと。「物」は漠然とした対象を指す。◇人のとふまで 「人」は人一般、世間の人、周囲の人。

【補記】天徳四年(960)三月三十日、村上天皇の内裏で開催された歌合、二十番右勝。左は壬生忠見の「恋すてふわが名はまだき立ちにけり人しれずこそ思ひそめしか」。判者藤原実頼は優劣を決めかねたが、天皇より判を下すよう命ぜられ、困惑して補佐役の源高明に判を譲った。しかし高明も答えようとせず、天皇のご様子を窺うと、ひそかに兼盛の「しのぶれど…」を口遊まれた。そこで右の勝と決したという。この負けを苦にした忠見が病に罹りそのまま亡くなったとの話は名高いが、後世流布された虚事らしい(『沙石集』など)。

【他出】天徳内裏歌合、兼盛集、新撰朗詠集、古来風躰抄、俊成三十六人歌合、定家八代抄、時代不同歌合、百人一首、詠歌一体

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
思ふには忍ぶることぞまけにける色にはいでじと思ひしものを
  「奥義抄」に引く出典不明の古歌
恋しきをさらぬ顔にてしのぶれば物や思ふと見る人ぞ問ふ

【主な派生歌】
しのぶれど涙ぞしるき紅に物おもふ袖はそむべかりけり(源道済[詞花])
忍ぶれど思ふ思ひのあまりには色に出でぬる物にぞありける(大江嘉言[風雅])
袖の色は人のとふまでなりもせよ深き思ひを君し頼まば(式子内親王[千載])
とふ人は忍ぶ中とや思ふらむこたへかねたる袖のけしきを(藤原良経)
ふく風もものや思ふととひがほにうちながむれば松のひと声(〃)
うつせみの鳴く音やよそにもりの露ほしあへぬ袖を人のとふまで(〃)
おのれだに言問ひこなむさ夜千鳥須磨のうきねに物や思ふと(〃)
色にいでていはぬ思ひのなぐさめは人のつらさを知らぬばかりぞ(藤原家隆)
いかにして忍びならはむ程だにも物や思ふと人にとはれじ(〃)
うき身にはたえぬ歎きにおもなれて物や思ふと問ふ人もなし(鴨長明[新後撰])
とはばやなみぬめの浦に住むあまも心のうちに物や思ふと(西園寺公経 〃)
しのぶれど色にやいづるをみなへし物やおもふと露のおくまで(源具親)
哀また物や思ふととふ程の人にしられぬ夕ぐれもがな(順徳院)
我がごとく物や思ふと問ふべきに鳴きて過ぎぬる郭公かな(隆弁[新千載])
露けさの袖にかはらぬ草葉までとはばや秋は物やおもふと(鷹司基忠[玉葉])
宿ごとの夕暮とはむ秋といへば我にかぎらず物や思ふと(後二条院[続千載])

題しらず

恋ひそめし心をのみぞうらみつる人のつらさを我になしつつ(後拾遺638)

【通釈】あなたを恋するようになった私の心を一方的に責めていました。人の無情を自分のせいにしてばかりいて。

【補記】兼盛集の詞書は「宮仕へ人の曹司の壁ちかき所にたちよりて、おぼつかなき事など云ひければ、されども夢には見つめりといへば、女のつれなくのみいへれば」とある。宮仕えする薄情な恋人を恨んで贈った歌。

人につかはしける

雨やまぬ軒の玉水かずしらず恋しきことのまさる頃かな(後撰578)

【通釈】雨のやまない軒から垂れる雫が数え切れないように、限りなく恋しさが増す今日この頃ですよ。

【補記】「玉水」は雫・雨垂れの美称。ここまでが「かずしらず」を言い起こす序。

いひそめて久しくなりにける人に

つらくのみ見ゆる君かな山のはに風まつ雲のさだめなき世に(続千載1545)

【通釈】いつも薄情な態度に見えるあなたですよ。山の端で風を待つ雲のように、頼りない世にあって。

【補記】「山のはに風まつ雲」とは、やがて風に吹かれて山の端を離れてゆく雲を言う。続千載集巻十五恋五の巻頭を飾る歌。

君恋ふと消えこそわたれ山河にうづまく水のみなわならねど(兼盛集)

【通釈】あなた恋しさに、私の命はしょっちゅう消えそうになっているのですよ。谷川に渦巻く水の泡ではないけれど。

【補記】一つ前の歌と同じ相手に贈った歌。このあとに続く歌は「返しもさらにせねば」の詞書で「我が恋にたぐへてやりし玉しひの返り事まつ程の久しさ」。

屏風にみ熊野の(かた)かきたる所

さしながら人の心をみ熊野の浦の(はま)木綿(ゆふ)いくへなるらむ(拾遺890)

【通釈】熊野の浦の浜木綿に、そっくりそのまま都の恋人の心を見透したことだよ。その葉が幾重にも重なっているように、あの人がどれほど繰り返し私のことを思ってくれているかと。

【語釈】◇み熊野 紀伊国熊野。「見」を掛ける。◇浜木綿 ヒガンバナ科ハマオモト属の多年草。ハマオモトとも。夏に芳香ある白い花をつける。葉の付け根あたりの白い葉鞘が幾重にも重なっているので、和歌では「いくへ」と縁語の関係を結ぶ。

【本歌】柿本人麻呂「万葉集」
三熊野の浦の浜木綿百重なす心は思へどただに逢はぬかも

【主な派生歌】
我も思ふうらの浜木綿いくへかはかさねて人をかつ頼めとも(藤原定家)

みちのくにの白河関こえ侍りけるに

たよりあらばいかで都へつげやらむけふ白河の関はこえぬと(拾遺339)

【通釈】つてがあったなら、どうにかして都の人たちに告げたいものだ。今日あの名高い白河の関を越えたと。

【補記】拾遺集巻六、別歌。「白河の関」は陸奥国の古関。今の福島県白河市。

【主な派生歌】
たよりあらば都へと思ふ落椎のみのはらはらと雨も降り来ぬ(*千種有功)

むすめにまかり後れて、又の年の春、桜の花ざかりに家の花を見て、いささかに思ひをのぶといふ題をよみ侍りける   小野宮太政大臣

桜花のどけかりけり亡き人を恋ふる涙ぞまづはおちける

【通釈】桜の花は散る気配もなく、のどかに咲いていることだ。亡き娘を慕う私の涙は、まっさきに落ちたけれど。

 

面影に色のみのこる桜花いく世の春を恋ひむとすらむ(拾遺1275)

【通釈】亡き人を偲ぶ面影として、美しい色ばかりが留まっている桜の花――これから先、この花を眺めては、幾代の春、故人を慕うのだろうか。

【補記】天暦元年(947)十月五日、藤原実頼の娘述子(村上天皇女御)が疱瘡により十五歳で夭折した。その翌年の春に詠んだ哀悼歌。拾遺集ではこのあと清原元輔・大中臣能宣の哀悼歌が続く。

つかさ給はらで内わたりの人に

沢水に老いぬる影を見るたづのなくね雲井にきこゆらむやは(兼盛集)

【通釈】沢の水面に老いた自分の影を映す鶴の啼く声は、雲の上まで届くでしょうか。

【補記】内裏仕えの人に官職を与えてもらえない心細さを訴えた歌。「たづ(鶴の雅語)」は己の、雲井は内裏の暗喩。


公開日:平成12年05月26日
最終更新日:平成16年04月25日