源兼澄 みなもとのかねずみ 天暦九〜没年未詳(955-?)

鎮守府将軍信孝の息子。公忠の孫。信明の甥。母は不詳。大中臣能宣の娘(輔親の姉妹)を妻とし、頼兼をもうける。藤原相如(すけゆき)の娘との間には、陽明門院(禎子内親王)の乳母をつとめ「命婦乳母」と呼ばれた娘があり、後拾遺集に歌を残している。
十一歳の時、父に従って陸奥に下向する。帰京後、東宮師貞親王(花山天皇)の帯刀舎人となる。その後、右馬允等を経て、従五位上加賀守に至る。
永観元年(983)八月の一条大納言為光家障子歌、寛和元年(985)七月七日の道兼家歌会、長保三年(1001)十月九日の東三条院四十賀屏風歌、同五年五月十五日の左大臣道長歌合などに出詠。また長和元年(1012)三条天皇大嘗会においては悠紀方の和歌を奉った。大中臣輔親清原元輔安法恵慶実方らとの交流が知られる。 拾遺集初出。家集『兼澄集』がある。

題しらず

わかめ刈る春や来ぬらむこゆるぎの磯のあま人波にまじれり(万代集)

【通釈】若布を刈る季節、春がやって来たのだなあ。小余綾(こゆるぎ)の磯では、土地の海人(あま)が波にまじって漁をしている。

【補記】「こゆるぎの磯」は、今の神奈川県小田原市国府津から大磯あたりにかけての海岸。永観元年八月一条大納言為光家障子歌。

帥の宮にて三月十日宵ばかりに人々歌よませたまふに、花を見て庭をはらはずといふ題をたまはりて

春のうちは塵つもるとも清めせじ花にけがるる宿と言はれむ(兼澄集)

【通釈】春の間は、塵が積もっても庭を掃除しまい。花にけがれた家だと言われよう。

【語釈】「帥の宮」敦道親王か(『源兼澄集全釈』)。正暦四年(993)三月十日、大宰帥に任ぜられた。

女を控へて侍りけるに、(なさけ)なくて入りにければ、つとめてつかはしける

わぎも子が袖ふりかけしうつり香の今朝は身にしむ物をこそ思へ(後拾遺621)

【通釈】あなたの袖がはらりと掛かった時の移り香が、今朝になってもまだ身に染み付いています。あなたのつれない仕打ちのおかげで、身に染みるような物思いを私はしているのですよ。

【語釈】◇女を控へて 女の袖を引っ張って引き留めようとして。

恒徳公家障子

大淀のみそぎ幾代になりぬらん(かむ)さびにたる浦のひめ松(拾遺594)

【通釈】斎宮が大淀の海岸で禊ぎをなさることは、何代重なったのだろうか。浦の姫松はすっかり古びて神々しくなっているよ。

【語釈】◇恒徳公 藤原為光(942-992)。この障子絵歌は永観元年(983)の作。為光は当時大納言。◇大淀 三重県多気郡明和町あたり。伊勢斎宮が禊ぎをする場所であった。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成15年03月21日