玄誉 げんよ 生没年未詳

伝不詳。明応初年頃まで京にあり、その後大和へ移住したらしい。明応六年(1497)頃、四十代後半か(私家集大成解題)。家集より、上冷泉為広十市遠忠等と親交があったことが窺われる。
家集『玄誉法師詠歌聞書』(以下『玄誉法師聞書』と略)があるが、「宣光」の署名のある定数歌を多く含み、玄誉と宣光が別人物か同一人物かについて等、明らかでない(宣光が法名、玄誉が道号とする説などがある)。親冷泉家的な歌学書『釣舟』の作者と推測されている。

「玄誉法師詠歌聞書」 私家集大成6

水辺梅

月はしづみにほひはうかぶ江の水を梅さく庭にせきもとめばや(玄誉法師聞書)

【通釈】月は江に沈み、あたりは闇に包まれるが、花の匂いはありありと浮び立つ――その水を、梅咲く庭に堰き止めておきたいものだ。

【補記】水辺に梅咲く庭園の景情。「江」は池から引いた曲水を指すのだろう。冷泉風の艷麗な歌。「玄誉」の署名がある。

ある所にて閑中花を

花みずはうごかむものか我が心さしもしづけき春の夕べに(玄誉法師聞書)

【通釈】桜の花を見なければ、動くものだろうか、私の心よ。それほど静かな春の夕べに。

【語釈】◇閑中花 閑な時に眺める花。

【補記】桜の花を見て、やっと動き出すほど、春の長閑さに同一化してしまった心。なお、家集の一つ前の歌は「もろともに老木の梅の陰にきてまたこの春も花をみるかな」とあり、掲出歌も老いの感慨を含むか。


最終更新日:平成17年10月03日