素純 そじゅん 生年未詳〜享禄三(1530) 本名:東胤氏

美濃国郡上郡の領主、東(とう)氏の出。常縁の子。頼和・常和の弟。幼名は竹一丸。
伊豆の堀越公方に仕えていたが、延徳三年(1491)、北条早雲に攻略されて堀越公方が滅亡すると、各地を流浪する。明応四年(1495)四月に上洛し、宗祇(父常縁の門弟であった)に入門して古今集等の講説を受けた。その後再び東下、富士山麓に住む。文亀二年(1502)七月、相模国国府津(こうづ)の旅宿に病臥していた宗祇を訪ね、古今伝授を受ける。やがて駿河の今川氏の客分となり、歌道を指導した。享禄三年(1530)六月五日、没。七十余歳か。
永正十二年(1515)八月、今川氏親と共に『続五明題和歌集』を編む。死の直前、享禄三年(1530)三月には、三条西実隆に判詞を依頼した『素純百番自歌合』が完成している。連歌も嗜み、『新撰菟玖波集』に一首入集。歌論書には明応八年(1499)の『かりねのすさみ』等がある。

「素純百番自歌合」続群書類従414(第15輯上)

山家月

山里は心づくしもなぐさみもひとつ木の間の秋の夜の月(素純百番自歌合)

【通釈】山里では、心疲れの種も気慰めの種も、同じ一つのもの――木の間を洩れる秋の夜の月なのであるよ。

【補記】秋、五十一番右勝。三条西実隆の判詞に「心づくしもなぐさみもひとつ木のま、誠にいひしりてたぐひなくも侍るかな。勝とすべし」。

【本歌】よみ人しらず「古今集」
木の間よりもりくる月の影見れば心づくしの秋は来にけり

秋時雨

村時雨くもりみ晴れみ秋の日のうす花薄袖ほさぬころ(素純百番自歌合)

【通釈】ひとしきり降っては止む時雨(しぐれ)で、空は曇ったり晴れたり――晩秋の薄陽を受けた疎(まば)らな花薄(はなすすき)の袖は、水気を去ることがない時分である。

【語釈】◇うす花薄 「花薄」は穂の出たススキ。「うす」は「秋の日の」を受けて陽射しが弱い意であるが、「花薄」にかかって「まばらに生えている」意をも兼ねる。◇袖ほさぬころ 薄の穂を袖に見立て、涙に濡れがちで袖が乾かないという恋の風趣を添えている。

【補記】五十四番右持。左歌は「たがために色どる露のうすくこくならびの岡の木々の紅葉葉」。判詞は「えんなる詞つづきども、よき持なるべし」。

【参考歌】正徹「草根集」
村霞くもりみはれみ行く月に見し世の事もつづきやはする

逢恋

重ねてもあかでやあけん独り寝に長かりし比の夜半のいくよを(素純百番自歌合)

【通釈】衣を重ねて共寝しても、心満ち足りることなく夜は明けてしまうのだろうか。独り寝のせいで長く感じられたあの頃の夜々――ああその幾夜よ。

【語釈】◇重ねて 「互いの衣を重ね合せて」すなわち「共寝して」の意と、倒置構文により末句を承けて「幾夜を重ねて」の意を兼ねる。

【補記】恋、七十四番左勝。判詞は「心ふかく侍り。第四句比の字こそあまりてきこえ侍れど、強而(しひて)とがむべきには侍らねば、又以左為勝」。

【参考歌】待賢門院堀河「続拾遺集」
かさねてもあかぬ思ひやまさるらん今朝立ちかへるあまの羽衣


最終更新日:平成17年10月05日