十市遠忠 とおちとおただ 明応六〜天文十四(1497-1545)

十市新左衛門遠治の子。中原氏も称す。十市氏は興福寺大乗院方の土豪であったが、父遠治の時代に所領を拡大した。天文二年(1533)頃、遠忠が家督を継ぐと、木沢長政や筒井氏と争い、竜王山城に拠って一大勢力を築いた。官職は兵部少輔に進む。天文十四年三月十六日、四十九歳で没。墓は天理市の長岳寺にある。
堂上派の和歌を学び、三条西実隆・公条に師事した。詠草・自歌合・定数歌などが多く伝存し、正・続群書類従には百首歌と四種の自歌合が、私家集大成には五種の詠草が収められている。書家としても名があり、藤原定家撰の『拾遺百番歌合』『別本八代集秀逸』、宗良親王の『李花集』、藤原清輔の詠草など多くの歌書を写して後世に伝えた。

「十市遠忠百首」 続群書類従394(第十四輯下)
「十市遠忠百番自歌合」 続群書類従417(第十五輯下)
「十市遠忠三十六番自歌合」 群書類従222(第十三輯)
「十市遠忠五十番自歌合」 続群書類従416(第十五輯下)
「十市遠忠百五十番自歌合」 続群書類従418(第十五輯下)
詠草(五種) 私家集大成7

  4首  3首  6首  1首  4首  2首 計20首

里夕梅

夕波の花にもかけて梅が香をさそふ難波のさとの春風(詠草)

【通釈】夕方になると立つ波が、花にも寄せかけて――梅の香りを誘い出すように吹く、難波の里の春風よ。

【補記】私家集大成所収の詠草「遠忠2(正しくはローマ数字)」より。天文二年(1533)の作。作者三十七歳。

【参考歌】王仁「古今集仮名序」
難波津に 咲くやこの花 冬ごもり 今は春べと 咲くやこの花

七所新宮法楽一日百首中梅

花ぞなほ露まぎれなき梅が枝の若葉もにほふ春のあさ風(遠忠百首)

【通釈】花がまだ露に濡れて少しも紛れなく咲き残っている梅の枝――そこに萌え出る若葉も香り立つような、春の朝風よ。

【語釈】◇露 「少しも」の意を掛ける。◇あさ風 「あさ」は「浅」「朝」の掛詞とも取れる。

【補記】続群書類従所収『十市遠忠百首』より。題詞「七所新宮」は不詳。尾張の七所神社か。「法楽一日百首」とは、一日に百首を詠んで奉納した和歌。

詠歌十首和歌 春日参社之時詠之

春日山しづかなる世の春にあひて花さくころの宮めぐりかな(詠草)

【通釈】春日(かすが)山よ、あたかも平穏な世の春に巡り遭って、花咲く頃に宮巡りすることよ。

【補記】春日山は奈良の春日大社が鎮座する山。遠忠は春日社への信仰篤く、たびたび参詣している。「遠忠2(正しくはローマ数字)」より。天文二年(1533)の作。

【参考歌】藤原家隆「壬二集」
浪風もしづかなる世の春にあひて網の浦人たたぬ日ぞなき

庭菫菜

なごりあれや野となりてだに菫咲く庭も籬も春のふるさと(百五十番自歌合)

【通釈】野となってさえ、かつての春のなごりを残しているのか――荒廃した庭にも垣根にも菫が咲く古里よ。

【語釈】◇野となりて 荒れた庭が野と区別できなくなって。下記伊勢物語歌を暗示。◇籬(まがき) 柴や竹で粗く編んだ垣。

【補記】かつては華やいだ里であったことを菫の花に偲ぶ。『十市遠忠百五十番自歌合』は天文四年(1535)、三条西実隆加判と推測される自歌合。当詠に付した判詞は「是は野となりて後も、なほ春は春にてなほ名残ありけりといへる心、いとをかしくこそ侍れ」とあり勝。

【本歌】遍昭「古今集」
里はあれて人はふりにし宿なれや庭もまがきも秋の野らなる
  「伊勢物語」
野とならば鶉となりて鳴きをらんかりにだにやは君は来ざらむ

【参考歌】藤原良経「新古今集」
明日よりは志賀の花園まれにだに誰かはとはむ春のふるさと

百首中杜郭公

ほととぎす杜の下草枕にて夕べの月のかげにまちみむ(遠忠百首)

【通釈】ほととぎすよ、森の下草を枕にして、夕方の月明りのもと、おまえの現れるのを待ってみよう。

【補記】古人は時鳥の初鳴きを誰よりも先に聞こうと競った。

【参考歌】紫式部「新古今集」
ほととぎす声待つほどは片岡の杜のしづくに立ちや濡れまし

岡新樹

くれうすき岡辺にかへる雲はみなしげる梢の色にきえつつ(詠草 大永七年中)

【通釈】薄暮の岡の方へ帰ってゆく雲はどれも、盛んに繁る梢の色に次から次へ消えてゆく。

【補記】夕空の色と岡の新緑の色が見分け難くなってゆく。そのあわいに消えてゆく雲。私家集大成所収の詠草「遠忠1(正しくはローマ数字)」より。大永七年(1527)、遠忠三十一歳の作。

朝夕日うつるあふひの影すずしみどりのすだれ色をそへつつ(三十六番自歌合)

【通釈】朝日夕日に映る立葵の花の影が涼しげである。青々と新鮮な簾がさらに色を添えて。

【補記】室内から簾越しに見た立葵の花影。群書類従所収『十市遠忠自歌合』より。判者不明であるが、判詞には「朝ゆふ日ききなれず侍れば、みみにたちてきこゆ」と難じ、負けとする。

立葵の花 鎌倉市二階堂にて
立葵(タチアオイ)

初秋

露もまだおきあへぬ秋の夕べとややどるもうすき袖の月かげ(百五十番自歌合)

【通釈】露もまだ置くには早い秋の夕べだからか、袖に宿るといっても薄い月の光よ。

【補記】「袖の月かげ」は袖に落ちた涙に宿る月の光。恋歌に好んで使われた表現で、当詠も恋の風趣が香る。判詞に「下句など優美」とあり勝。

【参考歌】藤原基任「玉葉集」
涙こそまづこぼれぬれ露はまだおきあへぬ袖の秋の初風
  正徹「草根集」
露もまだ置きあへぬ床の朝じめりおぼえずかろき夏衣かな

七夕地

影うつりあふ夜の星の泉河天の河より湧きていづらむ(詠草 大永七年中)

【通釈】水面に星影が映り、牽牛織女の二星が逢う今宵の泉川――天の川から湧いて出るのだろうか。

【語釈】◇泉河 木津川の古名。鈴鹿山脈に発し、巨椋池に注いでいた。「泉」の縁から「湧きて…」と言った。

【補記】題「七夕地」は「七夕地儀」とも。地上の土地に寄せて七夕を詠む。

【参考歌】藤原兼輔「新古今集」「百人一首」
みかの原わきて流るる泉川いつ見きとてか恋しかるらむ

海辺七夕

行きてみん道し知らねば天の川この世のなかの星崎の浜(詠草)

【通釈】行って見よう。天の川への道は知らないので、この世にある星崎の浜へ。

【語釈】◇星崎 尾張国の歌枕。今の名古屋市南区。製塩地として名高く、『堀河院百首』の藤原仲実詠「星崎や熱田の潟のいさり火のほのもしりぬや思ふ心を」で歌枕となった。

【補記】私家集大成所収の「遠忠5(正しくはローマ数字)」より。天文六年(1537)の日次詠草の下書。

ね覚に鹿のこゑをききて

ねざめする枕にかすむ鹿の音はただ秋の夜の夢にやあるらん(詠草 大永七年中)

【通釈】深夜ふと目覚めた枕にかすかに聞こえる鹿の音(ね)――これは、ただ秋の夜の夢であるのだろうか。

【補記】はかないものの象徴とされ、好んで歌に詠まれた「春の夜の夢」に比し、「秋の夜の夢」を詠んだ例は稀。

太神宮法楽百首中秋夕

露霜の草木に色はなかりけり心をそむる秋の夕暮(遠忠百首)

【通釈】露霜のついた草木に色はないのだなあ――わが心を染めつくす、秋の夕暮の情趣よ。

【補記】「露霜」は露が凍って出来た(と考えられた)霜。「心をそむる…」とは、草木の色も失われるような晩秋の夕暮の侘しい情趣が心を占める、ということ。「色」の縁から「そむる」と言った。

【本歌】紀貫之「古今集」
色もなき心を人にそめしよりうつろはむとはおもほえなくに

湖月

大比叡やかたぶく月の木の間より海なかばある影をしぞ思ふ(三十六番自歌合)

【通釈】大比叡(おほびえ)の山に沈みかけた月が、木の間を通して見え――その光に湖が半ばまで照らされてあるさまを想像するのだ。

【補記】「大比叡」は比叡山の美称、または二つの山頂を持つ比叡山のうち大比叡岳の方を指す。「海」は言うまでもなく琵琶湖。「海なかばある」は類例の見えない独創的表現。同題で詠んだ「志賀の浦やむかひの山は陰くれて木の間に海を寄する月かげ」も捨てがたい。

百首中冬月冴

吹きすさぶ外山さびしく冬の夜の月に見えゆく木がらしの風(遠忠百首)

【通釈】風吹きすさぶ外山は荒涼として――冬の夜の冴えた月明りに照らされ、目に見えて通り過ぎてゆく木枯しよ。

【語釈】◇外山(とやま) 山地の外側にあたる、人里に近い山。

【補記】月光によって木枯しの風が視覚化されるという。吹き散らされる木の葉などが照らし出される、というだけではあるまい。

逢恋

我が袖はいつかほすべき逢ふ夜はのうれしきにさへあまる涙よ(百五十番自歌合)

【通釈】私の袖はいつ干したらよいのか。恋しい人と逢う夜の嬉しさにさえ、溢れる涙よ。

【補記】自歌合の百十八番右。題「初逢恋」の「今夜しもいかなるすぢに黒髪のながきよかけて契りそめけん」と合され、「ともによろし。持とすべし」。

【参考歌】凡河内躬恒「躬恒集」
世にはねをわびてなくだにある物をうれしきにさへおつる涙か

太神宮法楽百首中不逢恋

いつとなくわけゆく水のあはれ身にしらず逢瀬をたどりわびぬる(遠忠百首)

【通釈】いつからともなく、分けて行く水が、ああ、身に覚えがなくなり、逢瀬にまで辿り着きかねるようになってしまった。

【補記】水の縁語で織り成した「逢はぬ恋」。「水のあはれ…」には「水の泡」(仮名違いであるが)が掛かる。伊勢神宮に奉納した法楽百首。

【参考歌】洞院公賢「新続古今集」
かくしつつゆく年波のあはれ身にいまいくたびかこえんとすらむ

布留法楽三十首中後朝恋

夢もうしかへる(あした)にまどろめばいくたびみるも別れなりけり(遠忠百首)

【通釈】夢もいとわしい。恋人のもとから帰らねばならぬ朝、寝床でまどろめば、幾たび見ても別れる夢ばかりであるよ。

【補記】石上神宮に奉納した法楽和歌三十首の一首。題は「後朝(きぬぎぬ)の恋」。後朝とは、共に一夜を過ごしたあと別れる朝。

寄野恋

逢ふことや遠き野もせの秋の風ひとの心のすゑにふくらむ(三十六番自歌合)

【通釈】逢うことは遠い望みだ――遠い野づらに秋風が吹くように、あの人の心の末にも蕭条として風が吹いているのだろう。

【語釈】◇野もせ 野原一面。もとは「野に満ちて」程の意で「野も狭(せ)に」と用いたが、のち「野もせ」だけで名詞化した。◇秋の風 秋に「飽き」の意が掛かる。◇心のすゑ さまざまな経緯を経ての、心の結果的な有様。「野末」と言うので、その縁から心にも「末」の語を用いた。

【補記】自歌合の三十一番左。判詞「逢ふことやとあるより、毎句つづきて、尤もをかしく侍り。(中略)人の心のすゑに吹くらむは、身にしみておぼゆ」との賛辞を得て勝。

【参考歌】三条西実隆「雪玉集」
あふ事やかたののきぎす妻恋ははれぬ霞のたちゐなくらん

海路

河水のながれ入りては一すぢに白きぞ海の道と見えぬる(詠草 大永七年中)

【通釈】河水が流れ入ったところは、一すじに白くなっている――それが海の道と見えたよ。

【補記】船で河から海へと出て行く際の眺めであろう。船旅は不安の多いものであるが、航路の行く末をしっかりと見つめる心強さが感じられる。

山家人稀

山深くいとひくるのみ多けれど世をすてはつる人ぞ稀なる(五十番自歌合)

【通釈】山深く世を厭って来る人ばかり多いけれども、世を捨て切った人は稀であるよ。

【補記】「山家人稀」は中世以降好まれた歌題。訪れる人稀な山奥の庵住まいの孤独感を詠むのが普通で、掲出歌は特異な趣向と言える。続群書類従所収の『十市遠忠五十番自歌合』より。この自歌合には享禄四年(1531)二月に富小路資直が判を加え、さらに三条西実隆が点を加えている。

【参考歌】読人しらず「新後拾遺集」
山ふかき苔の下道ふみ分けてげにはとひくる人ぞまれなる
  正徹「草根集」
家ゐする人ぞすくなき世の中をいとひくるのみすまぬ山陰


公開日:平成18年07月23日
最終更新日:平成18年07月24日