「家持歌日記」を読む 第一部5

五、天平十三年四月二日・三日

 恭仁新京で迎える初めての夏、家持のもとに奈良の書持から歌が届く。四月二日の日付が記されているが、平城旧京から一山を隔てるばかりの恭仁へ、書はその日のうちに到達したに違いない。

    霍公鳥(ほととぎす)を詠む歌二首
  橘は常花(とこはな)にもが霍公鳥棲むと来鳴かば聞かぬ日なけむ
  珠に(ぬ)く楝を家に植ゑたらば山霍公鳥(か)れず来むかも
     右は、四月二日、大伴宿禰書持、奈良の宅より
     兄家持に贈れり


 天平十三年四月二日は、ユリウス暦に直せば七四一年五月二十日(内田正男『日本暦日原典』による。以下、暦日計算はすべてこの書に基づく)。畿内ではあたかも橘の花が咲き始め、(あふち)の花が盛りを迎える頃である。
 一首目は、「橘が一年中咲き続けている花であったなら。そうすれば、霍公鳥が棲もうとやって来て、毎日その鳴き声を聞くことが出来るだろうに」とのあり得ぬ願望を詠っている。二首目も同様の趣向だが、もう少し控えめに、せめて庭に楝でも植えてみようか、と現実的に詠み直している。愁嘆こめた歌いぶりに却って可笑しみを感じてしまうが、作者がそこまで意図したかどうかは判らない。なお「珠に貫く」とは、端午の節句に飾る薬玉の五色の糸に、花を抜き通すことを言う。
 橘と楝、共に香り高い花である。香りとは一種の霊力の顕現にほかならない。橘は常世の国から持ち来った樹木とされ、神霊が「たち」あらわれる花として信仰の対象であったし、楝もまた、菖蒲などと共に薬玉に用いられたのは、邪気を払う霊力を持つとされたからである。そのような霊的パワーが霍公鳥を引き寄せると考えたのである。
 ところで相聞に詠われる風物は、単なる時候の挨拶を超え、何らかの寓喩が籠められているのが万葉の通例である。鳥の例では、雁は音信を伝える使者、鶴の鳴き声は恋人への慕情、といった風であるが、霍公鳥は、自他を問わずあくがれた霊魂を暗喩している場合が多いように思う。

  暇なみ来まさぬ君に霍公鳥我れかく恋ふと行きて告げこそ
                        坂上女郎
  言繁み君は来まさず霍公鳥汝れだに来鳴け朝戸開かむ
                        大伴四縄
  霍公鳥鳴きしすなはち君が家に行けと追ひしは至りけむかも
                        大神女郎

 いずれも巻八夏相聞の部から引用した。万葉びとにとって、恋がその対象に向かう魂のあくがれであったことを如実に示している。いわば霍公鳥は恋の霊媒の役を負っているのである。書持の二首にも、霍公鳥を家に惹き付けることによって、離れ離れになっている兄の魂を何とか自分のもとに引き寄せたいという、切なる願望を読みとることが出来る。
 弟から二首の歌を受け取った家持は、即座に三首の歌を作って返事とした。

    橙橘(たうきつ)初めて咲きて霍鳥(くわくてう)(かけ)(な)く。此の時候に(あた)りて、
    なにぞ志を(の)べざらむ。因て三首の短歌を作り、以て
    欝結の緒を散らさまくのみ
  あしひきの山辺にをれば霍公鳥木の間たちくき鳴かぬ日はなし
  霍公鳥なにの心ぞ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる
  霍公鳥あふちの枝にゆきて居ば花は散らむな珠と見るまで
     右は、四月三日、内舎人大伴宿禰家持、久迩の京
     より弟書持に報へ送れり


 序文は、書持に宛てた書簡文から引き写したものであろうか。作歌動機を自らの心情に立ち入って記している点、興味深い。末四巻以外に収録された家持の歌に、このような序文(題詞)は一つとして見られない。これら諸巻が「家持歌日記」と呼ばれる所以でもある。
 家持は「霍鳥(かくてう)(かけ)(な)く」時候が、彼の心に「鬱結」をもたらす、と言っているように読める。そして「志を(の)べ」「短歌を作」ることで「鬱結の緒」を散らそうと言う。なぜ霍公鳥が鳴くと彼の心は鬱屈するのであろうか。
 ところで、古義は「鬱結之緒」に「おほほしきおもひ」の和訓を宛てているが、私は「むすぼほれしたまのを」と訓みたい誘惑に駆られる。往時の人にとって、現身(うつそみ)は緒によって魂と結ばれており、これを「玉の緒」と呼んだ。それが断ち切れてしまえば、現身は空蝉に過ぎなかった。そして心の鬱屈とは、玉の緒が縺れて出来た固い結び目に由来すると考えられたのである。この結ぼほれを「散らす」ために、歌を作ろう、と家持は言うのである(「散る」の原義は、固まったものが(ほど)けることである)。

恭仁の郷(京都府相楽郡加茂町)の写真へリンク


 家持の返歌を一首ずつ見てゆこう。

  あしひきの山辺にをれば霍公鳥木の間たちくき鳴かぬ日はなし

「私の住居は山のほとりだから、霍公鳥は樹々の間を潜りながら始終鳴いているよ。声が聞けない日などありはしない」。霍公鳥を居つかせるためにあれこれ心労している書持に、軽いからかいを込めているようにも聞こえる。「あしひきの」という枕詞が使われていることに注意したい。書持のいる佐保も「山辺」には違いないが、恭仁は山の深さが違うのである。
 もちろんこの歌も単なる戯れの挨拶歌ではあるまい。霍公鳥の鳴き声は、何かを告げているはずである。例えばこういう歌もある。

  古に恋ふらむ鳥は霍公鳥けだしや鳴きし(あ)が念へるごと

 吉野宮行幸に従駕した弓削皇子より贈られた歌に、額田女王が「倭京」から返した歌である(巻二)。万葉で霍公鳥が詠まれた最も古い例の一つであろう。宋の地理書『太平寰宇記』に見える「蜀魂」の故事――帝位を追われた蜀の望帝が山中に隠棲し、復位を願いつつ息絶えたが、その霊魂はホトトギスとなって往時を偲びながら「不如帰、不如帰」と昼夜を分かたず啼いた――に因むものだと言われている。霍公鳥の鳴き声は、いにしえを恋うるわが想いをそのまま代弁しているのだ、と額田女王は歌ったのである。というより、霍公鳥は女王にとって、過去へとあくがれてゆく我が魂そのものであった。
 家持もまた「古に恋ふ」ること甚だしい人であった。この「鳴かぬ日はなし」の句からも、私は家持のいにしえへ向かう魂の声を聞かずにはいられない。その過去とは、弟と共に過ごした佐保での日々と考えてもよいし、霍公鳥の悲しげな声に触発された、何時とも知れぬ遠つ代と考えてもよいと思う。
 近況報告に心情告白を兼ねたような一首目に続き、二首目・三首目は、書持の歌に丁寧に応じた形になっている。

  霍公鳥なにの心ぞ橘の玉貫く月し来鳴きとよむる

 「玉(ぬ)く月」とは、端午の節日のある月を指す。もちろん通常は五月だが、この年は閏三月があったために、四月がその月に当たったのである。「なぜ霍公鳥は橘の咲く月だけ鳴きに来て、一年中鳴き声を響かせてはくれないのか。全くおまえの言うとおり、橘が常花であったらよいのに」。霍公鳥を怨むかのごとく、弟への同感を込めて歌っている。
 第三首。

  霍公鳥あふちの枝にゆきて居ば花は散らむな珠と見るまで

 今度は書持の第二首に対応している。「楝を庭に植えれば、霍公鳥は居ついてくれるだろうか」と言って来た弟に対して、「それはいいが、薬玉にぬき通すための楝の花は、霍公鳥に散らされてしまうぞ」と、やはり諧謔を込めながら、薬玉が砕け散る鮮やかなイメージのうちに一連の作を閉じている。
 いま山を隔て異国に別れ住む兄と弟は、霍公鳥を媒として、互いに相手を思いやりつつ、離愁の情をヒューモアで包み込み、このように歌を贈答した。家持の「鬱結の緒」は、確かに砕け散ったのである。

 家持は以後もことあるごとに霍公鳥の歌を詠むことになる。この鳥の名を詠み込んだ家持作歌は六十首を優に超えるのである。彼と霍公鳥について語るべきことは多いが、またの機会に譲ることとしよう。

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(C)水垣 久 最終更新日:平成10-08-21