「家持歌日記」を読む 第一部4

四、天平十三年二月

    三香原の新しき都を讃むる歌一首 并せて短歌
  山背の久迩の都は 春されば花咲きををり
  秋されば黄葉(もみちば)にほひ 帯ばせる泉の河の
  上つ瀬に打橋わたし よど瀬には浮橋わたし
  あり通ひ仕へまつらむ 万代までに
    反歌
  (たた)並めて泉の河の水脈絶えず仕へまつらむ大宮所
     右は天平十三年二月、右馬頭境部宿禰老麻呂作る


泉河(木津川)と恭仁大橋の写真へリンク


 天平十二年十月末に平城京を発った行幸の隊列は、伊勢・美濃・近江を経由して、同年十二月十五日、山城国久迩郷に到った。現在の京都府相楽郡加茂町にあたる。車駕は大きく迂回して、奈良とは一山を隔てるばかりの土地に行き着いたことになる。此処において聖武天皇は新京の造営を宣言された。和銅三年、藤原京より遷って以後、三十年余り続いた平城の都からの、唐突な遷都であった。
 久迩の郷は、上の歌に「帯ばせる泉の河」とあるように、南を木津川が取り巻くように流れている。北は屏風を巡らしたように山々が連なり、まさに天然の要塞をなす土地である。広嗣の乱は去ったものの、当時新羅や渤海との関係は緊張が続いていたことを考えれば、一時的な避難の離宮としては如何にも相応しい場所のように思われる。しかし天皇はこの狭小な土地に都城の建設を想い描かれたのであった。平城の大極殿が解体・移築され、完成に至るのは三年後のことである。
 明けて天平十三年正月一日には、久迩において朝賀の儀が執り行われた。続紀によれば、宮の垣が未完成のため、周囲に帳帷を巡らしての式であったという。この日内裏で宴があったとの記事もあり、すでに天皇がお住まいになる仮殿は完成していたものらしい。境部老麻呂(伝不詳)が上の歌を詠んだのは、その翌月、おそらくはやはり内裏での宴席においてであったろう。初めて公式の場で詠まれた新京讃歌であったかも知れない。
 題詞にある「三香原(みかのはら)」は、古書に瓶原とも甕原とも書かれている。古義に引く『山城名勝志』には「瓶原、木津川を隔てて南なり」とあるが、遷都当時は泉河の北畔も含めて三香原と呼んだものか。地勢図を眺めると、その名の通り甕の底のような形状が浮かび上がる。聖武天皇には、皇太子時代からたびたび行幸され、親しまれた景勝の地でもあった。

恭仁宮概略図へリンク


 この年の末には、新京の正式名称が「大養徳(やまと)恭仁大宮」と付けられた。新京建設にかける情熱が推し量られる名称である。
 恭仁宮はまた布当宮(ふたぎのみや)とも称されたことが、巻六の田辺福麻呂歌集の歌から判る。

  山並の宜しき国と 川並の立ち合ふ郷と
  山代の鹿背山(かせやま)(ま)に 宮柱太敷きまつり
  高知らす布当の宮は 河近み瀬の音ぞ清き
  山近み鳥が(ね)(とよ)


 河は水量豊かに青波を湛えて流れ、山は岸に迫り青壁をなしてそそり立つ。山川の織り成す景観は変化に富み、それは地形緩やかな平城旧京には決して見られないものであった。
 家持は二十代のおよそ四年間をこの地に過ごすことになる。奈良に家族や恋人を残し、身辺孤独な日々であったが、反面、右大臣橘諸兄が主導する新京建設は、官人として心躍る経験でもあったろう。「初国小さく作らせり」(出雲国風土記)を地で行くように、草花の咲き乱れる「狭野の稚国(わかぐに)」に槌音が響き、やがて大宮や官舎が次々と築かれていったのである。

  今造る久迩の都は山河のさやけき見ればうべ知らすらし

 巻六に収められた、天平十五年秋八月作の家持の新京讃歌である。宮都造営の様を詠いあげる為には、彼の技倆は未だ到らぬものであったとは言え、恭仁の郷は彼にとって生涯思い出深い地であり続けたに違いない。


目次へ 前節へ 次節へ

表紙作品 伝記 秀歌撰 文献 リンク集更新情報



(C)水垣 久 最終更新日:平成10-07-25